閑話<2> 林檎
(上手く出来たかな……)
時間は正午を回った所、いつものようにマコトは台所で差し入れを作っていた。……と言っても、ニム が「アクラムだけずるい」と子供の様に駄々を捏ねたので、それならば、と結局集落に残っているメンバー全員のお菓子を作る事になってしまったのだ。
今日は昨日に引き続き居残り組のサハル、ハッシュ、それにニムにサラ。自分と合わせて六人分。 苦では無いが、大勢に口にしてもらうとなると緊張するのも確かで、貯蔵庫にある材料と相談して、 手馴れた林檎ケーキにする事にした。派手では無いどちらかと言えば素朴なお菓子だが、幼い時、母親によく作ってもらったおやつなので、火加減さえ間違わなければ、失敗は無い……と思うものの、やはり蓋を取る瞬間は緊張する。
――もう、そろそろかな。
そっと蓋を開けると、生地がふんわりと綺麗に顔を出していた。ふわっと優しく香った林檎の匂いにマコトは表情を和らげる。
(良かった……上手く焼けたみたい)
焼き上がりといい、匂いといい、記憶の中にある母の林檎ケーキと同じだ。二人で住んでいたアパートにオーブンは無かったので、ホットケーキミックスを使い、同じ様にフライパンで作った。母親の仕事が休みの日のおやつは決まってこれで、自分がやる! と駄々を捏ねた当然の結果である粉だらけにしたテーブルを二人で片付けながら焼き上がりを待つ間、学校であった話や、他愛無い話をして過ごした日々。 最近――特にこの世界に来てから、ふと思い出す。まだ微かに胸は痛むけれど、 それよりもその暖かな記憶が心を優しくさせた。
「……懐かしいなぁ」
そうぽつりと呟いて、布巾でフライパンの取っ手を掴み、慎重に傾けて、スポンジを皿に移した。
(シナモンがあればいいんだけど……)
とりあえずサハルから譲って貰った香辛料や調味料にそれらしいものは無かった。それでも目の前の優しい色のスポンジに頬が緩む。
鼻歌を歌いながら、伸び上がったりしゃがんだり色々な角度からチェックして満足げに「よし」と頷いた。その瞬間。
「……っ」
堪えきれないように小さく吹き出した笑い声が間近で起こり、マコトは驚いて顔を上げる。見上げたその先には、口に手を当て穏やかに微笑むサハルがいた。
「サ、サハルさん……っ」
一体いつから。
ケーキ相手に鼻歌まで歌って、にやにやしていた気がする。さぞかし奇妙に映ったに違いない。
(……恥ずかしい……)
首筋まで真っ赤にさせたマコトに、サハルは笑いを収めると、こほん、と咳払いし首を振った。
「失礼しました。あまりに貴女が可愛かったので」
穏やかな口調でそうフォローされ、マコトはますます居た堪れない。
「すみません、あの、子供みたいで。その、ケーキ、上手く出来たんで、嬉しく、……なって、しまって……その」
言い訳っぽくしどろもどろと呟いたマコトに、サハルはますます笑みを深める。 可愛くて仕方ない、とその垂れた眉尻が語っていた。
「本当に……貴女は」
「はい……?」
不自然に開かれた間に、マコトはサハルを見上げて、首を傾げる。その子供めいた仕草にサハルは苦笑すると、いいえ、と静かに首を振った。
* * *
すっかりそれ専用となってしまった籠に、あら熱を取った林檎ケーキを入れてマコトが訪れたのは、もちろんアクラムのゲルである。
用事があるというハッシュがサハルを呼びに来るまで、すっかり話し込んでしまったせいで、いつもより少し遅れてしまった。駆け足で砂を蹴り上げながら、その時のハッシュの表情を思い出し、ふと首を傾げる。
(ハッシュさん、最近、元気無い気がするなぁ……、サハルさんと真面目な顔して話しこんでる事が多いし)
朝食の席に遅れた事は無いが、眠そうな、――と言うよりは疲れた表情を見せる様になった。また遅くまで本でも読んでいるのだろうか、と思った所で、アクラムのゲルに到着する。
遠慮がちに特徴ある飾りがついた扉を叩くと、今日は声だけでなく、ぎぃぃっと音を立てて扉が開いた。取っ手を掴み掛けたマコトは慌てて手を引っ込め、隙間から顔を出したアクラムにぺこりと頭を下げる。
「すみません、遅くなってしまって」
どうやらわざわざ出迎えてくれたらしい。
頷いただけでくるりと背中を向けたアクラムを追いかけ、 ゲルに入ったマコトは、よいしょ、と重たい籠を絨毯の上に置いた。
「失礼します。今、お茶淹れますね」
「既に用意している。――出せ」
既にお菓子を食べる時の定位置に座り込んだアクラムは、未だ立ちっぱなしのマコトを見上げ、子供の様に片手を出し不躾に催促する。言葉通り絨毯に上に少し離されたカップが二つ用意されていた。
「……あ、はい……っ」
アクラムの正面よりはやや右、にしゃがみ込み、マコトは籠から皿ごとケーキを取り出し、アクラムの目の前に差し出す。香ばしい林檎の匂いにアクラム結ばれていた口元がほんの少しだけ緩んだのが分かって、マコトは いつもと違うアクラムの行動に、少し緊張して強張っていた肩から力を抜いた。
(……待たせちゃったみたい)
それほどお菓子を楽しみにしててくれたのかと思うと、申し訳無いと思う一方で喜んでいる自分がいた。例え小さな事でも必要とされている事が、実感として感じられて嬉しい。
目の前のお茶を見下ろして見ても、内側には水滴が付いており、淹れられてから 随分時間が経っている事が分かった。
(どれ位待っててくれたのかな。私の分も用意してくれてる)
「……有難うございます」
その気遣いが嬉しく、再び頭を下げると、アクラムはくぐもった声で返事を返した。 既にケーキを掴み、頬張っていて、その素早さにマコトは苦笑する。
「じゃ、頂きます」
いっそ気持ち良いほどの食べっぷりを見守りながら、マコトは目の前に出されたお茶を啜り――固まった。すっかり温くなった茶色のお茶は不思議な味で近いところで言うと漢方薬っぽい。その上、 舌が痺れそうになるくらい甘ったるかった。
(なんかねっとりしてる……けど)
つまりは砂糖が大量に入っているという事だろうか。砂漠の地では、 糖分補給が大事と言えどもこれはやりすぎである。マコトは嘗めるようにお茶を啜りながら、明日から アクラムのおやつは砂糖控えめにしようと決意した。
これでよく太らずにいられるものである。本気で身体に悪そうだ。
お茶を啜り、アクラムが二つ目のケーキに手を伸ばした所で、 フードから零れるアクラムの長い髪にケーキの欠片がくっついてる事に気付いた。
「あ、髪の毛に」
マコトは自分の髪の毛の同じ場所を指差し、アクラムに教える。動きを止めたアクラムはほんの少し首を傾げて、視線だけをきょろりと動かし、「そうか」と答え、また頬張った。しかし一向に取る様子は無い。
「ええっと……」
何だか放っておくと、このままにしてしまいそうである。
「あの、私が取ってもいいですか」
おずおずとそう申し出てみれば、アクラムは鷹揚に頷いて、その手を止めた。
「構わん」
とりあえず了承を得たのでマコトはそろりと近寄り、フードを少し避けて、 スポンジの屑を慎重に摘み上げた。
(わ、サラサラ……)
「……綺麗な髪ですね」
思わずそんな言葉が口から漏れて、あ、と気付く。仮にも男性に髪が綺麗というのは褒め言葉では無いかもしれない、しかしアクラムはそんなマコトの心配もどこ吹く風で、興味無さ気に、フードを指先で直すと、手にしていた最後の一欠けらを口に放り込み、マコトが触れた髪の辺りに視線を向けた。
それを見つめて、ふと視界の端に映った自分の髪とを比べて、小さくため息をつく。
(同じ黒髪なのになぁ……艶が違う、というか)
「……この世界の人たちってみんな綺麗ですよね。サラさんやカイスさんなんて銀髪だし、……ナスルさんも鮮やかな赤で」
そういえば彼の兄――スェも目が覚めるような赤だったと思い出す。
彼はまだ帰っておらず、何となくもう帰ってこない気がしていた。 顔を合わせて気まずいのはこちらも同じだが、しかし彼は仕事と言えども、 危険を冒し助けに来てくれた。それに、彼は最初から自分を拒絶していたのだ。淡い期待を抱いたのはこちらの勝手で、最後は結局当たり散らして――彼を傷つけたのだと思う。
(……謝らなきゃいけないよね)
それからお礼も。
そんな事を思っていると、ふいに、アクラムがマコトの手首を掴んだ。驚くよりも先にぐいっと引き寄せられ、その薄い唇が、ぱくりと指を咥えた。
「……っあ、くらむさん……!?」
掴まれたまま、何を、と後ろに引いたマコトに構わず、伏目がちにその長い睫を落とす。親指を柔らかく噛まれて、力が抜けて空いたその隙間にねっとりと舌が這い、しばらく彷徨った後、そっと離れていった。
呆然としたままその指を見下ろして、ようやく気付く。――摘んだケーキの欠片が無くなってる事に。
「……アクラムさん……」
「何だ」
「……欲しい時は、ちゃんと口で言って下さい……」
脱力して、マコトはアクラムに噛まれた指先を見下ろす。こう言っては何だが、前回の匂いといい、アクラムは本能で動きすぎである。まがりなりにも自分だって女の子なのだし、もう少し自重して欲しい。恥ずかしいというか照れるといか、そもそもこの指はどうすればいいのか。
「――げばいい」
少し考え込んでしまったせいか、アクラムの言葉を聞き逃し、マコトは慌てて顔を上げた。
「……あ、すみません、今」
なんて言ったんですか、と問いかけたマコトにアクラムは、籠の中にまた手を伸ばしケーキを取った。零れ落ちそうだった林檎の欠片を摘んで、口の中に放り込む。
「先程の答えだ。銀髪が好きなら、カイスに嫁げばいい」
「――え?」
銀髪が好き? 綺麗だとは言ったが……。いやそれよりも「とつげばいい」とは、一体。
「銀は優性だ。どんな髪色を交ぜ合わせても必ず銀色になる」
ごくり、と口に残っていた物を飲み下し、アクラムは簡潔に言い切る。
まぜあわせる……? 先程の「とつぐ」から察するにつまり、
「……子供の、髪ですか……」
一体どこまで話が飛ぶのか。先程の本能と言い、髪の毛を綺麗だと言っただけで子供の髪の話に行き着く彼の思考回路はきっと迷宮だ。
「では赤か。赤も武芸に秀でる色味だ。同じ様に赤になる」
マコトの否定に少し眉を顰め、また斜め明後日な方向を提案する。 ……よりにもよってナスル。彼は自分とナスルの事情は知らないのだろうか。あるいは彼にとって考慮すべき事ではないのかもしれない。
「いえ、あの……そうじゃなくて、あの純粋に綺麗だと」
「強い血ほど色濃く出る。だから地位にも関係する」
「……え? ……どういう意味ですか?」
話が逸れそうな気配を感じ、マコトは妙な恥ずかしさを押し隠し、即座にそちらに話題転換した。それに少し興味深い内容でもあったからだ。
確かにカイスは次期頭領で、部族で言うのならば一番地位 が高いと言う事になるのだろう。ナスルの兄も王の右腕になれるくらいだったのだから、それなりに地位も高かったに違いない。
「銀と赤はどのような色を混ぜ合わせても、その色にしかならない。この世界では変わらぬものは、尊い」
ゆっくりと同じ言葉を繰り返したアクラムに マコトは、驚きに彼の顔を凝視する。
(えっと……100パーセントの確率で遺伝するって事……?)
それほどまでに濃い血。マコトがいた世界でも遺伝はするが、ここまで確実なものは無い気がする。もしかして自分とここの住人とでは、 身体の仕組みからが違うのだろうか、と考えるとどこまでも悩めそうだ。
(勉強した方がいいよね。この世界の事)
そう改めて思い、もう少し頑張ろうと決意する。主にサラに常識の類は教えて貰ってはいるが、あまり自分の事ばかりに時間を取らせるのも気が引けるので、ある一定の時間だけ、とマコトは心の中で決めていたので、なかなか進まない。ちなみに今教えてもらっているのは、この世界の貨幣価値と買い物の仕方、だったりする。
黙り込んだマコトに、アクラムは何か思いついたように、顔を上げ薄い唇を開いた。
「――ああ、馴染んだ黒がいいなら、私が一番適任だが」
殊更ゆっくりと、言葉に温度を乗せたどことなく色めいた言い方に、 マコトは一瞬固まり、それから顔を真っ赤にさせて思い切り首を振った。
アクラムは親指と人差し指を赤い舌で舐め上げ、微かに笑う。そして、 空っぽになった籠をマコトの方へ押し戻した。
「今日もうまかった。だが明日はもっと早くに来い」
その言い方が、一瞬前とは同一人物だとは思えない程子供っぽく、マコトは強張っていた肩の力を抜き、微笑んだ。




