第三十一話 真夜中の訪問者 1
注意>サーディンの過去話で、あからさまではありませんが子供への性的虐待の話が出てきます。
――気配がした。
隣には微かなサラの寝息。彼女では無い。それよりも少し大きな。
「……あ、起きちゃった」
至近距離で動いた影にぎくりとする。
少し残念そうな響きで囁かれた声の正体はすぐに思い当たり、ほっとした事に焦る様な微妙な気持ちになった。
……何となく彼にしては諦めが早いと思っていたのだが、まさかこんな。
「サーディンさん……」
呆れた口調で呼び掛ければ、こちらの意図なんて気にする様子も無く、なになに、と顔を寄せて首を傾げる。男の人なのに可愛いなぁ、なんて明後日な事を考えたのは軽い現実逃避だったかもしれない。
マコトは静かに上半身を起こし、肌寒さに毛布を引き寄せる。サーディンと反対側にいるサラに視線を向けたが、起きる様子は無く、ほっと胸を撫で下ろした。サラに見つかればきっと大騒ぎになるだろう。目を覚ます前に追い返さなくては。
決意してサーディンに臨めば、至近距離にいるせいか微かな月明かりでもその表情は見えた。いたずらが成功したような子供そのものの笑顔にマコトは毒気を抜かれて、細く長いため息を吐き出した。
既に彼に対して怖いというイメージは無く、それよりも掴みどころの無い不思議な人と言った方がぴったりくる。
「サーディンさん。……サラさんが起きる前に出ていった方がいいですよ。騒ぎになったら大変でしょうし」
静かに寝息を立てているサラに気遣いマコトは、声を潜めて忠告する。しかしそんなマコトの気遣いを笑う様に、サーディンは、普段と変わらない声の大きさで、あはは、と笑った。
「大丈夫大丈夫。サラは薬でぐっすり寝てるから」
にこやかに笑って狭いゲルの中で杖をくるくる回し、危な気なくピタリとサラの顔の前で止めた。
「え?」
(今ものすごく聞き捨てならない言葉を聞いた気がするんだけど)
今のはつまり、サラに薬を盛ったと言う事だろうか。 明らかに本人の同意など無かった事はマコトにも分かる。
「……サーディンさんが、飲ませたんですか」
この状況で彼以外の仕業とは考えられないが、少しでも自分のした事を反省してくれないかと、敢えてそ の問いを口にした。同族でしかも年下の女の子に一体なんて事を。
しかしサーディンは躊躇無く、うん、と頷いた。曇り一つない爽やかな笑顔に、何故かこちらが間違った事を言ってた様な錯覚に陥ってしまいそうだ。
「大丈夫なんですよね? 身体に害は無いんですよね?」
これだけは聞いておかねば、と確認すれば、サーディンは「もちろん」と歌うように答えた。その口調は状況に見合わず軽い。
問題は、何故ここに彼がいて、サラにそんなものを飲ませたかと言う事だ。
「あの、タイスィールさんと一緒に、王都に行ったんじゃなかったんですか」
確か呼び出しが掛かり、不機嫌な顔で出ていったのは昼前では無かっただろうか。行って戻って来たと言うには早過ぎる。以前サハルが戻った時は、トンボ帰りしても丸二日程掛かっていた事を思い出し、疑問を持つ。
「ああ、タイスィールは一人で王都に行っちゃったよ。どうせ大した用事でも無いし、途中で撒いちゃった。ちなみに、サハルもここにいないよ」
「……どうしてですか」
こういう場合の頼みの綱であるサハルの名前をついでの様にさらりと出されて、マコトは悪い予感を覚えた。
「マコトのオアシスでちょっとした騒ぎがあってさぁ、様子を見に行ったよ。遠いから行って帰って夜明けまでかかるかな」
……こんな夜中に騒ぎ?
実感は無いが、自分に深く関係するオアシスである事は間違い無い。いや? もしかすると。少し不安になって、黙ったまま続きを促せば、サーディンはマコトの枕元に胡坐をかき、杖を持っていない方の手をひらひらさせた。
「あ~大丈夫大丈夫。ちょっと魔法掛けただけだから」
やっぱりあなたですか!
どこかで予想していた展開に心の中で突っ込んで、マコトは無言のままサーディンを見つめ、 反省する様子も無い彼に再び溜め息をついた。どれだけ離れているのか分からないが、こんな夜中にオアシスまで向かったサハルが気の毒すぎる。
「……どうして、そんな事したんですか」
何を答えられても、理解出来る気はしないが、歩み寄りは必要だ。しかし返ってきたのはとてもシンプルな一言だった。
「マコトと一緒にいたかったから」
「……はい?」
「あ、本気にしてないし」
酷いなぁ、と口を尖らせたサーディンに、マコトは今度こそ大きな溜め息をついた。
言動や行動から察するに、確かにサーディンには気に入られているのであろう事は分る。しかし、異性としてと言うよりは、からかいの対象としてという感じが強い。 奇妙に思える程の執着も、気に入りの玩具に固執している様な子供っぽいものだ。 つまり、こうやって自分をからかって遊ぶのが面白いのだろう。
「ね、行こう。マコトの為に面白いものいっぱい集めたんだよ」
自分の為に、という一言に少し良心が痛んだが、マコトは首を振った。サラが目を覚ました時、自分がいなければきっと心配するだろう。
マコトの返事は予想していたらしく、サーディンは焦る様子も無く、口を開く。よほど深い眠りの魔法を掛けたのか、少し大きな声にもサラが起きる様子は無かった。
「え~じゃマコトも眠らせて、代わりにサラ連れてくよ」
「え」
どこに、と聞き返す前にサーディンは、猫の様にニヤリと笑い、その目の細さに不安どころか悪寒を覚えた。
「しかもヤっちゃう」
「……!?」
衝撃に言葉が出ず、マコトは金魚の様に口をパクパクさせてサーディンを見た。今、彼は何を言ったか。
(や、やっちゃう……って、あの)
サーディンが考え事をする様に後頭をかいて、眉間に皺を寄せた。 本気で思案している顔だ。
「もう大きいしさ~勃つかどうか分からないし、言い伝えも怖いからそれならそれで代わりに」
「サーディンさん!」
これ以上聞いては駄目だ。生々しすぎてサーディンを見る目が変わってしまいそうだ。警鐘を鳴らす脳に従い、マコトは慌てて遮った。しかし続く言葉が思い浮かばず、頭に浮かんだ言葉をそのまま口にした。
「そういう冗談は嫌いです……っ」
そう叫んで、衝撃に潤んだ瞳で軽く睨むとサーディンは、はっとした様に顔を上げ、慌てた様にすり寄ってきた。
「……っごめん!」
そう叫んで勢いよく頭を下げる。素直な謝罪とその勢いに驚き、目を瞬いていると、上目遣いで見上げたサーディンが、おそるおそる口を開いた。
「ねぇ怒った? 怒っちゃった? ごめん、もう言わないから嫌わないで!」
宥める様に顔を覗き込んで必死に言い募るその姿はまるで 、いたずらをして母親に叱られるのを待つ子供の様だ。
「……もう言いませんか」
「うん」
「サラさんの薬はホントに大丈夫なんですよね」
「それは大丈夫、朝になったら自然に目ぇ覚めるから」
良かったと胸を撫で下ろすと、じぃっと見つめてくるサーディンの視線に気付き、顔を上げる。 そろそろとマコトに身を寄せて顔を覗き込んでくるその姿はまるで猫の様だ。
「……ねぇ、じゃ、サラ連れてかないから、マコトは来てくれる?」
いつのまにかそんな交換条件が。
何故そうなるのだろう、と鈍く痛んできたこめかみを摩れば、サーディンの眉が寄せられた。
「ねぇ、駄目? 僕の事嫌い?」
重ねて問い掛けられて、心が揺らぐ。縋る様な甘えた目は狡い。
「マコトに喜んで貰えると思って色々揃えたのに」
悲しそうに目を伏せてそう呟くサーディンに、ぐ、と詰まった。
(……夜明け前に戻れば、大丈夫、よね……?)
それにこのまま帰せば、自分が寝ている間にサラによからぬ事をされる恐れもある。…… いや、もしかすると次は自分が眠らされて何かされたりするのだろうか。マコトが起きた時、サーディンは、残念と言った。最初から眠ったままどこかに連れて行くつもりだったのかもしれない。……それならまだ意識がある方がマシだ。
「……少し、だけなら」
マコトはとうとう白旗を上げた。
* * *
マコトが頷くや否や、サーディンはマコトの手を取り、すぐ立ち上がった。 何か魔法の様なものを使って移動するのかと思ったが、意外に もサーディンは真っ当に扉を指さし、静かにね、と今更な注意をした。
(ごめんなさい。すぐ帰って来ますから)
と気持ち良さそうに寝息を立てるサラを一度振り返って、マコトは心の中で頭を下げる。
「ほら、早く早く」
急かすサーディンにマコトは足元に揃えて置いたサンダルを履き、腕を掴まれたままゲルを後にした。
折れそうな程細い月は、今日も淡く優しい月光を讃えている。弾む様に歩くサーディンに引き摺られながら、マコトは注意深く周囲を見渡した。
(……ナスルさんは……)
今朝から彼の姿は見ていない。タイスィールが忠告してくれたせいか、もしくはマコトが事情を知ったせいなのか。肌を刺す程の殺気や威圧感が一切無くなったので、ナスルがいるかどうかもう判別する事は出来ない。今、この状況で、例えば声を上げたらナスルは助けに来てくれるだろうか。そんな事を思って、その愚かさに自嘲気味に笑う。彼は誇り高く仕事は仕事で、なおかつ彼が尊敬する王からの命令なら、きっと彼は自分の意志を殺して助けてくれるだろう。
だから、きっと。
――いる。
この状況で彼が現れないという事は、危険は無いと判断したのだろうか。
サーディンの住まいは集落の一番奥の一際大きなゲルだった。サンダルに入った砂を落とし、マコトは「お邪魔します」と呟いて迷いつつもゲルの中に足を踏み入れた。明かりは既に点いており、……というか点けっぱなしだったのだろう、眩しさに目を瞬かせてそのゲルの中を見渡したマコトは、小さく感嘆の声を上げた。
「おもちゃ……」
広い部屋の壁にぎっしり棚が備え付けられ、その上にはなんだか分からない複雑なものから木や鋼で作った素朴な玩具まで所狭しと並んでいる。
それだけでは飽き足らないのか座り心地の良さそうな長毛の絨毯の上に、幾つもの人形が並べられ、その隙間を埋める様に大小さまざまなクッションで埋め尽くされていた。それら全てが何かの動物の形をしており、ボタンや刺繍で目や鼻が付けられており文句無く愛らしい。
(可愛い……)
一言で言えば子供部屋。果てしなく彼らしいといえば彼らしい部屋である。
素材が限られているせいだろうか優しい色合いと独特な雰囲気に、自然と頬が緩む。子供のようだ、と自覚しつつもきょろきょろと周囲を見渡せば、部屋の奥の机に置かれていた木の仕掛け玩具が目に止まった。
長い木の棒がいくつも組み合わされ、一番下にいくつか小指の先程の玉が置いてある。これを上から転がすのは何となく分かった。
(こういうの見た事あったなぁ。なんだっけ……)
小学生の頃、夕方母が帰るまで時間潰しに見ていたテレビ。
ビー玉が傾斜を滑ったり、小さなトンネルを潜ったり転がす装置、ペンギンと不思議な生き物達が登場し、何かを紹介していく子供番組だったはずだ。
ころころ転がっていくビー玉の動きや、その音が好きで無心に見ていた覚えがある。
「……あの、触っていいですか?」
「うん、いいよ」
了解を貰って玉を掬い上げると、そこにも動物の顔が書かれていた。素朴で可愛い、猫なのに目が垂れていて、なかなか味のある顔だ。
「可愛いですね」
思わずぽつりと呟けば、サーディンは嬉しそうに口の端を吊り上げた。
「でしょでしょ!? マコトなら気に入ってくれると思ったんだ!」
勢い込んでそう言ったサーディンは、マコトに歩み寄ると、一つ玉を摘まみ、一番上からそれを転がした。かたかた音を立てながら、水車を回し、スロープをゆっくりと回ったかと思うと階段を下って、最後にちりんと鈴を鳴らし、小さな箱に入る。
その一つ一つの動きをマコトとサーディンは子供の様に顔を寄せ合い見つめていた。いち早く我に返ったのはマコトだったが、じっと熱中しながら見ているサーディンに苦笑して、気付かれない様にほんの少しだけ距離を置く。
(普段はここにいないんだから……わざわざ揃えてくれたんだよね)
気持ちは嬉しいし、マコトも可愛いものは好きではあるが、人形を抱いて眠る年齢でも無い。十四歳だと思っているにしても、これはいささか子供向けすぎるのではないだろうか、と考えてから、マコトは、ん? と首を傾げた。
(違う違う。サーディンさんは、あたしの年齢知ってるんだよね)
「思ってた以上に色々集まったなぁ。真面目すぎて使えないと思ってたけど、なかなかいい趣味してるじゃん。これは褒めてやらないと」
ひとしきり眺めてからサーディンは、顔を上げ満足そうに笑うと、ぬいぐるみがたくさんあるスペースへとマコトを呼んだ。
聞き慣れない名前……らしきものにマコトが首を傾げるとサーディンは、にっと猫の様に笑って「僕の部下~」と似合わない言葉を口にした。
サーディンの部下。
サーディンが、宮廷魔術師だと言う事は既に知っていたが、部下がいるほど高い地位にいるとは知らなかったマコトは、不謹慎にも驚いてしまった。
しかも。
(か、可哀想とか思っちゃ駄目だよね……っ)
大の大人であろうに、もしやこの玩具の類を用意させられたのであれば、あまりにも気の毒だ。
「ああ、別にこれ全部用意させた訳じゃないからね。半分くらいは自前だから。ほらこっちこっち」
安心していいのか微妙な言葉にマコトは眉間に皺を寄せたが、サーディンは気にする事無く、ぐいっとマコトの腕を強引に引っ張った。
「ちょ、サーディンさん!?」
部屋の隅、一際高くクッションが積み上げられた一角で力任せに引っ張られてマコトの身体が傾く。体勢を立て直す暇も無く、マコトはぬいぐるみとクッションの上に沈んだ。
見た目よりも固く、マコトは一瞬顔を顰めたが、自分がいた世界のぬいぐるみやクッションと比べる方が無茶と言うものだろう。
「可愛いでしょ~? これもね、昔の『イール・ダール』が伝えたものなんだよ。昔は子供に玩具なんて与えようとか思わないからね。マコトの世界にこういうのいっぱいあるんでしょ?」
いいよねぇと言いながら手近にあったぬいぐるみの頭を撫でる。色んな端切れを縫い合わせたそれは鳥の様な形をしていた。
「そうなんですか」
意外な気持ちでマコトもサーディンの手の中にあるぬいぐるみを見つめる。何となくもっと希少な知識こそ珍重され必要とされるのでは無いかと思い込んでいたので、何の特技も技能も知識も無い自分なんかが『イール・ダール』で申し訳ないと思っていた。
(……私にも、何か伝えられる事ってあるのかな……)
ぬいぐるみがこんなに重宝されるならば、可能性はゼロではない気がする。
そんなことを考えながら、振り解けないほどしっかりと握られた手を繋いだまま仰向けに転がる。天井には空色の布が張っていた。混じりの無い鮮やかな青。砂漠の、この世界の空だ。
「気持ちいいねぇ」
しかし強引に引き摺りこまれたのには違いない、一言何か言おうと口を開いたが、邪気の無いサーディンの笑顔にマコトは結局口を閉じ、素直に頷いて同意した。
……確かに気持ち良い。顔のすぐ横に転がっていた小さなぬいぐるみを手に取り、頭を撫でていると。ふいに繋いでいた手を離されて、マコトはゆっくりと横を向いた。サーディンはいつもの猫みたいな笑顔で、はい、と伸ばした腕を差し出す。
「腕枕、してあげる」
腕枕。
聞き慣れない単語に一瞬動きが止まり、持ち上げていたぬいぐるみが手から滑り落ち胸元で弾んだ。
「……え? いえ、その結構です……けど」
また一体何を言い出すのか。どうしてこの状況で突然腕枕などと。
(駄目だ、やっぱりこの人理解出来ない)
「遠慮しないで」
「してません!」
どうすれば、顔を引き攣らせてじりじりと体を離す自分を見て、遠慮してる様に見えるのか。
これは本格的に逃げた方がいいと、判断しマコトが素早く体を起こせば、それを見上げたサーディンが口を尖らせる。
「イイコにしてないと、食べちゃうよ。あ、マコトなら食べられてあげてもいいけど」
立ち上がりかけた所を再び引っ張られて、サーディンの胸に飛び込む形で倒れ込む。そしてそのままぎゅっと抱き込まれたかと思うと、抵抗する前に頭を撫でられた。意外な程優しい仕草は過去の母親を思い出させ、抵抗しようとした胸に置いた手が止まった。
「マコトはイイコイイコ」
よしよし、とまるで幼い子供にするような仕草に、マコトの身体から自然に力が抜ける。
「……何の、真似ですか」
困惑しながらも尋ねるとサーディンは手を止めずに、囁く様な優しい声で呟いた。
「甘やかしてる」
……甘やかす? 一体何を。
眉を寄せたマコトの表情にサーディンはニヤっと笑って今度は髪の毛を梳き始める。
「いいのいいの。いつか僕が甘やかしてもらう為にしてる事だから、気にしないで」
甘やかして貰う為にしてる……?
分からない。一体何を考えているのだろうか。
(いや、でもこの格好は、うん、駄目だよね)
手はいつまでも止まらず、逃れようと身体を捩ってもびくともしない身体に、マコトは困り果てる。そしてその体勢が長くなると思いきりサーディンの胸に体重が掛かっている事が気になってきた。
「重い、ですよね……」
そう言って上半身を起こそうとすると、サーディンはくすくす笑ってゆっくりと体を横にした。マコトの体もサーディンの隣に収まり、また体を離す前に抱き込まれた。気付けばマコトの頭の下にはサーディンの腕がある。想像していた以上に固い感覚に体が強張った。
気付けば間違いなく、サーディンが先程言っていた体勢を取らされていた。
つまりは腕枕、である。
「慣れてないねぇ。もうちょっと付け根の方移動してくれる?」
転がす様に腕を傾けると、マコトの頭が言葉通り付け根辺りに移動する。サーディンは顔を傾け目を合わせると満足そうに笑った。
「それにしても、本当意外だよ。『女』に触れても気持ち悪くならないなんて」
暫くサーディンは緊張するマコトの頭を無言で撫でていたが、ふいに小さな声でポツリと漏らした。『女』とはつまり自分の事なのだろう。しかしその物言いに違和感を覚えマコトは首を傾げた。
(私が女らしくないって意味かな)
自覚は、それはもうばっちりある。十八にもなるのに化粧一つした事が無い上に、痴漢に遭うのが嫌でわざと大きめの服を選び、動きやすさからズボンばかり履いていた。年相応の色気なんてどこを探しても無いだろう。
首を傾げたマコトに、サーディンは「あ」と声を上げ、何かを誤魔化すように視線を泳がせた。しかしすぐに、マコトの顔を覗き込むと口の端を釣り上げて笑顔を作る。
「いや、もう僕さぁ、ちっちゃい頃から可愛かったんだよねぇ。で、養母に色々イケナイ事されちゃったりしたからオバサン嫌いなんだよ。血みたいな赤も駄目。口紅思い出して気持ち悪いから」
あまりにも軽い口調に、言葉の意味を理解するのに、時間が掛かった。固まったマコトの髪を一房掬い取りくるくる指に絡ませて遊び始めるサーディンの仕草は無邪気な子供そのものだ。
(冗談、だと思いたいけど)
軽い口調で話すサーディン。その前の一瞬の間をマコトは見逃してはいなかった。
――おそらく、口が滑ってしまったのだろう。
「……」
本当なんですか、と確かめるつもりは、無い。
嘘であればいいと思うが恐らく真実、とまでもいかなくとも、それに近いものはあったのではないかと思う。例え血の繋がらない養母でも愛情を掛けて育ててくれた親を冗談でもそんな風に語る訳が無いと思うから。
それに軽い口調が不自然に浮いて見えたのは、今が初めてだった。
――痛い、と思う。
平気な訳が無い。でも、自分に何が出来るだろう。不快にならない慰めも気の利いた言葉も、受け止める事も、ましてや受け入れる事すら出来ない。
けれど、心のどこかでだから彼はこんなに子供っぽいのだと、冷静に判断する自分もいて、……カウンセラーでも無いくせに、と自分の中の何かが癪に障った。
――違う、痛いのは自分。結局簡単に言えば、誰とも深く関わりたく無いのだ。
だから幼女を好むという噂の真相や、その原因らしきものも探らず上辺だけでも軽く流す。本当は聞いて欲しいのか、聞こえなかったフリをして流して貰いたいのか自分には判断出来ない。彼を自分に置き換えられるほど不遇な人生は送っていない。知ったかぶりで正論を振りかざすのはただの自己満足だ。
「……私だけ平気なんですか?」
自分だけが平気だと、その理由に思い付くものは、小柄で子供っぽいと言う事だけだ。
「うん、ほんとに。マコト凄いね」
口を閉じれば押し付けられた胸の奥にあるサーディンの心臓の音が聞こえる。微かに胸が当たっているが、これこそ彼が嫌悪する『女』の象徴なのではないだろうか。
「私だけが平気なんじゃなくて、もう大丈夫になったんじゃないでしょうか? サーディンさんが少しずつ自分の力で乗り越えてきて」
「……そうかなぁ」
「そうですよ」
マコトの言葉に納得いかないようにサーディンは首を捻る。うーん、何度も唸りだしたサーディンは眉間に皺を寄せて頭を掻き毟った。その手に、そっと、触れる。
「頑張りましたね」
そう呟いて、サーディンを見上げる。
しばらく沈黙が続いて。
「……何言ってんのさ」
不貞腐れたその言葉とは違いその表情は、珍しく照れている様に思えた。
(子供みたいな人なんじゃなくて、子供そのものなのかもしれない)
脳裏に蘇ったのは亡くなった母。忙しい人だったが、休みの日はずっと一緒にいてくれた。穏やかで優しい笑顔で自分の事を見守っていてくれた。敢えて聞かなくても愛されていると実感出来た。大好きだった。子供の頃からなるべく母に負担を掛けたくなくて家事はしていたが、それでもやはり母の存在に絶対の安心感を持っていた。病に倒れるまでは絶対的な存在で、全てだった。いつも撫でてくれた母の手が体が小さい事に気付いたのもそれがきっかけだった。
少し迷ってサーディンの胸から体を捩って伸び上がる。今度はサーディンは腕を引っ張る事はしなかった。
彼には不快でしか無いだろう胸が当たらない様に気を付けて、サーディンの頭をそっと撫でてみた。
あ、見た目以上に柔らかい。
母がどんな風に撫でてくれたか、思い出しながら、手を動かして、少し丸まった背中も撫でてみる。
ちらりとサーディンの表情を見れば気持ち良さそうにうっとりと瞼を閉じていた。ああ、きっと自分もこんな表情をしていたのだろう。
何となく嬉しくなって、母がいつも歌ってくれた子守歌を小さな口ずさんでみる。穏やかで規則正しい呼吸。じんわりと温かいサーディンの体にマコトは小さな欠伸を噛み殺した。




