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第四十一話 異質

 小さな窓の向こうの地平線をぼうっと見つめ、マコトは時間を過ごしていた。

 ふいに右の手の平を持ち上げてそこに視線を落とす。


 ナスルを払いのけた手。

 足元から冷えていく感覚とは逆に、その指先は熱かった。


 見上げた彼は見た事が無い程、複雑な表情をしていた。そこには今までの様なたぎるような憎しみは無く、何かを堪える様に顰められた眉、そしてどこか驚いていた様にも見えた。


(……本当は、ただの八つ当たりだったのに)


 ニムとサラにかこつけて、結局行き場の無い苛立ちをナスルにぶつけた。彼女達を出したのは少しでも彼に罪悪感を持って貰いたくて、責める自分を正当化したかったから。


 ナスルは、結局、使命感以上にマコトが憎かっただけの事で、仲良くする気も馴れ合う気も無いと宣言されていたのに、勝手にどこかで信じていた自分が愚かだっただけだ。


 ……それに騙していたというのなら、自分だって年齢を誤魔化していた。他人の事など言えた義理でもないのに。


 オアシスの事も、彼らが何か隠している事に気づいていた。けれど、この生活を壊したくなくて、ずっと気付かない振りをしていた。ずっとその優しさの檻の中で暮らして生きたいと望んだのは自分。どうして彼らを責められるのだろうか。


 そう思うのに、

 そう片付けて理解したいのに、


 久しぶりに優しさに触れ、柔らかく……いや、脆くなった心が、頑なにそれを拒否していた。

 どうして言ってくれなかったのか。せめて野盗などではなく、彼ら自身の口から聞くことが出来ていれば、きっとこんなにもショックではなかったはずだ。……そうなら、自分は、きっと。


「マコト、いるかい?」


 扉をノックする音にマコトは、はっとして顔を上げた。

 落ち着いた静かな声に鼓動が跳ねる。立ち上がって扉を開ければ、そこにはタイスィールが立っていた。


「少しいい?」


 気遣う口調でそう問われ、マコトは反射的に口の端を吊り上げて頷いた。

 一歩下がって、タイスィールを中に招き入れる。そういえば、こうして誰かと二人きりになるのは久しぶりだ。お茶を入れようとしたマコトを制し、タイスィールはすぐ帰るから、と断って座るように促した。


「これなんだけど、マコトのものだろう?」


 タイスィールの正面から少しずれた所に、座り込んだマコトの目の前にタイスィールの手が突き出される。その大きな手の平に乗っていたのは、キーホルダーだった。


「ぁ……」


 空っぽの袂を探り、小さく呟く。

 そういえば、ナスルと視線が合ったあの時、落としたままだった。あれだけ大事に思っていたのに、目の前に差し出されてようやくそれが無い事に気付くなんて。


 ナスルを目にした驚きを差し引いても、薄情だと唇を噛み締める。今や唯一の形見なのに、母にも、取り返してくれたサーディンにも申し訳無いと思う。


「ありがとう、ございます」


 ぎゅっとそれを握り締めて、マコトは深く頭を下げた。

 暫く無言が続き、ややあってからタイスィールは静かに口を開いた。


「オアシスの件なんだけど」

「はい」


 きた、と思った。本来ならその日の内に説明をしてくれるはずだったに違いない。しかしマコトは翌朝までゲルに引き篭もっていた。引きずり出さずに自分が落ち着くまで待っててくれたのは彼らの優しさなのだろうか。


(何を、言われるのかな)


 やはり年齢を誤魔化していた事を責められるのだろうか。自分が最初から真実を告げてさえいれば、彼らはこんな小細工をする必要も無かったのだし、彼らも一人を残し、自分の婚約者候補という不本意な立場から逃れる事が出来たはずだ。


 既に十八だとあの場にいたニムやサラには自ら話したし、ナスルにもマコトの声は届いただろう。すぐに婚姻を結ぶようにと持ち出されるのだろうか。しかし、タイスィールが静かに零したのは意外な謝罪だった。


「黙っていて悪かったね」


 真っ直ぐにマコトを見つめて、タイスィールは静かに頭を下げた。

 その謝罪に驚きそしてどこか意外に思いながらも、首を振った。


「……いいえ。むしろ感謝してます。ちゃんとした『理由』があってここにいられる事に」


 砂漠の民にとってオアシスは命そのもの。その付属品が『イール・ダール』なら一族に 取り込みたいと思うのは当然だ。理解は出来る。ただ向けられた優しさを自分のものだと勘違いした自分が愚かなのだ。


「……それに、お互い様でしょう。私だって年齢を誤魔化していましたから」


 マコトの言葉にタイスィールは少し驚いた様に顔を上げた。


「何となくそうだと思ってたけど……」


 タイスィールの言葉に今度はマコトが目を瞬く。


 知らなかった……? そんなはずは無い。


「サラさんかニムさんに聞かなかったんですか?」


 注意深くそう尋ねれば、「いや、何も」とタイスィールの短い言葉が返ってくる。

 マコトは確かにサラに年齢を告げた。ニムも聞いていたはずだ。


(黙っていてくれてるって事……?)


 何かあるのだろうか。

 そう穿つ自分に嫌悪を抱きながらも、あれ以来 マコトはサラに対して距離を置いている。物言いた気な視線には気付いているが、今は何も聞きたく無くて、敢えて 気付いていない振りをしている。


 しかしそんなサラ達の気遣いを、自分は今台無しにしてしまった。申し訳無いと思うよりも、もうどうでもいいと頭が考える事を拒否してしまう。

 黙り込んでじっとマコトを見つめていたタイスィールが額に掛かった髪をかき上げ、小さく息を吐き出した。


「とりあえず今のは聞かなかった事にしておくよ。気付いている 者も多いと思うからあまり意味は無いかもしれないけどね」

「タイスィールさん……」


 それもまた意外だった。

 黙っていてくれると言うのだろうか。


 一族の候補者達を纏める存在であるタイスィールの言葉とは思えない。 何を考えているのかその真意を計りかねて、マコトは目の前の端正な顔を 見つめた。お互いの視線が絡まりあい、不思議な緊張感に包まれる。


 長い沈黙を破ったのは、タイスィールだった。

 

「……君は」


「はい」

「怒るべきだ」


 返事をしたマコトに眉を寄せ、タイスィールは静かに言葉を落とした。

 マコトはタイスィールの言葉に、ゆっくりと首を振る。


「私は、知っていたんです。タイスィールさん達が何か隠してる事を。でも知るのが怖かったから、敢えて聞かなかったんです。……それに」


 マコトは一息にそう言ってゆっくりと視線を下げる。膝の上に置いた拳を握り締めて、続く言葉を飲み込む。


 ――怒ってどうするのか。どうなるのか。結局道は一つしかない。どれだけ抗っても結末は一緒だ。じゃあ無駄に足掻くだけ周囲に迷惑が掛かる。


「それに?」

「……いいえ、何でも」


 首を振りかけたマコトにタイスィールの手が伸びた。

「……マコト。私はいい大人だしね。何を言われても傷つかないよ。そんな風に自分の中で全てを終わらせる必要は無い。……私が言っても説得力が無いかもしれないけどね?」


 黙りこんだマコトを静かに見下ろしていたタイスィールが、いつもとは少し趣の違う微かな笑みを浮かべた。

 寂しそうな顔――そう思ってすぐに顔を逸らす。

 自分の言葉、態度が、彼を傷つけた自覚はあった。


「……サハルが何か甘い物を買ってくると言っていた。広場でみんなで食べよう」


 これ以上は無駄だと判断したのか、タイスィールは穏やかに笑って話題を変えた。胸が痛む。罪悪感なのだろうか、と考えて、マコトは俯いたまま唇を噛み締めた。


 みんなが心配してくれているのは分かる。アクラムですら今朝の朝食に顔を見せるくらいだ。自分の事を心配をかけているのだろう。

 しかし、それも。――そう考えてマコトは心の中で首を振る。堂々巡りだ。何度も同じ事を考えて、同じ結末に還る。その度に傷が広がる。ああ、もう。やめたい。もう何も考えたくない。


「……後から行きます、から」


 一人になりたい、と言外に含ませてそう返事を返せば、タイスィールは、そう、と小さく頷いて静かにゲルを出ていった。


 マコトはタイスィールが消えた扉を見上げて、溜め息を吐き出す。

 膝を崩し抱えこむと膝頭に額を当てそのまま瞼を閉じた。


 本当は、何も考えない方が楽なのかもしれない。


 ただ、彼らの思惑に流されてたゆたい、いずれは用意された場所に収まる。


 それが一番楽で、そして。



「……行くって言っちゃったし」


 暫くそのままの体勢で固まっていたマコトは、小さく呟きのろのろと重い体を起こす。日が落ちてくると今度は風が出てくる。今や必需品となったスカーフを机の上から掴もうとして、途中で止めた。それはタイスィールから貰ったものだった。何度か躊躇い、コトは結局衣装箱にしまいこみ、ゲルの扉を開けた。

 そんな自分の子供っぽさに呆れて、笑い出したくなった。


(あつ……)


 扉を開けた途端、残滓に近い熱気に晒され目を眇めて、足を踏み出す。 

 一歩一歩進むたびに、サンダルに入り込む砂が、いつもより熱くそして重かった。


 台所が見えてきた所で、マコトは揺れる気持ちを落ち着けるべく足を止め深呼吸した。ふいにニムの甲高い声が上がり、自然と俯いていた顔を上げる。


 賑やかに言い争いをしているニムとカイス。

 それを執り成しているのはハッシュだったが、慣れているのだろう、焦っている様子は無い。


 サハルはタイスィールと何か話合ってサーディンは小さな木陰で体を横たえている。アクラムは机の上に山盛りになっているお菓子の山を端からせっせと切り崩しては口に運ぶ。

 

 藍色の空の下。


 微笑ましい光景だった。みんなが自然で取り繕う必要も無い光景。誰かが東の空に沈みゆく夕日を指差し、一斉に彼らはそちらに視線を向けた。世界が全て赤く染まる前の澄んだ青に混じり合った優しい色に、その横顔が染まり、それを見つめる彼らの瞳は慈しみに溢れていた。世界も彼らも自然に溶け合って存在する。


 ――その中で、『自分』だけが異質。


 自分があの場所に入り込めば、この美しい世界の何かが壊れる気がして、足が動かなかった。


「……っ」


 唇を噛み締め、マコトは踵を返し歩き出す。そして、その速度は早くなり駆け足になった。

 孤独と疎外感、今ほどそれを感じた事は無い。酷く自分が惨めだった。


「バカみたい……」


 ポツリと呟いて足を止める。無我夢中に走り抜けて、気付けば集落の外れに来ていた。


(……帰りたいなぁ)


 心の中で呟いて、呪文の様に繰り返す。そうする事で余計な何かを考えない様に、何度も何度も繰り返した。


 帰りたい。

 帰りたい。

 帰りたい。


 もう何もかもどうでもいい。

 固いアスファルト、何かを捕える様に張り巡らされた電線。 信号、錆びた階段、剥がれた塗装、狭いアパート。


 あそこなら確かに自分は存在出来た。――例え誰もそばにいなくても。それでも。


「……帰りたい」


 もうどこでもいい。この世界は心地良くて、優しすぎた。だからこんなにも傷ついて、立ち直れなくなってしまった。痛みを切り離して感情を切り離して、忘れられればいい。今までなら簡単に出来ていた事だった。なのに、どんなに頑張っても出来ない。



 俯いて睨み付けていた地面に、すっと長い影が差す。


「――『イール・ダール』」


 聞き慣れない、いやどこかで――聞いた声と共に視界が黒く覆われる。

 誰かの大きな手に視界を塞がれたと気付いた時には、既に意識は暗転していた。






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