第三十話 漆黒
それからしばらくしてサハルのゲルを出たマコトは、市場から戻って来たサラとかち合い、結局勧められるままに、サラとニム二人が生活するゲルに向かう事になった。
(……行きにくかったし。ちょうど良かったのかも)
少し強引なサラに困惑したものの、そう思い直し後についていく。先程のニムの態度から考えても彼女には歓迎されない事は分っているから、このまま過ごしていても訪ねるまで、なかなか踏ん切りがつかなかったかもしれない。
「祖父から預かって来たものがたくさんあるんです」
手を引きながら、嬉しそうな表情で振り向いたサラに マコトは心の中でほっと胸を撫で下ろす。どうやら市場の買い出しは良い気分転換になったらしい。
「こちらです」
集落の中心よりはやや奥。先に立ったサラが臙脂色のゲルの扉を叩くと、中からニムの声が返って来た。マコトは心持ち気を引き締める。
「入ります」
扉の向こうに呼びかけて、サラは扉を開けた。先に中に入る様に促され、足を踏み入れた途端、中にいたニムと目が合い、あからさまな溜め息が返って来た。半ば予想通りの反応に、こんな事くらいでへこたれてどうする、と自分に言い聞かせ、無理矢理笑顔を作る。
「お邪魔します」
鋭く向けられた視線に気付かない振りをし、マコトはそっと足を踏み入れた。
「……どうぞ」
てっきり無視されるものだと、思っていたので、ぶっきらぼうながらも返って来た返事に少し驚く。 しかしニムはすぐに背中を向け、止まっていた手を動かし始めた。
(まだ荷解きが終わってなかったのかな……)
そんな事を思いながらマコトはサラの話に頷き、その様子を後ろからそっと伺う。
袋や箱から出した衣類を整理している風にも見えるが……何かおかしい。
違和感に考え込むよりも先に、サラに呼びかけられマコトは慌てて返事を返した。
「こちらで楽になさって下さいね。すぐにお茶をお持ちしますから」
「いえ、あの、お構いなく」
ついつい出てしまった日本人らしい切り返しだが、サラは何も言わず笑って首を振り、奥の部屋に入っていった。
ぼうっと立っているのも目障りだろう。同じ部屋にいるニムを気にしつつも言われるまま絨毯の上に座ったマコトは、さり気なく部屋の中を観察した。女の子の二人暮らしのせいか、可愛いらしい小物や色物が多く、今まで訪れたゲルに比べて全体的に華やかに見える。
その一角にただ一つ見覚えのある箱を見つけて、マコトは、 あ、と小さく声を上げた。特徴のあるそれは、間違いなくマコトの衣服が入っている衣装箱だ。 タイミングよく盆に茶を乗せ戻って来たサラも、同じ方向に目を向け、ああ、と頷く。
「ナスル様が運んで下さったそうですわ」
……昨日の一件は、もしやもう耳に入っているのだろうか。
気遣う声音にマコト一瞬唇を噛むと、そうですか、と頷き、すぐに話題を変えた。
「……あの、ずっと聞きたかったんですけどサラさん達は、お風呂とかどうなさってるんですか」
話題を逸らせたくて勢いで口にした質問だったが、タイミングが良かった。マコトに取ってはわりと切実な問題だ。
しかしサラは、表情を曇らせてから、絨毯の上に額を擦らせる勢いで、「申し訳ありません」とか謝罪の言葉を口にした。
「え……?」
「本来ならたっぷりのお湯で湯浴みして頂くものなのですが……私の力が及ばす、『イール・ダール』ともあろうお方に、ご不便な想いをさせてしまって申し訳ありません」
「あ……」
何も責めたい訳では無い。慌てて首を振ったマコトだったが、サラは俯いたまま謝罪の言葉を繰り返す。真面目すぎる……というか思い込んだらそれ以外は見えない、という性格なのだろうか。どうしたものか、と考えあぐねるマコトに、意外な助け舟を出したのは、それまで黙っていたニムだった。
「そーゆー事聞いてんじゃないでしょ」
少し低い呆れた声に、マコトとサラは同時に彼女に視線を向けた。
はぁ、と大袈裟な溜め息をつき、ニムはサラをじとりと睨んでから、マコトに視線を置き口を開くと、 息をつく暇も無く早口で説明を始めた。
「ここにいる間あたし達は、大体布で汗を落としてるわ。三日に一回はお兄ちゃんやタイスィール様とか、魔法が使える人に頼んでオアシスの水呼び込んで貰って水浴びするつもり」
分かりやすい説明にマコトはまじまじとニムをみた。回りくどいサラに焦れた故だろうが、 自分に教えてくれたのは事実だ。純粋に嬉しくなって礼を言えば、ニムはふん、と鼻を鳴らしそっぽを向いた。
「では、明日にでも私がどなたかに頼んでみます」
少し間が空き、取りなすように言い添えたサラの言葉にマコトは、自然と笑顔が浮かぶ。
「嬉しい。お願いします」
素直に言葉にして頭を下げれば、とんでもありません、と恐縮したサラの声が降ってくる。汗を流す事が出来るなら、この際水浴びでもなんでもいい。
珍しく弾んだ様子のマコトにサラも嬉しそうに微笑んだ。
「明後日から祭りも始まりますし、皆さんも潔斎されますからちょうどいいですわね」
「祭り……?」
「ええ、元々ここには女神祭の為にいるんです。三日三晩明かりを絶やさず独身の男性がお祈り致しますの」
そういえば、初日の夜にサハルからそんな説明を受けた気がする。
――そうか、明後日からその祭りが始まるのか。
「女人禁制のお祭りで祠に入れるのは独身の男性だけですから、私達も見る事は出来ないんです。けれどその期間の間位は、用意した相応しいお衣装にお着替え下さいね。たくさんありますから」
とてつもなく嬉しそうなサラに、マコトはこの先の展開に悪い予感を覚えて、思わず後ずさってしまう。 着せ替え人形――そんな単語が頭に浮かんだが、人形とは愛らしいものだ。 自分には向かない……いや、似合わないと言った方が正しいだろう。
しかし、サラはそんなマコトの様子を気にする事無く、素早く立ち上がると傍らの衣装箱の方へ向かった。
「さぁ、まずは脱いで下さいね」
箱から煌びやかな衣装が出され、マコトは今度こそ顔を引き攣らせた。
あ、と思ったのも束の間、サラはなんの躊躇も無くマコトの前に立ち、ボタンを外していく。その自然で 馴れた仕草に、そういえばサラは女官だったと思い出した。きっとこんな風に王宮でも貴人の着替えを 手伝っているのだろう。
しかし、マコトにとって他人に服を脱がせて貰うなんて経験は幼い頃以来だ。
「自分でやります……!」
慌てて身を捩りそう言えば、サラは驚いた様な顔をして首を傾げた。
「マコト様?」
「あの、自分でやりますから」
胸元を隠すように手を交差させ、後ろに下がると、サラは困った様に首を振った。
「私の仕事ですわ」
どうやら譲る気は無いらしい。
(子供じゃないんだから……、どうしよう、本気よね)
着替えを手伝われるのは勿論嫌だが、それよりも問題は胸の事だ。
年齢にしては不自然に大きい胸――、年齢を誤魔化している事がバレるのではないだろうか。 同姓であるイブキにすぐに指摘された事を考えれば、可能性は高い。
躊躇している間にも、サラの手が遠慮無く伸びてボタンを外された。 手際よくワンピースを脱がされて、マコトは青くなって慌てて胸を押さえる。
「あら……」
何かに気付いたようなサラの声に、心臓が跳ね上がる。
恐る恐る目を開ければ、案の定サラは口元に手を置きマコトの胸を凝視していた。
(バレた……!?)
覚悟を決め。そのまま無言で言葉を待つ。
……やはり事実が露呈すれば罵られるだろうか。……それも仕方ない。 結婚したく無いという、ただの我侭で年齢を誤魔化しているのだから。
しかし一呼吸置いてゲルに響き渡ったのは、罵倒では無く歓声に近い サラの高い声だった。
「まぁまぁまぁ! 『イール・ダール』は華奢な方が多いと聞いていたんですけど……! どうしましょう。私がお持ちした衣装少し子供っぽすぎるかもしれませんわ!」
何故か嬉しそうにそう叫んだサラの言葉通り、持ってきてくれた衣装は結局どれも入らなかった。 わりと胸からウエストまでぴったりとした衣装が多いのも災いして……いや、マコトにとっては幸運だったかもしれないが。
(あんなヒラヒラ無理! 絶対似合わないし!)
色合いも派手なものが多くやたらと裾が長い。こんな砂漠の中であの衣装は一種の拷問だ。
「私こんな魅力的な『イール・ダール』の世話係になれるなんて光栄です!」
入らなかった衣装を胸に抱き込み、サラはうっとりとマコトを見つめる。その瞳は熱に 浮かされた様に興奮で赤く染まっている。
……今、何か自分とはほど遠い形容詞を聞いた気がする。いつにないサラの勢いに助けを求める様にニムを見れば、無言のままマコトを観察していた。目が合うと分かりやすく逸らされ、不安になる。
(もしかしてバレた、かな……)
仕方が無いと思いながら出来ればもう少しだけ、時間が欲しい。 誰かを選ぶ時間ではなく、一人で生きていける算段がつくまで。
ばん、と勢いよく箱が締められ再びマコトの心臓が跳ねた。 ニムが大きな袋を肩に掛けくるりと回転しサラに向き直った。
「じゃあ、あたし行くからね」
不貞腐れた様に呟かれた言葉に、サラもマコトも目を瞬く。
「え……本気でしたの?」
「もちろん。なんであたしが赤の他人と一緒に暮らさなきゃいけないのよ。狭くなっちゃうし、こっちに来るならあたしがお兄ちゃんの所に行くわ」
「……ぁ……」
ニムの言葉が胸に刺さって、息が苦しくなる。
言うべき言葉が見つからない。じゃあ、別の場所に行きます、と言えればどんなに楽だろうか。 戻る場所も、帰る場所も無い。結局ニムを追い出す形になってしまった事に、マコトは胸を押さえ そっと目を伏せた。
(だから……サハルさんの所にいたんだ)
サハルのゲルを訪れた時に聞いたやりとりもこれで納得出来る。結局優しい彼にも迷惑を掛けてしまう事になるのだろう。
少し仲良くなれた気がしたのは気のせいだったのだろうか。マコトは勢いよく閉められた扉を見つめて、そっと顔を伏せた。そんなマコトにサラはフォローする様に慌てて 口を開いた。
「……っもう! あんな失礼な言い方をして……!」
そう呟き眉を寄せた後、サラは気遣うようにマコトを見た。
「お気を悪くしないで下さいね。悪い子では無いのです」
さっき助けてくれた事から察するにそうなのだろう。 サラは手際良く衣装をたたみ直して、衣装箱の中に直し込むと、今度はまた別の少し小振りの箱を持ち出した。
せめて髪くらいは結わせて下さいね、と真剣な瞳を向けられ、 マコトはそんな気分では無かったものの、小さな笑みを作り頷いた。 大きな手鏡を渡され、マコトは久しぶりに自分の顔と対面する。
寝不足で腫れぼったい瞳。その表情は明らかに強張っていた。 櫛も通していない髪はきっとごわごわになっているだろう。 ……嫌になったマコトが、手鏡の中の自分から視線を逸らすと、 サラは一瞬訝しげな顔をしたが、何も言わずに髪を梳き始めた。
自分の髪の汚さも気になったがきっとサラは譲らないだろう。しかしそれにしても、人にこうして髪を結って貰うなど子供の頃以来だ。
(気持ちいいなぁ……)
他人の手が頭を撫でる感触に、純粋にそう思う。
そして暫くして。
「綺麗な御髪でございますね」
髪に櫛を通しながら、うっとりした口調で呟いたサラにマコトは驚いた。ごわごわだった髪は 丁寧に水で浸されたタオルで拭われたお陰で、つやつやと輝き始め、マコトの気分もいくらか上昇していた。
「え……サラさんの方が綺麗じゃないですか」
そう言ってマコトは鏡の中のサラの髪に視線を向ける。
サラの髪はカイスよりも柔らかい銀色だ。癖も無く、そのまま垂らすだけで涼し気に見え、それだけでも羨ましい。
しかしマコトの言葉にサラは驚いたように櫛を止めた。
「そうですか? なんだか灰みたいであまり好きでは無いのですが」
「え?」
思っても見ない言葉にマコトは思わず目を瞬く。
「私がいた世界っていうか、国は、みんな黒髪で、わざわざサラさんと同じ色に染めてる人もいますよ」
アッシュ・グレイとかそう言った名前だったか。 少し前になるが、芸能界でもそんな色が流行り、クラスの男子がそんな色に染めていた。
しかしやはり比べて見ると本物とは艶が違う。おぼろげに覚えている男子の髪の色は、もっと乾いた 様な不自然な色だった。鋭く光る刃の様なカイスとも、サラの様な大地を照らす 月の様な柔らかな自然な色では無い。
マコトの言葉に、サラは嬉しそうに頬を染めて櫛を動かす手を再開させた。
「そうなのですか。でも私はやっぱりマコト様が羨ましいですわ。漆黒と言えば王家の方々と同じなのですもの」
「王家……」
思わず反芻した言葉に、サラが何か言いましたか、と首を傾げる。慌てて首を振った マコトの脳裏に浮かんだのは、昨日のナスルの固い表情。
冴え冴えとした冷たい声が耳に蘇り、マコトは膝の上に置いた手を握り締める。
ナスルが大事に想っているあの『王様』が黒髪。
……同じだからこそ余計に許せなかったのだろうか。
ぼんやりとそんな事を思った。
「ええ。だからこの世界では黒髪に憧れる者が多いのですわ」
サラはそう言うと、それほど長く無い髪を器用に纏めて涼し気な髪型にしてくれた。項が見えるだけで随分イメージが変わる。
「凄い、上手ですね……」
「仕事ですから」
そう言って鏡の中で微笑んだサラは嬉しそうだった。
ほっとした様な年相応の笑みに、可愛い、と思う。
彼女にも、この世界にも少しずつ慣れていけばいいだろうか。少し苦手かもしれない、と 思ったのが申し訳ない。思えば彼女も自分の仕事を休んでここまでやって来てくれたのだ。
出来るだけ彼女の望む通りに行動しよう、と、マコトは決意した。
「これから宜しくお願いします」
鏡越しにマコトがそう言うと、サラは控え目に、しかし嬉しそうな微笑みを返した。




