第三十九話 余韻(ナスル視点)
彼女がどうするのか、ただそれが知りたくて、気配を殺して見つめていた。
自分だけが大事でそのまま守られて小さくなっていればいい。いやそうでなくては困る。利己的で我侭で……そんな女でなければ。
思っていた通り彼女は小賢しく嘘を――年齢を詐称していた。
しかし、それを何の縁も無い一族の少女を助ける為に告白し自らを危険に晒した。
彼女が刃物を手にした瞬間に、止めに入る筈が、その小さな背中の潔さにただ動けなかった。
簡単に落とされたらしい野盗達が、どこか――おそらく集落の中の地下牢に送られ、周囲は静けさを取り戻す。
走り去った彼女は、自分のゲルではなく集落の外れに向かっていた。この方向は以前使っていたオアシスがあった場所だ。まさか、と思いながらも彼女が受けたであろうその衝撃を思えばその可能性も否定出来ず、ナスルは気配を殺しそれを追った。
追いかける足が砂を蹴り上げて、酷く重い。
枯れかけてかさりと落ちていく緑を掻き分け、彼女はそのままオアシスに足を踏み入れた。飛び込むには浅い。サンダルのままその水面に足を付けた彼女はその中心にまで行くとぴたりと足を止め 微動だにしなくなった。落ちてきた太陽の光に照らされ、彼女の背中がより一層華奢に見える。首から斜めに走った傷が痛々しくて、気付けばナスルは足を進めていた。乾いた草を踏み鳴らす音に気付いたらしく、マコトの細い肩がぴくりと動く。
「……ナスルさん」
ゆっくりと振り返ったマコトの口から、自分の名前が零れ落ちる。
その黒い目は暗く、ずっと見ていると深淵の中に引き摺り込まれるような、その感覚をどこか懐かしいと思う自分がいた。
――こんな瞳を、知っている。
兄が『イール・ダール』を失い、手の平を返したように冷たくなった周囲の人間達。
あの方以外誰も信じられなかった幼い頃の自分は、きっと同じ目をしていたのだ、と唐突にあの時の感情が身の裡の深い所から溢れ出しそれを押さえ込むように唇を噛み締めた。
彼女は傷ついている。幼い頃の自分の様にこの上ないほど。
それは自分が望んでいた事だった筈だ。
「……『イール・ダール』。手当てを」
感情を押さえ呼びかけても、マコトは視線を固定させたまま動かない。
彼女は確かに自分を見ていた。自分があの場でただ傍観していた事にも気付いているだろう。
「――ナスルさん」
ふいに小さな声が彼女の口から零れた。泣いてはいない。気丈な女だと思って、いや思い込もうとして失敗したのはその肩が小刻みに小さく震えているのに気付いたからだ。
「……私が嫌いなんだから、助けて欲しい、なんて言いません。でも、ニムさんと、サラさんは同じ一族でしょう? 私を傷つける為に、二人を危険に晒すのはやめてください。ニムさんだって、サラさんだってきっと怖かった。まだ十四、五歳の女の子なんですから」
吐き出されたその言葉に、ナスルは目を眇める。
確かにマコトの反応を見たくて、あの二人を巻き添えにした。『イール・ダール』を見極める為だとしても何の罪も無い彼女達には悪い事をしたと思っているし、それなりの処罰も覚悟している。
しかし、彼女はもっと他に言うべき事があるはずだ。
「……」
――責める、べきだ。彼女にはその資格がある。あの頃の自分の様に世界を呪い、女神を嫌い、『イール・ダール』を罵り、そして何よりも自分を責めるべきで。
ふいに外された視線は水面を彷徨う。
静かに落ちていく一日の最後の光は、彼女も水面も全て赤く染め上げ、まるで血を流しているようだ。
日が落ちれば外気もどんどん下がっていく。水に浸かったままのマコトの顔は 更に青白く色を失っていく。……彼女は一体いつまでこの場所にいるのだろうか。
「――傷の手当てだけでも」
結局迷って搾り出したのはそんな言葉だった。とりあえず水面から上がるように促そうとナスルは水の中に入り手を伸ばす。肩を掴み掛けたその手をマコトは静かに振り払った。
「……触らないで下さい」
それは彼女が初めて見せる拒絶だった。
過去を語った時も、冷たく突き放した時も彼女はこんな風に自分を拒絶することは無かった。
「……」
マコトはそのままナスルの真横をすり抜ける。集落の方へ戻っていくマコトの後姿 をナスルは黙って見送った。
(私は……)
じりじりと何かが胸を焦がす。
過去に憎んだあの周囲の人間達と、今の自分は一緒なのだとナスルは小さくなっていく背中を見たその瞬間に気付いた。
兄を奪われ、場所を奪われ、平穏を奪われ、自分を不幸にした 『イール・ダール』が憎くて仕方がなかった。彼女が笑うのが許せなかった。 幸せそうに笑った所など見た事も無いのに、いつも彼女はどこか遠慮がちに微笑んで 周囲に気を配っていた。ずっと見ていた。見ていたからこそ。
(ああ、……そうか)
彼女を自分と『同じ』にしたかったのだ。
酷く傷ついて、世界を恨んで、裡に籠もらせて、自分と同じ場所に引き込みたかったのかもしれない。そこなら誰よりも近く、傷を嘗めあえるから。
しかし、彼女は自分の様にみっともなく泣き喚いたりせず、ただ黙って――諦めた。自分にはあの頃まだ泣き喚く相手がいたのだとその幸運に気付く。そして、頼るべき相手もおらず見知らぬ世界でただ一人生きる少女に自分は何をしたのかと。
(……っ私は……)
その罪の深さにようやく気付いた。
マコトとすれ違う様に現れたのは、タイスィールとサハルだった。
「立ち聞きしてすまないね」
静かに呟きタイスィールは一歩また一歩とナスルに近付いていく。
「――君、本当に見ていたのかい? マコトがそんなに憎い?」
その薄い紫色の瞳は怒りを称えて色を濃くしてる。ゆっくりと近寄ってきたタイスィールが、口の端に笑みを貼り付けて胸倉を掴む。しかし普段の艶やかさは一切無く研ぎ澄まされた殺気を持った 一人の戦士がいた。
「嫌がらせくらいお前自身でやれ!」
端正な顔に似合わない乱暴さでそう吐き捨て、ナスルの頬に拳が飛ぶ。敢えてガードをしなかったのか間に合わなかったのか、ナスルはそのまま横に飛んだ。
「……私はタイスィールほど優しくないのでね。殴ってなんてやりませんよ?」
静かにそう言ってサハルが差し出した手を、ナスルは無視し立ち上がった。




