第三十八話 襲撃 2
「……っ分かった!」
男の表情は苛立たし気に歪められる。『イール・ダール』と言えども、たかが小娘一人に押し負けたその事実がプライドを傷つけたのだろう。男の射殺しそうな鋭い視線を受け止め、マコトは首に包丁を押し当てたまま静かに男を見据えた。ややあって、
「離してやれ……っ」
低く唸る様な声にニムを戒めていた男が、慌てて腕を離す。突き飛ばされた様に解放されたニムは、そのまま地面に転がったが、すぐに起き上がり、マコトの元へ駆け寄った。
「……っちょっとっあんた一体何考えてんのよ!」
自分よりも数センチ高い位置にあるニムの顔を見上げる。怒っているような困惑している様な不思議な表情に、マコトは言うべき言葉が見当たらず、曖昧に笑って見せた。
それを見たニムの表情が、泣きそうに歪む。
「……ぁ」
そんな表情をさせたい訳では無かった。
失敗した、そう思ったマコトが言葉を紡ぐよりも先に、首領の男の舌打ちが静寂を破る。
「とんでもない女だ。オアシスのオマケにしちゃ随分扱いずらいだろうな西のヤツラも!」
吐き捨てる様なその一言に、マコトはニムから男に視線を移す。顰めた眉の動きを男は見逃さなかった。少し考える様に間を置き合点がいったように顎を持ち上げ、にぃっと唇の端を釣り上げた。
「……こりゃいい。お前知らなかったのか」
ニムの表情が強張るのを視界の端に捉え、聞いてはいけない事なのだと、マコトは予感した。きっと聞くべきではない。けれど包丁を両手で握り締めているせいで、耳を塞ぐ事は出来ない。ああ、でもそれはきっと言い訳だ。
知りたい、知りたくない。
自分がこの集落から出られない、人目を避けねばならない、護衛という見張りがついているその理由。――優しい彼らが何を隠しているか。
「まぁ聞け。お前ここの奴らに恩義感じてるからこんな真似したんだろうけどなぁ、お前なんてオアシスのオマケとしか考えられてねぇんだよ。コイツらに。――『イール・ダール』の伴侶がオアシスの占有権を手に入れられるんだ。
だから、こいつらはお前を、他の一族に見付からないようにこんなトコに隠してた。適当に男を宛がって一生飼い殺すつもりなんだよ」
微かに震えたマコトの手が一瞬、首から離れ、それまで黙っていた傷の男が素早くマコトの後ろに回った。
「マコトっ!」
ニムの声をどこか遠くに聞きながら、マコトは捻られた腕の痛みに、刃物を取り落とす。
それを素早く足で踏みつけ、男はマコトを拘束し、すぐに丸めた布らしきものを無理矢理口の中に押し込んだ。舌を噛むのを防ぐ為のものだろう。
息を塞がれる苦しさと、腕をきつく締め上げられる感覚にマコトの目に生理的に涙が滲む。けれど頭の中が混乱してその痛みも圧迫感もどこか他人事の様に感じていた。
「ははっラジ、よくやったぞ! 連れてこい!」
ぐいっと引っ張られたその時に、糸が切れた様に身体の力が抜けた。
『オアシスのオマケとしか考えられてねぇんだよ』
耳から入ってきた言葉が頭に届くまでのその一瞬きっと自分は必死に抗っていた。聞きたくない、分りたくない。その内容。
――ああ、でも、だからか。
マコトは心の中で呟き、不思議な程納得した。
だから、受け入れてくれた。
だから、優しくしてくれた。
だから、必要としてくれた。
『イール・ダール』ならば良かった。
それが佐々木真という人間でなくとも。
身体を捩らせた拍子にちゃりんと、鈴が転がり落ちる。
反射的に追った視線の先、男達の背後のゲルの影に誰かがいる事に気付く。
静かに視線が合った。
燃えるような赤い髪は落ちてきた夕陽に染められ馴染んでその姿を曖昧にしていた。
(――ナスルさん……)
彼は今やってきたという風体ではない、どうしてそこで身を隠すようにしているのか。
何か策でもあるのか、と思い、マコトをじっと見つめる静かな視線にある事を思いつく。
(見ていた……? ずっと……?)
悲鳴が上がった時も、ニムが捕まった時も、
自分が刃物を喉に突き付けた瞬間も?
「……っ ……」
もしくは。
最初から、自分など助けるつもりなど無かったという事なのだろうか。
(……ッもう、……やだ……ッ)
ナスルは見ていた。きっと、自分がどうするのか試していたのだろう。
では自分より年下の少女に守られ物陰に隠れてニムを見殺しにすれば良かったのか。……きっとそれが彼が求める『イール・ダール』だった筈だ。しかし、そうしていれば 彼はすぐにニムを助けに出てきたに違いない。
一人で張り切ってしゃしゃり出て、結局、何の意味も無かったのだ。むしろ悪戯に時間を引き延ばしニムを怯えさせたのかもしれない。
もう、いや。
体の力を抜き、もうなすがままに任せる。もう何もかもがどうでも良かった。
好きにすればいい。この身体も。心も。
「……マコト……」
砂埃を孕んだ乾いた風にニムの呟きは掻き消された。マコトの表情には何も感情も浮かんでいない。恐怖や怒り、悲しみさえも。
「よし、さっさとずらかるぞ。ソイツも連れてけ」
「ちょっと……!」
指示を受けた男達が、ニムに近付いたその時。
「なんだァ?」
一瞬風が止み、何故か男達とニムとの間に砂埃が立ち白く煙る。砂埃が去ったその中心には、――タイスィールとサハル、そしてサーディンがいた。
「……君達は一体何をしているのかな」
怒りを孕んだ静かな声に男達からどよめきが上がる。
「あ、あれサーディンじゃねぇか……ッ」
男の一人がひっと悲鳴の様な声を上げたのが始まりの合図だった。
「タイスィールもいるぞ……っ!」
その強さは圧倒的だった。すらりと剣を抜き男達に向かっていくその動きに無駄は一切無い。
砂埃が舞い怒声が飛び交う中、転がるように飛び出してきた サラはマコトに駆け寄って跪いた。
「マコトさま、あの、申し訳ありません! ナスル様が見つからなくて……っでもタイスィール様達が来て下さいましたから」
サラの声を認識し、マコトは膝をついたままどこかぼんやりとした視線を上げる。その様子にサラは眉を寄せて、マコトの顔を覗き込み口の中の詰め物を未だ震える手で外した。
「……マコトさま……?」
戦闘に参加したのか、腕を戒めていた傷の男は既におらず、マコトは強張ったままだった腕を前に回して赤くなった手首を見下ろす。強く握られた手首が酷く傷んだ。……手首よりも傷むのは胸の奥だったけれど。
「お怪我なさってます!」
サラの視線を追いかけると、自分の首筋だった。手を当てれば、少しだけ血が出ている。これを、と首筋に布が押し当てられた。
「大丈夫ですか……っ」
サラは膝をつき、黙ったままのマコトに瞳を潤ませて謝罪を繰り返す。
(サラさんは……)
様子から察するにマコトと男が話していた内容は耳にしていないのだろう。マコトが包丁を押し当てた場面もきっと。取り残されたように立ちすくむ ニムは何も言わず苦い表情で二人のやりとりを見つめていた。
……彼女は自分が『イール・ダール』だからこんなに心配してくれるのだろうか。そんなみっともない事を思った自分を馬鹿馬鹿しく思う。
マコトはゆっくりと首を回し、砂埃の立つ喧騒に視線を向ける。 圧倒的な強さで抑えつけた男達を前に、サーディンが何か呪文を唱えると男達の姿は一瞬にしてかき消えた。
サーディンはすぐに踵を返し、サハルも心持ち駆け足でマコトの方に向かってくる。
「マコト! 大丈夫!?」
サラを押しのけたサーディンに肩を掴まれ大きく揺さぶられる。 ぎゅっと顰められた眉の下の瞳にいつもの様なからかう色は無く、純粋に心配してくれているのだと分かった。
「サーディンさん……」
彼の名前を呟くのと、同時に不思議に思った発言の一つ一つを思い出し、納得した。
『余計なものはいらないっていう証拠だよ』
……なんて滑稽なんだろう。
一番警戒心を抱いていた彼が一番誠実だったと言う事になるのだろうか。
「ナスルがついてながらこの騒ぎは一体」
後から追いついてきたタイスィールが眉を潜めて、周囲を鋭く見渡しそう呟く。
「お兄ちゃん……っ!」
追い付いたサハルは、飛び出してきたニムを優しく抱き締め、労る様に背中を撫でながらマコトに視線を向けた。
「マコトさんもサラも大丈夫ですか?」
動きを止めたままぼんやりとしているマコトを不審に思いながら、サハルは労る様に優しく声を掛ける。そしてその服が破れている事に眉を顰めて、 気遣いながらもニムから優しく身体を離そうとしたが、興奮しているらしいニムはそれを受け入れなかった。
「マコト」
顔を上げると、いつのまにか正面にいたタイスィールが気遣うように自分を見ている。
「……すみません」
マコトは、静かに呟き、何故か謝罪の言葉を口にした。タイスィールの上着が差し出され、マコトは手を出し掛けたが――途中で、止めた。
乾いた唇を噛み締めて低く呟く。
「すみません……着替えて、きます」
「……マコト?」
呼びかける声に振り向く事無くマコトは駆け去る。追い掛けようとしたサーディンをタイスィールが腕を取って止めた。
「待ちたまえ。状況を把握してからの方がいい……サラ、何かあったのかい」
一斉に向けられた視線にサラは眉尻を下げ、首を振る。
「分かりません。ずっとナスル様を探していて……騒がしくなったので何かあったのかと引き返したんです。既にタイスィール様達がいらして、マコト様は一人で座ってらして……」
一体何が、と続けようとしたサラの言葉をニムが遮った。
「オアシスの占有権の事を知ったのよ」
ニムの言葉に一同が息を飲む。
「……なぜ」
常になくタイスィールが静かにそう問いかけ続きを促した。ニムはその厳しい視線に怯んだようにサハルの腕を強く掴み、呟くような小さな声で言葉を続けた。
「さっきの盗賊が……マコトの事に気付いて言ったのよ。『イール・ダール』はオアシスのおまけだって、この集落で飼い殺すつもりなんだろうって」
「何て事を……」
顔色を失ったサラの唇から乾いた呟きが漏れる。
それは誰もが思っていた中で一番最悪の露見の仕方だった。しかしそれは確かに見方を変えた一つの事実だった。




