第四十五話 持ち得る限りのやさしさで
ラジの言葉が耳に入り、脳に届くまで時間が掛かった。なぜ、と問い返そうとした言葉が零れ落ちるのを、口を塞いだ大きな手が阻む。ラジは静かにテーブルの方に視線を流してから、名残惜し気に近くにいる男に視線を置くと、薄く唇を開いた。
「見られながらやるのは趣味じゃない」
「……へぇへぇ。上品なこって」
「さっさと回せよぉ」
男達はそれぞれ思い思いの顔をし口々に悪態をついたが、それでもラジの言う通り、視線を外し手持ち無沙汰を慰める為か酒盛りを再開した。
脇にいた男も忌々し気に舌打ちし、騒ぎ始めたテーブルの方へ荒い足音を立てて移動する。
「――なあ、スェが戻ってくんの明後日だったよな」
「ああ、明日の出発でも充分間に合う。まずは北の……」
打ち合わせを始めたらしい男達の話し声が、マコトの耳にも届き始めると、ラジはまた視線をマコトに戻した。そして。
「……っ」
下りていった手のひらがゆっくりと移動する。咄嗟に身構えたマコトだったが、いくら時間が経ってもその手が一向にマコトに触れる事は無かった。恐る恐る首を伸ばし視線を下げれば、ラジの手は、肌に触れるぎりぎりの場所で止まり、そのまま上下に動いていた。
(……え……)
そんな動きを繰り返し一向に触れる事の無いラジの不可解な行動に眉を寄せたマコトだったが、すぐにその意図に気付き息が掛かる程、至近距離にいるラジの顔を見上げた。
「……じっとしていろ」
視線が絡み合う。ラジの目が何かを伝えるように瞬き、真っ直ぐ見つめ返される。
(なに、どういう……?)
……何かあるのだろうか。口を噤み様子を伺えば、ラジはマコトの腰に腕を差し入れ少し壁が窪んだ場所に身体を移動させた。ラジの身体と壁で男達のテーブルが見えなくなる。つまり男達からも死角になったと言う事だ。その事に気付き、マコトはまだはっきりしない頭を必死に動かして考える。
(……助けてくれた、んだよね? ……それに、時間稼ぎしてるみたい)
先程から太腿を這う手の動きは同じ。触れるか触れないかのぎりぎりの位置を保ったままで、少し離れた場所から見れば唯一見えるであろう足を撫でているように見えるだろう。
「……スェ様が来れば、すぐに解放してやる」
抑えた声に、マコトは自分の考えが正しい事を知る。この場所からの解放なのか、彼らからの解放なのかは分からないが、ともかく彼は自分に危害を加える気は無いらしい。
予想通りスェという人が来るまでの時間稼ぎをして、男達から身を守ってくれているのだろう。
(スェって……さっきも話に出てた……)
様を付けて名前を呼ぶと言う事はつまりは、今ここにいる彼等では無く、スェと呼ばれる男側の人間なのだろうか。
疑問は疑問を呼び、答えの出ない問いに男に戸惑った視線を投げるが、男はそれには答えず覆い被さる間際の体勢でじっとしていた。
(よく分からないけど、じっとしてた方がいいよね……)
落ち着きが戻ってくれば、ほんの少し余裕も生まれる。
至近距離にいる男を改めて観察すれば、一人だけこざっぱりした服を着ており、その涼しげな風貌からはとても野盗には見えなかった。年は三十を少し越えた位だろうか。砂漠の男らしいよく日に焼けた肌に切れ長の目は、こんな時でも落ち着いた印象を与える。男達からもどことなく一目置かれている雰囲気もあった。
(そういえば、集落に来た時、取り逃がした人がいるかもしれないって言ってたけど、それってこの人の事、かな)
マコトは首を傾け今度は離れた場所にいる男達に視線を上げた。
男達は二人の様子を気にしながらも、酒を傾け、前祝いだ、と叫ぶ声があちらこちらから掛かり、乾杯を繰り返している。
「西のヤツラも――」
「……!」
酒が回って来たのか、男達の声が一際高くなる。気になる彼らの名が耳に飛び込み、胸が痛むのは罪悪感かそれとも他の何かか。それでもその先が気になり、マコトは息さえ詰めて、男達に意識を集中させた。
……ラジの言葉が正しければ、彼らの元に帰る事が出来る。しかし果たして彼らは自分を歓迎してくれるだろうか。当たり障りの無い態度を取っていたものの、心の中では拒絶していた。タイスィールを傷つけた自覚もある。それでもこの世界で帰れる場所、と言われれば、西のあの、集落しかない。
「あいつらも馬鹿だよな。候補なんて出して選ばせるなんて悠長な事してねぇで、さっさと孕ましちまえば良かったのに」
(え……)
思わず上がりそうになった声を飲み込み、マコトは眉を顰めると、男の言葉に耳を傾ける。
「だなぁ、ガキさえ出来てればいい証拠になるだろうに。善人ぶってるからこんな事になる」
「奴らだってギリギリだろ。若い『イール・ダール』がいないのは西だけだからな」
次々と聞こえてくる言葉は、思っても見ない言葉で、マコトははっと息を飲んだ。
(……そうだ。カイスさんのお母さんは亡くなってるって言ってた。十年前に来た人も亡くなったんだから、きっと今は……)
野盗の言う通り、オアシスの所有権を持つ自分の身柄を確保して置きたい筈だ。確実に、切実に、喉から手が出るほど欲しいはずで。水が無いと人間は生きられない。当たり前の事だが、この渇いた世界では、それは命を繋ぐとても大事なものだ。……自分が、思うよりも切実に彼らはオアシスを求め欲していたのだろうか。
冷たい地面の感覚に押し潰された腕がじんじんと痺れてくる。しかしその鈍い痛みは頭の中を冷ましてくれた。
そう、きっと。
(こんな風に)
彼らが本当に自分の事しか考えない身勝手な人なら、――こんな風に、無理矢理奪えば良かったのだ。
(それでも。……時間を、くれたんだ)
後が無いのに、それでも時間をくれた。自分の意見を尊重してくれた。アクラムだって、サーディンだって、多分、サハルもハッシュもタイスィールも年齢を誤魔化していると気付いていたのに、知らない振りをしてくれた。
(あの人達はみんな……)
いつだって、優しかった。
本当の兄の様に甘やかしてくれるサハルに、タイスィール、アクラムもサーディンだって彼らなりのやり方で気遣ってくれた。些細な問いにも真面目に答えてくれたハッシュ、甘いものを差し入れてくれたカイス、献身的に身の回りの世話をしてくれたサラ、嘘を黙っててくれたニム。自分を試したナスルですら、怪我をしないように落ちてきた鍋から庇ってくれた。
自分だけが不幸で、いじけて、殻に籠もって。上っ面だけ物分かりのいいフリして差し障りなく会話して、でも本当は、周囲の事なんて考えなかった。
(……私って馬鹿……)
熱く滲んでいく視界の中、奥歯を噛み締めて涙が零れ落ちるのを堪える。
「……おい」
マコトの様子に気付いたらしいラジが訝し気な顔をし、低く声を掛けるが、マコトはそれに答えることすら出来ず、ただ、反射的に首を振った。
自分が最初から、何か隠していると、その嘘に気付けたのは、彼らが嘘をつきなれていない優しい人間だからだ。
本当に『イール・ダール』がいるのなら、絶対的な力で押さえつける方が簡単だったはず。
彼等の優しさは本物だった。だからこそ自分はあんなに傷ついたのだ。紛い物や上っ面だけの優しさを見続けてきた自分が見抜けないはずが無かったのに。
「……っ……」
堪え切れず漏れた嗚咽に、ラジがますます眉を潜める。駄目、と唇を噛み締めて、ぎゅっと固く目を瞑る。今、ここでバレてしまえばせっかくのラジの芝居が無駄になってしまう。
けれど、後悔の波は次から次へと押し寄せて、胸が苦いもので一杯になって息を潜めることすら難しくなる。
(本当に馬鹿……。自分の事だけでいっぱいで、可哀想な自分しか見えてなくて、気付こうともしなかった)
こんな事にならなきゃそんな事に気付けなかった自分が情けない。嘘を引き換えにしても彼等の優しさは有り余るほど。頭を撫でられるその感触は忘れてた、いや忘れようとしていた感情を思い出させてくれた。
彼らだって、必死なのだと、そして自分の嘘を責める事だって出来たのに。言わないでいてくれた。きっとこれ以上傷つかない様に、心を守ってくれていた。
(……謝らなきゃ……)
意地を張って、何も聞こえない振りをした。彼らに謝罪の機会も与えなかった。でも、それもどこかで。こんな風に拗ねて甘える自分を許してくれるのだと、分っていた。
(本当に馬鹿……だな、私)
せめて涙を抑えようと固く目を瞑った瞬間、薄暗い洞窟内に大きな音が響いた。




