第三十七話 舌打ち
「――何かあったと?」
タイスィールの言葉に、アクラムは深く頷き、手元にある水晶から顔を上げた。
「……集落に張ってあった結界が、破られる気配があった」
控えの間で待つサハル、ハッシュ、カイスに緊張が走る。儀式まで既に一時間を切り、滞りなくそれが行われた事を見届ける為に派遣された各部族からの代表者も揃った所だった。
「でも、ナスル様もいらっしゃいますし、大丈夫ですよね」
誰かに尋ねると言うよりは、自分自身を納得させるだけの問いを漏らしたのはハッシュ。
「そう信じたいがね。……私が一旦戻ろう」
タイスィールが、長い裾を器用に捌きながら席を立つ。それを見て口を開きかけたカイスの言葉を、勢いよく開いた扉が邪魔をした。
「あ~~うっとおしい。この衣装! 久し振りに参加してマコトに真面目なトコ見せようと思ったけど、やっぱり我慢できないよっ」
子供の様なかんしゃくを起こしながら、行儀悪く裾を持ち上げ、部屋に飛び込んできたのはサーディンだった。そんな彼をサハルが低い声で戒める。
ようやく周囲を見渡し、その張り詰めた空気に気付いたらしいサーディンは怪訝な顔をし眉間にシワを寄せる。
「……なに、みんなやたら辛気くさい顔してさ」
サーディンはそう尋ねたものの興味無さそうに欠伸をし、行儀悪く椅子の背もたれを前にして跨ぐ。しかしそれぞれの顔を見渡す途中で笑みを消し、部屋の奥で静かに水晶を見下ろしているアクラムに視線を向けた。
「なんかあった?」
「……結界が破られた」
アクラムが口を開くな否や、サーディンはバネの様に椅子から飛び降り、普段に無い低い声で呪文を紡ぐ。サーディンがおそらく――行おうとしている空間移動は、魔術の中でも高位のもので、その分詠唱呪文も長い。しかしそれを補う様にサーディンは、長く複雑なその一句一句を神懸かり的な速さで正確に紡いでいく。
「待ちたまえ。……って聞こえないみたいだし。まぁ、有り難く便乗させて貰うよ」
タイスィールは苦笑しながらく、サーディンのそばへ歩み寄る。唖然とそれを見ていたカイスは慌てて立ち上がり、叫んだ。
「待て! 俺も行く!」
「……駄目だよ。君には大事な仕事があるだろう。一族の次期頭領としてのね」
振り向いて諭す口調で釘を刺したタイスィールに、カイスははっとした様に動きを止め、唇を噛み締めると苛立ちをぶつけるように足元の椅子を蹴り上げた。
「物に当たるのは感心しませんね」
転がった椅子をそっと拾い上げたのは、それまで黙って控えていたサハルだった。そして。
「私も行きます」
そう口を開いたサハルにタイスィールは訝し気に眉を顰める。無人な筈の集落に誰かが侵入しても、大人数で、ましてや儀式の要であるカイスが赴くのはあり得ないし、頭領に近い血筋であるサハルが抜けるのも明らかに不自然だ。
才はあるが変人で通ってるサーディンは、儀式に参加している方が珍しいのだから数には入らないので許容出来るが、そんな事を察せない彼では無いはず。
タイスィールと同じ疑問を抱いた一同の視線を受け流し、サハルは 窓際近くの机まで歩み寄ると、その上に置いてあったコップを手に取った。
「……っ」
一同が見守る中。がちっと固く硬質な音が静まり返った部屋に響く。そして鮮やかな血が手首を伝い、そのまま腕まで流れ、白い衣装の袖に赤い花が咲いた。
「――血は不浄。戦を嫌ったイールが最も厭うものです。怪我を負ったので、私は儀式に参加出来ないと客人にお伝え下さい」
血で濡れた手を、身に付けていた白い衣装の袖で拭い、そのまま脱ぎ捨てる。怪しまれたらこれを見せろ、という事なのだろう。呆気に取られたままその衣装を凝視しているカイスにそう言い放ち、サハルはサーディンを中心に広がり始めた魔法陣に足を踏み入れた。
「……意外に熱い男だね。君は」
サハルの一連の行動を見つめていたタイスィールは面白そうに微笑み、すぐそばに立ったサハルを揶揄する。
「そうでもありませんよ」
無表情で静かにそう返した所で、サーディンの詠唱が終わり、三人の姿は一瞬にしてかき消えた。
「……クソ……っ」
三人が消えた空間を睨み付け、カイスはそう吐き捨てた。




