第三十四話 自覚(カイス視点)
マコトやハッシュの気遣わしげな視線に耐え切れず、カイスは顔を強張らせたまま、自分のゲルへと足を動かしていた。潔斎をし終わった直後に駆け付けたので拭いきれなかった水滴がぽたぽたと額から頬へと流れ落ちて乾いた砂に吸い込まれていく。それを乱暴に左手で拭いカイスは低く唸った。
「一体なんだっつーんだよ」
頭から馬鹿にしてくるサーディンはもちろん、一斉に押し黙った他の候補者達の様子を見れば、何か隠しているのだと察する事が出来る。あえてしつこく聞かなかったのは、自分だけが仲間外れかと拗ねる様でみっともないと思ったからだ。
「くそ……ッ」
つまらない自尊心だと自覚しつつも、苛立ちを抑えられず自分のゲルの扉の取手を乱暴に引っ張る。行儀悪く足で扉を開けると、その勢いのまま絨毯の上にどかりと座り込んだ。
元々短気な性質だと自覚しているが、マコトが来てからそれが更に悪化した気がする。――彼女を見ていると、何故か無性に苛立つ事があるのだ。
例えば今朝の朝食の時の事。マコトはサラと共にサハルに何か頼み込んでいた。わざと聞き耳を立てていたわけではないが、声を抑えていた訳でも無いので少し離れた場所にいたカイスの耳にも自然に入ってきた。その内容は、水浴びしたいから結界を張ってくれないかという些細な事だった。
(……つーか、なんで俺に頼らないんだよ)
次期頭領と言う立場上、カイスもある程度の魔法を修めていてサハルとそれ程大差は無く結界を張る位造作も無い。
確かにすぐ怒鳴る分、親しみやすいタイプではないとは思うが、マコトとは市場に行ってから気兼ねなく話せているし、何よりサラは従兄弟だ。他人より血の繋がった自分を頼るのが筋では無いだろうか。サハルが快く引き受けると、マコトは珍しく嬉しそうに顔を輝かせた。その瞬間、苛立ちは最高潮に達した。
「……あーなんか最近マコトの事ばっかだな……」
思わずそう呟いて、一瞬その言葉にぎょっとして慌てて首を振った。これでは、まるで。
「……っまぁ、一族の命運がかかってんだから、気になるの当たり前だよな!」
何かをごまかした様な自分の物言いに気付かず、否、敢えて気付こうとせず、カイスは意図的に頭から追い出し、半ば無理矢理別の話題にすり替えた。すぐに浮かんだのは潔斎に使った集落の近くにあるオアシスの事だ。
(親父に報告しなきゃな)
ここで生活している間、重宝していたオアシス。それは、カイスの母の前の『イール・ダール』が産んだものだ。齢七十で彼女が亡くなり、それから二十年以上過ぎている事を考えればよく保った方だろうか。
乾きはじめた緑の葉先が、歩く度にカイスの腕や足に当たり、くしゃりと音を立てて砂の上に落ちるその姿はどこか侘しく、目に見えて退廃を感じさせた。
(もう、あれも直に枯れる)
一年前の儀式の時よりも目に見えて枯渇が進んだオアシス。
乾いた植物や枯れ掛けた木を見ると、どうしようも無い不安に駆られるのは、乾いた生物が一族の未来を暗示している様な錯覚を起こすからだろうか。いつもどんな時も胸によぎるのは一族の人間の生活、保証。守るべきもの達。
――責任が、ある。次期頭領として。一族の代表として。時々その重圧に押しつぶされそうな時もある。そんな時いつも思い出すのは父親のそばでいつも微笑んでいた母の姿だ。あんな風にいつもそばにいて、支えられる存在がいれば、時々やってくるこの不安から逃れる事が出来るだろうか。
ふぅ、と小さく息を吐いて、そのまま背中を倒し、仰向けになる。壁に掛けられた祭りの儀式用の衣装が目に飛び込み、そういえば準備がまだだと思い出したが、とりあえず今は指先一つ動かすのも億劫だった。
袖や裾に金糸で細かい刺繍が入ったその衣装は、女神が最も好むと言われている穢れの無い白を基調としていたものだ。一族でも高位にいる老人しか着ない堅苦しい衣装で、今や祭りや何かの式典などしか袖を通す事は無く、散りばめられた小さな宝石のせいで重いそれは、カイスが最も苦手とするものだった。
(もう明日か)
カイスは一族の代表として、祭りの進行役を勤める。それが一族の長の長子の役目だった。ここでは男子の成人とされる十六の歳から努めていたが、やはり性格なのだろう。いつになっても堅苦しい衣装も長い口上も慣れず、出来る事なら誰かに代わって貰いたいと常々思っている。独身男性だけの祭りなので、妻帯者になれば長に近い血族の独身男性が代役となり、カイスの前にはサハルが、その役目を担っていた。
(あー早く開放されてぇな)
この準備を誰かに任せられたら、随分時間の削減になる。それでも例年 までは真面目に勤め、一族が所有するオアシスが枯渇する前に、『イール ・ダール』の出現を願っていた。そして自分好みの容姿を持ち、気が合えば 花嫁として迎える事が出来ればいいと。
しかし今年は違う。手を伸ばせばすぐ届く位置に『 イール・ダール』はいる。何を願い、どんな祈りを 捧げると言うのだろう。次の『イール・ダール』? それは勿論 必要だ。現れる数が多ければ多いほど女神の恩恵は増え、緑が増え大地は潤い栄える。
(なんか、すっきりしねぇなぁ……)
苛立つ、と再び呟いてはみるが、それですっきりなどする訳が無い。
そうは思っても、儀式をサボる訳にも、気を抜く訳にもいかない。
それは一族の次期頭領として当然だった。
*
伸びをしてゆっくりと上半身を起こした所で、こんこんと控えめに扉が叩かれた。てっきりサハルか、明日の打ち合わせにやってきたタイスィールかと思い、入る様に返事をする。しかし遠慮がちな開いた扉の隙間から顔を覗かせたのは、先程まで脳内を占めていた少女だった。
「……何か用か」
動揺を悟られたく無いと意識したせいで、それは誰が聞いても不機嫌なものになった。
「カイスさん。あの、お話があって」
尖った口調のカイスに多少戸惑いつつも、それを誤魔化すように、マコトは笑顔を作りもう一度入ってもいいかと確認するように足を止め、カイスに向かって首を傾げて見せた。先程は気付かなかったが、その顔色が少し悪い気がしてカイスは眉を顰める。
「入れよ。それよりお前顔色悪くないか?」
顎をしゃくり中に入るように促してからそう問い掛ける。
「……え? ……ああ、少しだけ寝不足なのかもしれませんけど、大丈夫ですよ? えっと、じゃあお邪魔しますね」
何かを思い出すように宙に視線を向け、ごにょごにょと言い淀んだマコトだったが、扉近くに座り込むと話題を変えた。
「あの。サーディンさんが取り返してくれた鈴の事なんですけど」
それはカイスとしては避けたい話題だった。自然に表情が険しくなっている事に気付いたが、慌てて取り繕うのも妙な気がして、無言のまま頷いた。マコトは分かっているのか分かっていないのか、曖昧に微笑み言葉を続けた。
「ロジナさんって方と本当はあんまり関わっちゃ駄目だったんですよね。……えと、大丈夫ですか?」
「何が」
質問の意図が分からず、返す言葉も訝しさが交じりぶっきらぼうなものになった。
「……サーディンさんは気付かれずにうまく誤魔化せたって言ってたけど、本当に大丈夫だったかなぁって。とりあえずサーディンさんは、そういうの器用に逃げちゃいそうだし、その分カイスさんが怒られたりしませんか」
タイスィールさんとか長老様に、と付け足され、カイスは驚いて目を見開いたままマコトを見下ろした。
確かに探りを入れたり密偵を放ったりはしたが、それはこちら側の事情であって、少女には関係の無い話である。
けれど、そんな話を自ら振って言い訳がましい言葉を重ねるのも女々しい気がしたし、自分は気付かずサーディンは気付いたという事実だって今更口になんて出来なかったのだ。
「困らせてすみませんでした」
重ねて頭を下げられて、カイスの顔が自然緩む。
(なんだよ。分かってんじゃねぇか)
確かに、次期頭領としての判断は間違っていなかった。大事なものだと気付けたとしても、鈴を取り返すという選択肢は無かった。それを理解してくれていたらしい。――自尊心が救われたとでも言うのか。
ずっと胸の奥でつかえていた何かが、ストンと綺麗に落ちた気がした。
「いいって」
自然に浮かんでくる笑みを押し隠して、誤魔化すように咳払いする。
「……大丈夫ですか? お茶でも淹れましょうか」
「え、ああ」
恐らくは乾いた咳を勘違いしたのだろうが、特に断る理由も無いので 、頷いて「頼む」と言い添える。台所の位置を顎で教えると、手際良く茶葉を見つけ出し、薬缶を火にかけ始めた。
「カイスさん、あの、あんまり無理しないで下さいね」
「……あ? まぁなそりゃ一応次期頭領だし、今だけな」
「頑張ってますもんね」
「おぅ誉めて称えろ」
冗談めかしてそう胸を張ると、マコトは驚いたように目を見開いた後、ふっと柔らかく微笑んだ。
可愛い、と素直に思って困惑する。
「連日外出されてるし、女神祭でも重要な役目があって忙しいってサラさんに聞きましたけど」
かちゃかちゃとコップを取り出して盆の上に載せる。それが一つだけだった事に少しがっかりしながらも、カイスは黙ってマコトの話を聞いていた。
「それでもこうやって、私の事気に掛けて下さって嬉しいです。有難うございます」
「……お前じゃなかったら気にしてねぇよ」
「え?」
ぽそりと呟いた言葉はマコトには届かなかったらしい。二度も言うには照 れくささが先に立ち、何でもない、と返事をした。湯気の立つコップを運び 、盆ごとカイスの前に差し出したマコトをカイスはじっと見つめる。 捲り上げた袖から見える日焼けをしていない白く折れそうなほど華奢な腕に、庇護欲が刺激された。
「……お前さ、もっと俺に頼れよ。さっきも言ったけどこれでも次期頭領なんだし」
コップを置いたマコトが驚いた様にその動きを止める。心の内まで見透かさ れるような黒い瞳に、焦りを感じカイスは慌てて声を荒げた。
「……っそれも仕事のうちだからな!」
照れたせいで余計な一言を付け加えてしまった。――また失敗した、と思いながらマコトを伺い見ると、少女は真面目な表情をくしゃりと崩し、一言だけ口にして笑った。
「頼りにしてます」
――ああ、駄目だ。コイツ。天然だ。
一番言って貰いたかった言葉を、簡単に口にして、子供っぽい独占欲に自己嫌悪する自分を包み込むように優しく笑うから。
恋に、堕ちていたのだと気付いた。
「カイスさん……? あの、顔真っ赤ですよ」
「気のせいだ」
「あ、あの? カイスさん?」
片手で顔を覆い、カイスは逃げるようにマコトから視線を逸らし、目の前のお茶を引っ掴んで、口に含む。
「っあつ……っ」
「カイスさん!?」
「いやっ大丈夫っ! 気にすんな!」
顔を覗きこんできたマコトに慌てて手を振り後ろに下がる。
――いつから?
分からない。
けれどサーディンがマコトに鈴を持って来た時に感じたものも、今朝 サハルに対して持った感情も、あれは苛立ちなのではなく――嫉妬だ。
ああ、もしかすると。
最初に顔を合わせた時に、あのこちらの心の内まで透かす瞳に惹かれたのかもしない。 静かにゆっくりと、土が水を吸うように音も無く、恋心が育ったのだろうか。
(……つーか、ヤバい。サーディンの事言えねぇ)
マコトにすり寄るサーディンをロリコン扱いしたのは他でもない自分だ。
年の差は五つ。マコトが成人するまであと二年もある。今から名乗りを上げれば、この少女を手に入れる事が出来るだろうか。
(……そういや、他の奴らはどうなんだろう)
まぁサーディンの様な物好きはまずいないだろう。年回り から言えばハッシュが一番似合いだが、その次と言えば自分になる。
想いを告げれば、彼女はどう答えるのか。今、自分が選ば れる可能性は低い気がするが、マコトは誰に対しても優しく、特定の誰かを特別扱いしてる感じはしない。しかし誰も好きではないなら、頭領である自分が選ばれる可能性は高い。他の候補と違って一族から抜ける事はまずありえないからだ。そんな理由もあり、『イール・ダール』は元々一族でも力のある頭領と添う事が多かった。
(ああ、でも今更言えねぇよな……)
遅すぎた自覚に、彼が後悔するのはもう暫く後の事だった。




