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第三十六話 襲撃1


(うーん……、もうすぐこれも終わっちゃうなぁ……)


 カイス達を見送った後はマコトは、ゲルに戻りのんびりとまた服の裾を直していた。一番着る事が無さそうだと思っていた薄い桃色のワンピースを見下ろし、マコトは心の中で呟く。最後の一枚もあとほんの少し袖を縫えばおしまいになる。


 元の世界では学校とアルバイト、それに勉強で毎日忙しく過ごしていたマコトにとって手持ち無沙汰になる事が、最も避けたい切実な問題だった。例え何もせずにぼうっとゲルの中で一日を過ごしていても優しい彼らが何も言わないであろう事は勿論分かってはいるが、自分自身が退屈で耐えきれなくなりそうだ。


(勉強……とか、かなぁ。とりあえず一般常識教えて貰って、あとはこの世界の事とか本でも借りて……)


 ちなみにこの世界の文字が読めることに気付いたのは、ハッシュの引越しの手伝いをしていたときだった。いや、正確にはそれよりも少し後の事だが、漢字とひらがなの表記があまりに自然すぎて逆に印象に残らなかったのだ。これ日本語ですか、とハッシュに聞くと、心得たように頷いて、「自然に翻訳されるようですね。それも女神の贈り物なんですよ」と教えてくれた。だからこの世界の本は一通り読めるはずだ。


(……じゃ、この世界で日本人以外の『イール・ダール』と話したらどうなるんだろう)


 ふとそんな事を思いつく。翻訳機能はONかOFFなのか興味深いが、 実際に確かめられる機会が訪れる事はしばらくは無いだろう。

 針を置いたマコトに気が付き、衣装箱の中を整理していたサラは顔を上げて、 マコトに笑顔を向けた。きっと邪魔にならない様、タイミングを図っていたのだろう。


「お茶でも入れましょうか?」

「……あ、じゃあ、お願いします」


 いつもなら自分が入れます、と言うところだが、今朝『なんでも自分でされては私の仕事がなくなります』と泣きつかれてしまい、マコトは出来るだけサラに頼む事にしたのだ。


 それにサラは料理とは違い、お茶を淹れるのはとても上手かった。多少職務に 忠実過ぎる事はあるものの、少しでも過ごしやすい様 に身の回りの事にも気を配ってくれたり、退屈そうにしていれば話題も振ってくれる。


 それに女官らしく手先も器用で、さほど長さの無いマコトの髪 も複雑な形に編み上げていくその手際の良さは機械のように正確で早い。 他にも服の重ね方一つにしてもなるほど、と納得出来るセンスがあり、感心したマコトの言葉に女官と 言う仕事はそういうものなのだ、サラは真面目にそして少し嬉しそうに頬を染めて言った。


(やっぱりサラさん偉いなぁ……)


 まだ十四歳なのに、王宮という神経を使いそうな職場できちんと働いている。マコトが同じ年の時は、学校に通い部活で汗を流し、友人達と遊んで過ごしていた。


 マコトが素直に頷くと、サラは嬉しそうに顔を綻ばせて立ち上がった。足音を立てずに静かに奥に向かうサラの背中を見送り、しんと静まりかえったゲルでマコトは一人溜息をつく。

なんだかんだと賑やかだったので、カイスたちがいない静かな集落は少し寂しく思えて、こんな風にふいに静かな空間に取り残されると、慣れることに精一杯であまり考える暇も無かった向こうの世界の事が、無性に気になってくる。


(アパート……どうなってるんだろ。もう荷物とか処分されてるよね)


 今となっては自分の持ち物はどうでもいいが、気になるのは母の遺骨である。


(引き取り手の無い遺骨って、一旦警察に預けられて、その後、無縁仏に入れられるって聞いたことあるけど……きちんと弔って貰えるかな……)


 多分、その辺りに破棄されることはまず無いだろう。社会人になったらお金を貯めて小さい墓でも立てようとは思っていたが、墓石、土地、月々の管理費を合わせれば百万以上は掛かると同じアパートに住む主婦に教えて貰い、時間が掛かりそうだとぼんやりと思っていた。


(……逆に良かった、って思うべきかな……)


 例え、お金が溜まったとしても余程のきっかけが無いと寂しくていつまでも自分の手元に置いてしまいそうだ。結局、これで良かったのかもしれない。


 マコトはそう頷いて自分を納得させる。こんな風にどうしようもない事を思い悩むのも本当は無駄だとは分かっている。ただの感傷を引き摺っても仕方ないのだ。


「お待たせしました」


 思考に沈んでいたマコトを引き上げたのは、サラの声と差し出されたお茶の甘い匂いだった。この世界のお茶は基本的に甘くまだ慣れない。出されたものは飲むようにしているが、やはり少なからず顔に出てしまっていたらしく、今朝からサラは砂糖の量を減らしてくれていた。その心遣いに感謝しながら、湯気を立てるコップに口をつける。


 今日の紅茶は王都でしか売っていない特別なものだと、嬉しそうに語るサラに相槌を打っているとふいに、微かに何かが聞こえた気がした。


「――今、何か」


 マコトがそう零したそのそばからまた、同じ声が上がる。よく響く高い声。確かにそれは悲鳴だった。


「……ニムの声みたいですね」


 幾分表情を強張らせサラはそう呟く。気の強い彼女がこんな声を出すなんて何かよっぽどの事があったのだろうか。二人は顔を見合わせた後、先を争う様に立ち上がり、扉を開く。方向が分からず爪先立ちで伸び上がり、目を凝らせば白いゲルの隙間に、ニムの明るい橙色のスカーフが見えた。飛び出そうとしたサラの服の裾を掴みマコトは驚いて振り向いた彼女に首を振った。


「……誰か、います」


 マコトの角度からはニムの後ろに大柄な男が立っているのが見えた。見慣れない顔。派手だがどこか清潔感の無い薄汚れた服。そして何よりその腰や手には太陽の光に反射し鋭い光を放つ剣があった。


 体をずらし、それを確認したサラは、ひっと小さく悲鳴を上げ掠れた声で呟いた。


「や、野盗ですわ……」

「やとう……?」


 サラの呟きをそのまま反芻し、マコトは掴んでいたサラの手を一旦 離そうとして思いとどまり再び握り締めた。その指が細かく震えている事に気付いたからだ。


(あれが、野盗……)


 あっさりと漢字変換され、物語の中にしかいない彼らを思い出し、マコトは眉を顰めた。旅人や村を襲う盗族。マコトの世界で言えば強盗、になるのだろうか。サラの様に顔色を変えるまでもいかないのは、やはり彼らの恐ろしさを現実として知らないからだろう。


 見つからない様に首を伸ばし注意深く人数を数えれば五人。少し離れた場所、多分 見張りをしている男が一人。ニムを羽交い絞めにしている男と縄を掛けようとしている男が二人。その少し奥に指示を飛ばす首領らしき男が一人。その傍らに無言で立っている男が一人。いずれも屈強な男達で腰に数本剣を帯びていた。


(ナスルさんは、どこに)


 こういう事態の為に彼は残っていた筈だ。なのに何故いないのだろう。微かに震え始めたサラの細い肩に気付き、マコトは落ち着かせる様に背中を撫でる。恐ろしさを知らないからこそ落ち着いていられるのかもしれない、そう思いながらマコトは、サラを励ます様にその手をぎゅっと握り締めた。


(どうしよう。このままじゃニムさんが連れていかれる)


「ちょ……っアンタ達、離しなさいよ……!」

「ああん? うるせぇよ。……それにしても運が良いよな。祭りの最中に荷物漁るつもりが、女がいるとは」

「おい、せっかく若い女見つけたんだ。売ればその辺漁るより儲かるだろ。さっさとズラかろうぜ」


 風に乗って男の声が耳に入って来る。

 まさか――彼女を『売る』と?

 その単語のおぞましさに、一気に肌が粟立つ。


(ちょっと待って……)


 そういえばこの世界には女性が少ないのだと、聞いた。だから若い女性とならばその価値も高くなる。人身売買、なんてそんなものがまかり通る世界。


 なんだかんだとここでの生活は穏やかで平和で――物理的な危険なんて感じた事は無く、やはりここは異世界なのだと、急に現実を見せ付けられた気がして、マコトは背筋に冷たい汗が伝うのを感じた。


「ナ、ナスル様はどうされたんでしょうか」


 体を小さくさせたサラが上目遣いにマコトを見上げる。不安がそのまま眼差しに現れて赤く潤んでいた。


「っやっ! はなしてっ誰かっ」


 はっと気付いて顔を上げるとニムが乱暴に馬の方に引きずられて行く所だった。

 ナスルはどこかに出ているのだろうか。警護を頼まれている以上それほど遠くへは行っていない筈だ。どうすればニムを助けられるか。必死に考えを巡らせていると、ニムに縄を掛けようとした男が不意にニムに問い掛けた。


「お前まだガキか」

「そうよっ!」


 ニムが噛み付くように叫ぶと男は忌々しく舌を打ち、おもむろに手を振り上げ、頬を張った。


「……っ」

 バシン、と派手な音が上がり、サラの体がびくんっと大きく震えるのが繋いだ手から伝わってきた。自然に一歩足が出ていた。


(ひどい)

 大きく見開かれたニムの瞳から涙が零れ落ちる。無理も無い。どんなに強がっていてもまだ彼女は十五歳なのだ。


「……マコトさま……っ」


 咎めるように繋いだままの手を引っ張られて、マコトは後ろを振り返る。


「まさか」


 出ていくつもりでは、と問われマコトは一度ぎゅっと強く握り締め離した。

 怖くないと言えば、嘘になるが、例え嫌われていると言っても自分より年下の女の子があんな風に怯えているのに、こんな場所で隠れてなんかいられない。マコトは少し迷うように間を空けてから、首を振った。


「……私、本当は二人よりも年上なんです。だからこんな所で隠れてなんていられない」


 自分より年下の女の子を危険に晒してまで、助かりたくなんて無い。

 正義感なんてものでは無く、――ただ、これ以上自分を嫌いになりたくなかった。


「……え」


 サラの目が見開かれて、見つめられる。それから逃れるようにマコトは繋いでいた手を少し強引に離した。

「サラさんは、ナスルさんを探して来て下さい」

「マコトさま……?」

「時間稼ぎしてみます」


 マコトはそう言ってゆっくりと立ち上がり、ニムの方に向かって歩き出した。

 驚いて止めようとしたサラの手が虚しく宙をかく。


 サラの存在に気付かれない様に、足早にその場を離れ、覚悟を決める様にごくりと唾を飲む。そして静かにマコトは口を開いた。


「ニムさんを連れていかないで下さい」


 男達の視線が一斉に向けられ、逃げ出してしまいそうな足に力を込める。驚いた様にマコトを凝視していた男達は、すぐにマコトの周囲をくまなく見渡し、彼女一人だと判断すると、顔を見合わせ大声で笑い出した。


「これはこれはっ! 自分から出てくるなんてな」


 ぐったりとうなだれていたニムも、マコトの姿を捉え、信じられないものでも見たように大きく目を見開く。


「あー……なんだよ。またガキか」

「コイツと一緒にどっかで飼っとけばいいだろ。まぁ面倒くせぇけどな」


 子供には手を出せないと言う事なのだろうか。野党にそんな倫理観と呼ばれるものがあるのが意外で、マコトは強張った表情のまま眉を潜める。その表情を見たニムを拘束している男は鼻で笑った。


「ァン? お前もしかして知らねぇのか。そういや変王族と同じ髪色だな。……こりゃあいい。高く売れる」


 一気に喋り出した男に、その隣にいた野盗の一人が便乗した。


「ありがたぁい女神様の呪いでよぉ、成人してねぇガキに突っ込むとナニがただれて腐り落ちるっつう噂があるんだよ。馬鹿な噂だが、わりと信じられててな? 十六過ぎるまで買い手がつかねぇんだ。このねぇちゃん位なら何とか誤魔化せるけどな。お前は無理だなぁ」 


 あからさまな言葉にマコトの頬に朱が走る。それを見た男は下卑た笑いを浮かべて マコトに歩み寄った。


(……嘘っぽい言い伝えだと思うけど……)


 ならばこれで応じてくれればいいのに、と半ば諦めつつ、 マコトは一拍置いて奥に立つ首領らしき男に言い放った。


「子供ではありません。十八です」


 マコトの言葉に男達は一瞬虚を疲れたように口を噤み、そして一拍置いて吹き出すように笑い出した。ニムだけが真面目な顔をしてマコトを見ている。その眼差しが痛い。


「嬢ちゃん、冗談きっついなぁっ! なんだよ。そんなに玩具にして欲しいのかよ!」


 げらげらと笑い出す男達に、羞恥に顔が熱くなる。駄目だ。落ち着け。 そう自分に言い聞かせて、マコトは言葉を続けた。


「嘘ではありません。だから彼女では無く私を連れてって下さい」


 ニムの目が驚きに見開かれたが、マコトは男から目を逸らさない。


「あっ―はははっ! んな訳にいくかよっ! なんでわざわざ逃がさなきゃいけねぇんだ。じゃ、お前は売る前に俺が味見してやるよ。こっちはしばらく飼い殺しといてやる」


 しかし男はマコトの取引に応じる事なく笑い飛ばす。マコトも勿論ここで引き下がるとは思っていない。ナスルを待つまでの時間稼ぎだ。一瞬助けてくれるだろうか、と不安が頭をよぎったが、一族の一人であるニムが掴まっている。例え……自分が見捨てられても彼女は助けようとするだろう。だからこそ、いつかは来てくれる。


「……珍しい瞳だな」


 首領らしき男の隣に黙って控えていた男がマコトへと歩み寄る。額の傷が印象的な一人だけ妙に落ち着いた雰囲気のある男だった。後退るかどうするか迷っている間に男はマコトの正面までやってくる。背の高い男の顔を見上げようとしたその時。


「……っ」


 男は無造作にマコトの胸倉を掴むと、力任せに引っ張った。首の後ろが強く擦れて痛みに上がりかけた悲鳴を必死で堪える。ボタンが取れ、砂漠ではありえない白い谷間が露になったが、マコトは睨む様に男を見上げて後ろに後ずさった。


 慌てて胸元を押さえるが、既に遅く、ちらりと見えた白い肌理細かやな肌と、 豊かな胸の谷間に男達が一斉ににどよめく。暫くして ニムを拘束している男が、ぴぃっと軽く口笛を吹いた。


「あながち嘘でもないのか。……へへっいいな、こういう女が好きな男は多いんだ」

「ああ、今日はいい日だな。二人とも連れていけ」

「駄目です! ニムさんを離してください」


 男の言葉にマコトは目の前の傷の男から距離を置く為に後ろに下がりそう叫ぶ。


「……あぁ?」


 先程まで上機嫌だった首領が、眉を吊り上げマコトに向かって凄んだ。その怒声に空気が震える。


「調子のってんじゃねぇ!! なんで俺らが小娘の言う事聞かなきゃいけねぇんだッ! あんまりゴチャゴチャ言ってっと腕の一本でもへし折っても構わねぇんだぜ」


 今にも襲い掛かってきそうな男に、マコトは唇を噛み締めてその場に留まる。……ナスルが来る様子が無い。すぐ近くにいる男は、マコトの様子を鋭い目で観察しているが、動く気は無いようだ。マコトはゆっくりとその男との距離を広げていく。


 分からない、これを言ってもいいのか。でも、多分言わなければ彼女はこのまま連れていかれる。取引材料になるのはこの――『名前』しかない。


「とりあえずソイツを連れていけ」

「待って……!」


 黙り込んだマコトに首領はじれた様にニムを掴んでいる男に顎をしゃくった。

 駄目かもしれない。無駄かもしれない。信じて貰えないかもしれない。

 取り返しが付かなくなるかもしれない。怒られるかもしれない。……嫌われる、かもしれない。


 けれど。


「私は『イール・ダール』です」


「……は」


 静かに響いた声に男達は一瞬動きを止めた。 そして恐ろしいほど血走った目でマコトを凝視する。この名前にどれだけの価値があるのか分からない。


 今度は一斉にどよめきだした男達だったが、 首領が大声で何かを叫んだ。そして狂った様に笑い出した男に、残りの野盗達もぎょっとした様に男を見る。


 その隙をつき、マコトは台所の片隅にまた少し体をずらしていく。


「こりゃいい! まさかこんな所にいるとはな! ついてる! 俺は無性についてるぜ……! これでアイツを見返して俺が頭になれる……っ!」


 興奮したように男は笑い、それからおかしくてたまらないとでも言うように身体をくの字形にしてげらげらと笑い始めた。男達もようやく得心したのか、 首領に合わせる様に乾いた笑いを浮かべる。首領の様子が一通り落ち着いた所で、マコトはごくりと息を飲み口を開いた。


「だから彼女を放して、私だけ連れて行ってください」

「なに言ってやがんだぁ? コイツも大事な獲物だからな。 さすがの『イール・ダール』様の言葉でもきけねぇぜ」


 ニムを捉えていた男は、不満気にそう口を挟んだ。

 予想をしていた返事にマコトは後ろでに作業台の上をさぐり、布の下に手を滑らせた。

 男の言葉は真実だ。


 圧倒的に不利な取引だった。これをひっくり返す方法は一つしか思い当たらない。

 ことり、と確かな手応え。マコトはそれを持ち上げそのまま野盗達に見えるように前に持ってきた。刃渡り三十センチほどの包丁。


「マコト……!?」


 男に羽交い締めにされたまま、ニムが驚きの声を上げる。

 ああ、そういえば彼女に名前を呼ばれるのは初めてだと、張り詰めた意識の裏側でぼんやりと思った。


「ははっ! やめとけやめとけ。自分が怪我することになるぜぇ?」


 同じ事を思っているのだろう。男達は、一番近くにいる男を除いてにやにやと笑った。

 マコトは同じ様に笑う首領に視線を向ける。視界の隅で太陽の光を受け包丁の刃が白く光り、眩しさに目を眇める。


 ……最初から戦う為に手にしたわけではない。

 第一ただの女子高生だったのだ。当然ながら戦った事など一度も無く、護身術の心得がある訳でも無い。目の前の男達に闇雲に振り回したとしても、一太刀浴びせる所か掠り傷一つ付ける事は出来ないだろう。


 けれど、そんなマコトにも有効な対象が一つだけある。――それは。


「……言う事を聞いて貰えないなら」


 それは決して大きく無い声だった。けれど抑揚の無い静かな声は、それでも男達の耳にもはっきりと聞こえた。


「死にます」


 そう言い切るとマコトは、包丁を両手でしっかりと握り、自分の首元に持っていった。



 張り詰めた沈黙が流れて、首領の顔が引き攣る。


「……何言ってやがんだ。ほら危ないぞ。さっさと捨てちまえよ」


 男の言葉にマコトは静かに首を振る。

 本気なのか演技なのか、自分でも分からない。

 ただ、恐ろしいほど周囲は静かで、神経が冴えていた。いや……麻痺していたのかもしれない。こんな状況にある自分の立場に酔ってでもいるのだろうか、……包丁の重さも、刺すような誰かの視線も何もかも気にならなかった。


 ただ引き返す事は出来ない。それだけは分かっていた。


「冗談だろ……」


 『イール・ダール』が死ねば、オアシスも枯れる。しかも十年ぶりに現れたオアシスなのだ。それが失われるとしたら、人々の怒りはどこに向くのか。そして二度目の『不幸』に女神は どんな天罰を下すのか想像に難くない。――二度と『イール・ダール』もオアシスも現れる 事は無いかもしれない。いや、それ以前に男は自分を利用して何かを成し遂げる つもりに違いない。マコトが死ねばその野望も費える事になる。


『イール・ダール』は生きていてこそ価値があるのだ。


 男の呟きにマコトは包丁を取り出し、静かに目を閉じ少しずつ包丁を白く滑らかな肌に近づけた。鮮やかな赤がすぅっと線を作った所で、男は耐えかねたように大きな声で怒鳴った。






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