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第四十九話 追憶

ここから二部になります。


『ごめんなさい』


 意識が途切れる刹那、そんな言葉を聞いた気がする。


『私は、どうしても……を……』


 オアシスの真ん中で叫ぶ少女の花嫁衣装の白さが目に焼き付く。ふわりと翻った衣装を押さえる為か腹に置かれた手も透けて見えるかと思うほど白く華奢だった。

 瞼も身体も指先すら重く、地面に縫い付けられた様に動かせない。


「カナ……ッ」


 足元を掬う様に伸びてきた闇に視界を覆われ、世界は暗転した。






「……キ、ザキ……っ!」


 悲鳴の様な女の呼びかけに、再度意識が浮上した。

 酷く痛む頭を押さえ、重い瞼を押し上げる。薬物独特の身体の気だるさに思い当たり、咄嗟に唇を噛みその痛みで上半身を起こせば、傍らには彼女が姉と慕ったイブキがいた。


「ねぇ、何かあった? 呼んでもずっと起きないし、……それに何かオアシスの様子もおかしいんだけど」


 途切れがちに問いを紡いだ唇は色を無くし小刻みに震え、彼女はきっとその答えを知っていた。しかし それでも彼女は気丈にその問いを口にした。


「……カナは、来てない、のよね……?」



 カナ。



「――どうして」


 それはどちらの言葉だったのか。


 縋り付くように握りしめた砂は、すぐに指の間から零れ落ちた。

 彼女は自分と生きていくと約束してくれた。穏やかに育っていく愛もあるだろう、ともっとらしく嘯いた自分に、何もかも分かった顔で頷いてくれた。


 幸せにしたいと思った。幸せになろうと思った。彼女もそうだと思って疑いもしなかった。


 なのに。


「……ここから、オアシスに飛び込んだ」


 機械的に吐き出した言葉に、ぐらり、とイブキの身体が傾く。


「カナ……どうして……!」


 イブキはその場に糸が切れた人形の様にしゃがみ込み、後ろから追い掛けてきたラーダはその背中を支えた。 


 微かに聞こえてくる嗚咽に追い立てられる様に、身体が自然に動く。飛び込もうとして低く屈み込んだ背中を 後ろから誰かが押さえ付けた。


「っ離せ……っ」


「まだ薬が効いているのだろう。お前まで失う訳にはいかん」

「まだ間に合う……ッ」


 ぎりっと背中の骨が軋む音がして、声にならない悲鳴が喉の奥で燻る。それでも必死で首を動かして、背中に立つ老人にすがる様に祈った。


「ならん」


 一族の長である長老は、その灰色の目にオアシスの青さを映し、遠くを見る様に目を細めると静かに首を振った。


「カナは死んだのじゃ。見るがいい。……オアシスが、枯れていく」


 ほんの数時間前まで青々と茂っていた草木は、見る見る萎れ数百年の時を経たように色褪せていく。 風に千切れて欠片だけを残した葉は、ザキが触れただけでサラサラと砕け散った。



 それは世界が終わる音だった。






* * *










「……っ!」


 狭いハンモックの上で目を覚ましたスェは、額に浮かぶ汗を拭う事も瞬きすらせずに天井を見つめていた。


「クソ……ッ」


 ややあってから、小さく息を吐き出して瞼を閉じ毒づく。

 額から首筋に流れた冷たい汗にようやく気付き、夢の残滓と共に振り切るように拭った。


「ひっさしぶりに見たな……」


 今でも瞼の裏に焼き付いている彼の花嫁だった少女。十年たった今でも繰り返し夢に見るのは、忘れたくないと心の奥底で願っているせいか。


 記憶の中の彼女の面影は、十年経っても、まだ色褪せない。

 呪いの言葉を吐くには幸せすぎて、思い出に昇華するには短すぎた日々。


 彼女が消えたばかりの頃は、その真意が分からずただがむしゃらに真実を探していた。彼女が選んだ結末があまりに『らしく』無くて、必死に真実を追い求めた。


 そして。

 探し求めた真実は残酷。


 完全に彼女を殺し、そしてスェは永久に、親友と呼んだ男を失う事となる。

 身体を動かせば、非難するようにぎしりっと磔が鳴る。


 彼女の行動一つ一つに意味があったのだと、彼女はもうああするしか道が無かったのだと、気付いた時には既に遅く。


 ――責めたかった。


 全ての事実をぶちまけて、お前のせいだと詰ればそれだけで報復は済んだ筈なのに、せめて彼女の最後の想いは自分のものであったと思わせておきたいと、お前の事など髪の一筋たりとも想わずに死んだのだと。惨めな自分の最後のプライドを守る為、衝動を押さえ込んで姿を消した。


 あのまま側にいれば、間違いなく彼を手に掛けていた。残されるナスルの事すら考えられなかった。


(……十年前、カナが生きていれば、二十六か)


 もうとっくにあの頃の自分を越えた少女。けれど瞼の裏にいる彼女はいつまでも少女のまま。どうしようも無い寂寥感が胸の奥に降り積もっていく。


 記憶の中の彼女を揺り起こし、静かに想う。

 こんな風に彼女を想うのは、もう自分だけになってしまっただろうから。


 視界の端に映る髪をかきあげ、それを掴むと少し引っ張り、自嘲気味に笑う。自分だって彼女を追い詰めた要因の一つ。例えどうしようも無い事だとしても。


 スェは手を離し、また仰向けに転がる。


(今日も色々やる事あるしな。交渉が上手くいけばいいんだが)


 明日は弟であるナスルと一緒に西の集落に赴く予定だった。現『イール・ダール』もそこに いる事から、交渉場所としてムルシドが指定してきたのだ。


(あっちに行くのは随分久しぶりだな)


 もう思い出の彼らとは一変し、カイスもサハルもすっかり大人になっていた。


(……あいつら……誰が『イール・ダール』と結婚すんだろうな)


 あの時、少女を助けに来たメンバーは、少なからず彼女の事を想っているのだろう。カイスなどその態度を 見るだけで察する事が出来た。


(まぁ、可愛い嬢ちゃんだったけどな)


 そんなに長い時間を過ごした訳では無いが、マコトと呼ばれていた『イール・ダール』は、 大人しく聡明な少女だったように思える。騒動に巻き込まれて襲われ掛けたというのに、彼女は取り乱す事無く、 冷静に状況を判断し自分の言葉を信じた。なかなか普通の少女に出来る事では無いだろう。


 ――あぁ、久しぶりに夢に見たのは、彼女のせいかもしれない。

 心の裡まで見通す様な静かな漆黒の瞳と遠慮がちに自分を見る目が、彼女に似ていたから。


(十年か)


 自分も年取るはずだよな、とぽつりと呟いて、欠伸を噛み殺す。そして閉じた瞼の裏に少女を思い描けば、――何故かブレた。 ふと、何かに気付いた様にその動きを止める。


(……十年……)


「ラジ!」


 ハンモックに体を預けたまま、スェは空中に呼びかけた。

 すぐにノックも無しに扉が開き、まだ早朝だと言うのに普段と変わらぬ様子のラジが部屋に入ってきた。


「時間外勤務ですが」


 ハンモックの中を覗き込み、淡々とした口調でそう言ったラジに、スェは鼻で笑って乾いた唇を舐める。



「村に学者崩れのジジイがいたろ。『イ―ル・ダ―ル』の研究がしたいからって、費用寄越せって俺に突っかかって来た奴」

「……ああ、いましたね。彼が何か」


 すぐにスェが上げた人物に思い当たったのか、ラジは顎に手を当て頷いて見せる。


「ちょっと呼んで来てくれないか。いや、……俺が行く。案内してくれ」


 ハンモックから勢いを付けて飛び降りたスェは、軽く身支度を整えるとラジと共に部屋から出て行った。







 そして、また世界は動き始める。






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