閑話<1> 抱擁
何か言いたい事があるんじゃないかと、そう気付いたのは、昨日、野盗の元から無事帰還してすぐの事だった。気付くと同じ場所にいて、何かを話す訳でもなくこちらをじっと見ている。そしてそんな事が何度も続き、そしてやっぱり今日も。
昨日に引き続きじりじりと近付いてきた自分と彼女――ニムとの距離は二メートル弱。無視するにも会話をするにも微妙な距離で、ほんの少し顔を傾ければ、視界の端に映った彼女は、何かを言いかけてまた口を閉じる、という仕草を繰り返していた。
(えっと……)
今は朝食も済み、後片付けももうすぐ終わろうとしており、マコトの隣にはサラが、少し離れた後ろの作業台ではサハルとハッシュが難しい顔をして話し込んでいる。タイスィールとカイスは王に盗賊の一件と――マコトの決断を伝える為に、嫌がるサーディンを引きずり西の一族が住んでいる集落へと出発した。
アクラムはいつもの如くゲルに引きこもっているが、彼が出てくるのは何かあった時だけなのを考えれば、実に平和な昼下がりと言えた。
昨日スェと共に残ったナスルはまだ帰ってはおらず、タイスィールの元へは昨日何か報告があったらしいが、詳しい内容をマコトは聞いていない。
何故自分が攫われたのか、どうして王の右腕だった彼が野盗の頭領などしているのか。勿論気にはなるが、スェの事を尋ねるとナスルのプライベートに無断で立ち入る気がして、再び口に出す事は憚られた。
(何か、言いたいんだよね……)
水を切った手元の皿に視線を戻して、マコトは心の中で呟く。いつまでもここにいる理由は無く、マコトは皿を置き、思い切って体ごとニムに向き直った。
突然のマコトの行動にニムはぎょっとしたように両目を見開き、それから少しバツが悪そうにきゅっと眉を寄せて、マコトを睨み付けた。
「……何よ」
「ニム!」
ふてくされた返事にすぐそばで聞いていたサラが、マコトを庇う様に前に出ようとする。それをやんわりと押し留めて、マコトは真っ直ぐにニムを見つめ返した。
「何か用があるんですよね?」
静かに放たれた問いに二ムは苦虫を噛み潰した様な顔をし、小さな声で何か呟いた。
「――のよ」
「あの……?」
彼女らしくなく、ぼそぼそと口の中で呟かれた言葉は、あいにくマコトの耳には届かなかった。
そして再び黙り込んでしまったニムを見つめ、急かす事なくマコトは自分より十センチ程高いニムの顔をじっと見つめる。ややって。
「……そういうなんでも分かったような所がムカつくのよ」
ボソッと呟いた言葉に、マコトでは無くすぐ後ろに控えていたサラの眉が盛大に跳ね上がった。
「ちょっと……!」
いつも大人しいサラの怒鳴り声に近い声に、サハルとハッシュが驚いた様に顔を上げ、三人に注目する。サラは二人の間に割り込むようにマコトを庇い、ニムを睨むように見上げた。
「さっきからなんであんたが間に入ってくんのよ!」
「何をです! そんなの知りません! もうっ暇さえあればチクチクとマコト様を苛めてっ! 今日という今日は言わせて頂きますから!」
顔を真っ赤にさせ、更に怒鳴ったサラに、ニムは一層眉間の皺を深くする。そして一連のサラの行動に驚いてただ呆然としていた当の本人のマコトは、ようやく我に返り、二人を宥めようとした、が。
「だからアンタのそういう所が嫌いなのよ!」
「ニムっまた失礼な事をっ!!」
二人の勢いに押されてマコトは黙り込んだか、すぐに思い直し、まずはサラの手を取った。
「マコトさま……?」
きょとん、とマコトを見つめ、訝しげに眉を寄せたサラを真っ直ぐ見つめ返した。
「えと、サラさん。庇ってくれて有難う、ございます。すごく嬉しいです」
「……マ、マコトさま……っ」
繋がれた手とマコトの顔を交互に見つめて、サラは感動した様に目を潤ませる。出来るだけ優しく頷いてマコトはほんの少し口調を強めた。
「大丈夫ですから、少しニムさんとお話させて下さい」
でも、とニムの方に視線を流したサラは不安そうにマコトを見る。そんなサラにマコトは安心させる様に頷くと、渋々後ろに下がった。
「ニムさん」
「……だからアンタのそういう、なんでも分かってますっていう態度が気に入らないのよ」
繰り返されたその言葉の意図を掴み兼ねてマコトは首を傾げる。
(どっちかっていうと、何にも分かってなかったんだけど)
嫌味だろうか、と一瞬考えて、真っ直ぐなニムの瞳にそうでない事を知る。
「カ……、タ、タイスィール様ともベタベタして、あまつさえお兄ちゃんともいちゃいちゃして目障りなのよっ」
「いちゃいちゃ、ですか」
反芻する様に繰り返した後、その意味に気付き、マコトは真っ赤になって思い切り首を振った。一体、いついちゃいちゃしていたというのか。言いがかりだ、と考えが顔に出ていたらしく、ニムは堅く握った両の拳を握り、興奮に赤くなった瞳をマコトに向けた。
「してるじゃない……っアンタがお兄ちゃんに抱きついてたの、あたし知ってるんだからね」
そこまで言われてようやく思い当たった。確かに、抱きついた、と言うか……胸を貸して慰めて貰った事はある。
(そういえば、サハルさんを呼びにニムさんが来たんだっけ……?)
「……っ」
あれを見られていたのだろうか。
マコトはますます顔を赤くさせる。サラとハッシュもその内容に驚き同じタイミングでサハルとマコトを交互に見たが、サハルは何も言わずに口の端に穏やかな笑みを浮かべて るだけで口を開く様子は無く、ニムの言葉は真実味を増した。
「っそれは……ッなんでそこまで言われなきゃいけないんですか」
ぐっと詰まったものの、理不尽な言葉にさすがにむっとしてそう返せば、ニムの口元が、微かに吊り上がった気がした。
その不思議な表情に眉を寄せれば、ニムはつんそっぽを向く。そしてちらりとマコトを見て投げ捨てた。
「言いたい事があるなら言いなさいよ。……ちゃんと」
微かに空けられた間。何かを含んだ口調に、マコトに閃くものがあった。
「……ニムさん」
沈黙が降り、挑発する様にニムの顎がくぃっと持ち上げられる。その子供めいた仕草にマコトは確信した。
……ああ、分かった。
彼女がこんな風に突っかかってくる理由。
『言いたい事があるなら言いなさいよ。……ちゃんと』
きっと今の言葉の通り、言いたい事あるなら黙ってないでちゃんと言え、と、自分に言っているのだろう。
確かに今まで自分は波風を立てる事を恐れ、ただ黙って誰かに従い何も言わずに過ごしてきた。カイスの事を抜いたとしても、流されるだけの自分をきっとニムは歯痒く思っていたのでは無いだろうか。ニムは確かに直情型だけれど、その分意志は強く、自分に正直だ。いつも顔色を伺う自分とは正反対で、そんな彼女がどこか羨ましかった。
……きっとこれは意地っ張りな彼女の仲直りのきっかけなのだ。
そう結論付けると自然に緩む顔をもっともらしく引き締め、マコトは一度大きく息を吸い、真っ直ぐニムを見つめ直した。微かにつり上がる唇の端。
大丈夫。
予想は確信に変わる。
「いいじゃないですか。サハルさんと仲良くしても! すっ少し位、貸して下さい……っ」
さすがに最後は図々しいかと思ったが、とっさに口に出た言葉はもう取り消す事は出来ない。
マコトの上擦った精一杯の主張に、止めるべきではとおろおろするハッシュを宥めて成り行きを見守っていたサハルが、嬉しそうな少し困った様な複雑な笑みを浮かべた事に誰も気付く事は無かった。
「嫌よっあたしのお兄ちゃんなんだからっ。あんたにはハッシュだって、タイスィール様だっているでしょ!」
「ニムさんだって! カ」
「な、何よ」
「あの、……いえ、特には」
うっかり勢い良く吐き出してしまいそうだった名前を、慌ててマコトは飲み込む。
さすがにここでニムの想い人の名前を告げるのはまずい。ハッシュが気付いているとは思えないし、肉親であるサハルには、当然内緒にしておきたいだろう。そう思ったマコトは咄嗟に誤魔化し、視線を泳がせたが、頭文字一つで恋する乙女は気付いたらしい。
「……あんたっ! まさか知ってるの? サラあんたよくも言ったわね」
掴み掛かる勢いでそう怒鳴り、ニムはぎろっとマコトの後ろにいる小柄な少女を睨んだ。
「いっ言ってませんわよっそんなの見てたらバレバレですっ!」
びしっと人差し指を突きつけられて、サラは慌てて首を振ってそう返す。思い当たる事でもあるのか、ニムはうっと後退って、マコトに視線を戻した。ウロウロとさまよっていた目が何故かマコトの胸に止まり、ニムはむっと眉間に皺を寄せた。
「っ大体! あんたのその胸とか、何なのよっ嫌味でしょうか!」
(話題転換したかったからって……!)
思わず胸を押さえたマコトは、恥ずかしさを誤魔化そうと叫ぶ様に反論する。
「好きでこんなに育った訳じゃないんですっ! それならニムさんだってあたしが小さいからっていっつも上から見下ろして。その身長羨ましいですっ!」
「そんなのあたしのせいじゃないでしょ! それにちょっと料理が出来るからって、あちこちに差し入れなんかして、いやらしいのよ!」
「胸だって私のせいじゃありません! 差し入れは貰い物のお礼とか……」
話はだんだん逸れて、表情もだんだん堪えるものになっていく。だんだんふっかける話題も無くなっていき、お互い小さく息を吸った所で、ニムが今までとは比べようが無い程小さな声で呟いた。
「……とりあえずあんた今の所、カイスと結婚しようとは思ってないのね?」
「全く思ってません」
きっぱりと言い切ったマコトに、分かりやすい程ほっとした顔をしたのは、ニ ムとハッシュだったが、残るサハルは苦笑しサラはどこか残念そうな顔をした。
「……じゃあ、いいわよ」
ポツリと呟いて、ニムは黙り込む。そしてややあってから視線を外したまま小さな声で囁いた。
「ありがとう、それから……悪かったわ」
それは庇った事へのお礼と今までの詫びなのだろう。嬉しくなったマコトは、ニムと視線を合わせ笑顔を作る。
(嬉しい……)
「いえ。私こそうじうじ考えてばっかりで、人の顔色ばっかり伺ってました。はっきりしなくてごめんなさい」
そう言って首を振ると、ニムは手を広げぎゅっとマコトに抱きついた。
「仲直り、ね。これからもよろしく」
暖かい。女の子らしい華やかな匂い。
耳元で照れくさそうに囁かれて、マコトは「はい」と頷き、ニムの背中に手を回す。しかしこれでようやく近づけた――と、ほっとした瞬間、がしっと肩を掴まれ勢いよく引き裂かれた。
「ちょっと! ニムひどいですわっ! マ、マコト様は私の主なんですっ私を無視して、いつのまにか仲良くなるなんてズルいですっ」
二人の間に身体を滑り込ませ、サラはマコトに向き直った。拳を握り締め、驚きに目を見開くマコトを見上げた。
「マコト様、私、マコト様の事好きなんですっ大好きなんですっ! 『イール・ダール』じゃなくても、きっと好きになってましたっ」
カイス辺りが聞けば「告白かよ」と突っ込みそうな言葉だったが、サラは大真面目だ。
「あんたそういう趣味が……マコト悪い事言わないわ。この際だしお兄ちゃんにしときなさい。妹が言うのも何だけど、優しいし、将来性もあるし、ちょっと地味かもしれないけど顔もいいし!」
顔を引き攣らせてサラから離れたニムは、自分の兄を指さす。
「……私達はお邪魔みたいですね」
その指の先にいたサハルは、思わぬ妹からの援護に苦笑しつつも、ハッシュにそう言ってその場を離れた。
賑やかな話し声はゲルに戻ってから夜中過ぎまで続き、次の日朝食作りに現れたマコトは、少し疲れた顔をしていた。
おまけ
「なんだよ。サハル、俺の顔になんか付いてるのか」
「いえ……年頃の妹を持った兄って切ないなぁと」
「はぁ?」
「いえ、まぁいつまでも兄離れ妹離れしない訳にはいきませんからねぇ。いい機会です。カイス宜しくお願いしますね」
「……意味が分かんねぇんだけど」




