閑話<3> 夜明け 2(ハッシュ視点)
必死で書き写していた書物の文字が掠れて、そのまま書き損じた。
「……っ」
一度筆を置いて、苛立ちを誤魔化す様に額に掛かった髪を無造作にかきあげる。明かり取りの窓から差し込む光は、淡く霞んで、破り捨てられ丸めた沢山の紙屑を浮かび上がらせていた。
課題が終われば、サハルもきっと納得してくれるはず。
剣など持った事の無い自分が、すぐにサハルやカイスと肩を並べられるとは思っていない。だか らこそ時間を費やし、一日でも早く彼等に近付きたいと思う。
練習用の刃を潰した剣の重さにすら驚いた自分を思い出し、自嘲気味に笑う。あれを軽々と振り回す彼等を本気で尊敬し、そして羨んだ。
マコトが浚われた時に感じた不甲斐なさは、二度と感じたく無い。せめて足手まといになりたくないと、そう考えハッシュは兄弟子であったサハルに剣を教えて貰えないかと頼んだのだ。
なかなか首を縦に振らないサハルを何時間も掛けて説得し、訓練を始めて今日で三日になる。勉強ばかりで引きこもっていたせいで、突然の運動に初日から酷い筋肉痛を起こし慢性化している。本のページを捲るだけで固まった筋肉は悲鳴を上げ、そして今も身体は酷く重かった。
けれど、それでも、止めようとは思わない。サハルに言われた事は間違いない事実だ。一日でも早く強くなって、彼等と同じ位置にまで立てなければ、彼女の側にいる資格も無い気がする。その焦燥感こそが、ハッシュを突き動かしていた。
一度深呼吸し、気を取り直した所で、小さく扉を叩く音がした。
ハッシュのゲルに、あまり客が来る事は無い。珍しいな、と思いながらも立ち上がると、足の節々が軋んだ。くっと顎を引いてその痛みをやり過ごし、扉を開けると、そこには意外な人物が立っていた。
「……マコトさん」
驚きに目を見開き、思わず名前を呼べば、この集落でサラに次ぎ自分よりも背の低い彼女は、ぶら下げていた籠を両手で持ち上げて見せた。
「こんにちは。サハルさんに頂いたお菓子お裾分けに来たんです。良かったらお茶にしませんか」
そう言って控え目な笑顔を作るマコトの表情に、――手を、伸ばしたい衝動に駆られた。
マコトが戻って来てから、こんな風に二人きりで話すのは、初めてだ。
助けに行かなかった自分をマコトは一体どう思っただろうか――臆病者だと思われるのが嫌で、こうして向き合うのを避けていた。彼女は決してそんな事を言う人間では無いと分かってはいたが、それでも自分の情けなさに向き合うのが怖かった。
「そうですか。有り難うございます」
言葉少なくそう返せば、聡い少女は何か言いた気にハッシュを見つめた。
昨日から心配を掛けているのだと、何となく分かっていた。いっそゲルに引き篭もってしまえば気付かれないだろうに、やはりマコトの顔が見たくて、朝になれば重い身体を引き摺って広場に向かってしまう。話し掛ける事もせず、ただ黙って彼女を見つめるだけ、なのに。
彼女が無事で良かったと心から思う。……心から思うのに、その気持ちは本物なのに、何故助けたのが自分では無かったのか、と、酷く自分勝手で傲慢な自虐に走る。本当に愚かだ。
「お邪魔でしたか?」
黙り込んだままじっと見つめてしまっていたらしい、心配そうに顔を覗き込まれて、慌てて首を振り、少し迷ってゲルの中に案内した。寝床以外は本が散乱し、決して客を招ける状態では無かったが、そんな体裁よりも、久しぶりに彼女と二人きりで話し、ささくれだった心を落ち着かせたかった。
「じゃあ、お邪魔します」
「ええ、そこへどうぞ」
と言っても、空いているのは寝床だけだ。客人に勧める絨毯も無いしちょうどいいか、とその場所を指差すと、躊躇しながらもマコトは素直に従い、寝台の端に腰を落ち着けた。
が、次は、ハッシュが躊躇う番だった。今まで座っていた場所は、寝台とは本棚を挟んでいて、話す事は出来ないだろう。一緒にお茶を飲むなら、その隣にいるのが自然だが、そんなに近くに座ってもいいのだろうか。しかも寝台の上。――そこへどうぞ、などと勧めた数秒前の自分を絞め殺したい。よりにもよって寝床。頭が働かなかった事を差し引いても失礼だ。ああ、本当に自分は駄目すぎる。
そんなハッシュの心中など分かる筈も無く、マコトは既に用意していたらしいお茶を取り出し、コップに注ぐと、ハッシュに向かって差し出した。
不可抗力だ、と自分自身に言い訳し、ハッシュは筋肉痛だけではない強ばった足取りでマコトの隣に座って、カップを受け取った。
(久しぶり、のせいか……緊張、する……)
白く立ち上った湯気越しに、篭からお菓子を用意するマコトの白い項と、手触りの良さそうな柔らかそうな髪を盗み見る。そんな自分に不躾さに気付き、慌てて視線を逸らすと、目の前のお茶から微かに香った懐かしい匂いに気付いた。
「アクラムさんに頂いたんです」
それは母がよく淹れてくれた茶だった。南の一族の常用茶であるそれは、鎮静効果もあり、幼い頃、神経質でよく泣いていたらしい自分は毎日飲まされていた。少し苦いが後味でほんのり甘くなる。口を付けると鼻の奥が痛くなるくらい、懐かしい味がした。
「……久しぶりに飲みました。母がよく淹れてくれたんですが、学院に入ってからは、なかなか帰れなくて」
ポツリと零れた言葉にマコトは静かに頷き、手元のお菓子を勧めた。
それを一つ摘み上げて口に放り込む。甘い。ああ、いつかの。
「そういえば前もこんな風に、二人でお菓子を食べましたね」
「そうでしたね。なんかもう随分前の事みたいです」
同じお菓子ですしね、と笑ったマコトに頷いて、またお茶を啜る。甘い揚げ菓子に故郷のお茶はよく合った。同じ様にお茶を啜っていたマコトが。コップの表面に視線を落としたまま、ふいに口を開いた。
「私、ハッシュさんにお礼を言いに来たんです」
「お礼、ですか」
自然と尖った口調になった。彼女から責められる事はあっても、お礼を言われる事なんて心当たりなどある訳も無い。一体何の、と言外に含ませれば、マコトは穏やかに微笑んでゆっくりと言葉を続けた。
「私、何だかんだとハッシュさんに甘えてるんです。他の人だと聞きにくい事とか、全部ハッシュさんに聞いてるし、迷惑だよなぁって分かるのに、優しいの、いい事に頼ってるんです」
「マコトさん……?」
珍しく畳み掛ける様に言葉を続けたマコトにハッシュは驚きつつ彼女を見つめる。
彼女の頼み事など、いつだって些細な事だ。それだっていつも申し訳無さそうに頭を下げて、伏せられた瞳が自分を見上げるその瞬間が好きだった。小さな事でも頼ってくれるのが嬉しかった。――そう、嬉しかったのだ。
「……?」
何か、心の奥に引っかかった。
甘えている。頼っている。
目の前の少女から連想される言葉では無い。
できるだけ人に頼らない様に、迷惑を掛けないように振舞って、自分の力で 解決しようとする。――だから、そんな彼女の頼み事は嬉しかった。年齢が 近いからだとは分かってはいたけれど……他の候補者には頼まない事をどこかで知っていたから。
「本当、ハッシュさんがいてくれて良かったです」
マコトの言葉は不思議に心の深い所に、ストンと入り込む。
分かった。本当は。
強くなりたかった訳でもなく、ただ。
――マコトに、必要とされたかったのだ。
「あ……」
思わず掠れた声が出て、慌てて口を閉じる。手にしたお茶に視線を落として、ハッシュは何かを確かめるようにゆっくりと言葉を紡いだ。
「……僕は、サハルさんみたいに機転もきかないし、タイスィールさんや、ナスルさんみたいに剣が使える訳でも無い。こんな自分でもいいと思いますか」
聞かなくても答えは分かってる。きっと目の前の彼女は優しく微笑んで、そして。
「必要です」
いつになくきっぱりとした口調で言い切った。
「だから、これからも宜しくお願いしますね」
「……っはい」
こみ上げる何かを我慢して、そのまま頷けば、 マコトはお茶のお代わりを用意しはじめた。
「お代わりいりますよね? ……でも、ハッシュさん。教え方上手いし、優しいし、大人っぽいし、私の方が四つも上なんて信じられないです」
「そんな事は……、え……?」
素直な賛辞に顔を真っ赤にさせ、首を振ったハッシュは、言葉の途中で固まった。
(よ、四つ……?)
「今、何か……」
馬鹿な、聞き間違いだ。
背中に嫌な汗が噴出すのを感じながら、マコトの顔をまじまじと凝視する。
「……申し訳ありません、あの。マコトさんの年齢って」
女性に年齢を聞くなどタブーだ。それ位ハッシュだって知ってはいるが、どうしても確かめなくてはいけない場合もある。きっと今がその時に違いない。
「十八なんですけど、四月生まれなので、もうすぐ十九になります。あ、もしかして五つ違いですか?」
(よ、四つ違い……!)
そういえば年齢を誤魔化していたとは聞いていたが、まさか四つも上だとは思っても見なかった。
何よりこの顔で。十八歳。そんな馬鹿な。
「前の世界じゃそこまで若く見られた事は無いんですけどね」
「ははは……」
……やっぱり剣の稽古は続けよう。
年の差は縮まる事は無いが、適度な運動は成長を促す。せめて見た目だけでも彼女に近付きたい。
ハッシュはそう決意して、冷めかけたお茶をゆっくり啜る。驚く事はあったものの、久しぶりの穏やかな時間に、忘れかけていた睡魔が押し寄せてくる。
しかし、眠ってしまうのは勿体無い。きっと彼女は起こさない様にそっと出ていってしまうだろう。
もう少し、彼女の側にいたい。
眠い。けれど、眠りたくない。出来れば、ずっとこのまま――。
トン、と肩に軽い感触を感じ、マコトは少し驚いてハッシュを見た。
晴れた砂漠の空をそのまま写しこんだ青い瞳は閉じられ、次いで 規則正しい呼吸も聞こえ、マコトは苦笑する。
(よっぽど疲れてたんだ。……このお茶が効いたのかな?)
お茶の効能と言うよりは、母親の懐かしい味を思い出し、リラックス出来たのだろう。
まさか自分の一言が、自己嫌悪という泥沼から抜け出す切欠になった、とは夢にも思わないマコトは、そう結論づけ、手にしていたカップを絨毯の上に置く。
そっと伺い見れば、ハッシュの眠りは深く、起きる様子は無かった。
(首、痛くならないかなぁ……)
と、心配になった所で、ハッシュの頭が重力に沿うように前のめりになり、そのままストンと膝に落ちた。
「ぁ……!」
「……ん」
さすがの衝撃に低く唸って眉根を寄せたハッシュに、反射的にマコトは息を詰める。いわゆる膝枕の状態だったが、せっかく眠れたのに、ここで起こすのは忍びない。
(……まぁいいか。別に用事がある訳じゃないし……)
朝の支度をして、アクラムのおやつを作れば、後は特にする事も無い。服の裾詰めはとっくに終わったし、暇を持て余していると言っても良かった。
静かに寝息を立てているハッシュの寝顔は穏やかで、普段より幼い。
顔だけ見れば年下なんだけどなぁ、とハッシュが聞けば地面の下までのめり込みそうな事を思って、そっと柔らかそうな金の髪を撫でてみた。
(わ、ふわふわ……)
無意識なのだろう、ハッシュは気持ちよさせうに膝に頬を擦り付ける。猫みたいで可愛い、と顔を綻ばせ、マコトは、やさしく髪を撫で続けた。
――それから数時間後、ゲルに戻らないマコトを心配し、ハッシュの元を訪れたサハルは、「いえ、長すぎる昼寝は夜の睡眠を妨げますからね」と、物凄い笑顔でハッシュを起こした。もちろん、ハッシュは慌てふためき、マコトに額を絨毯に擦り付ける勢いで謝った。
そして。
翌日の稽古は、今までと比べようも無い程厳しくなり、ハッシュの剣の腕は、急成長を見せる事となる。
――ついでに。
どこかで膝枕の一件を聞き付けたらしいアクラムは、二度とマコトに茶葉を提供する事は無かった。




