第二十八話 独占欲(サハル視点)
食事を終え、新しく送られてきた仕事に取り掛かる為にサハルはゲルに戻っていた。
手伝えなくてすみません、と頭を下げれば、マコトはどこかほっとした様に首を振り、十分にして頂いてますから、と遠慮がちな微笑みを浮かべた。その余所余所しさに少し落胆したのは事実。けれど俯いたその頬が気恥ずかしそうにほんのり赤く染まっていた事に、気持ちが和らいだ。
コンコン、と遠慮がちに扉が叩かれ、サハルは手にしていた書類から顔を上げた。
「……宜しいでしょうか」
少し間を置いて耳に入ってきたその声に、小さく苦笑して書類を引き出しにしまい込むと、立ち上がって扉を開けた。居心地悪そうに少し俯き立ち尽くすかつての弟弟子。随分久しぶりに会ったが彼の愛すべき純粋さと正義感は変わっておらず、それを羨ましいと言ったタイスィールの気持ちは分からないでも無かった。
「どうぞ。お茶でも淹れましょうか」
彼の緊張を解すように微笑んで中に入るように促せば、伏せられた青い瞳がゆっくりと持ち上がる。そしてサハルと視線を合わせる事なく、ハッシュは固い表情のまま 無言で頷いてゲルの中に入ってきた。
(随分思いつめてるみたいですね)
いつも礼儀正しい彼らしくない態度に、そう思う。
少年特有の正義感故か。
それとも他に何か思う所があるのか。
知らず内に思案が探る方向に傾き、ふと我に返って猜疑心の固まりの様な自分に呆れ、仕切り直す様に小さく息を吸った。
「お座りなさい」
席を勧めお茶を淹れている間も、物言いたげなハッシュの視線が背中に刺さり、サハルは彼からは見えない角度で苦笑する。
彼が何を言いに来たのか、サハルには分かっていた。
落ち着かせる意味も込めて、丁寧に時間を兼ねてお茶を淹れる。少し疲れた時 に飲む甘味の強い茶葉は、彼には有効だろうか。
ハッシュの前に、湯気のたったお茶を置けば、ハッシュはそれを見下ろしたまま、躊躇うように何度か口を開いては閉じる事を繰り返し、敢えて何も言わずハッシュの斜め 前に静かに腰を落ち着けると、ようやくハッシュは言葉を発した。
「マコトさんの、事なんですけど」
躊躇うように途切れた言葉、瞳には探るような色があった。予想通りの言葉にふと笑いが込み上げたが、サハルは穏やかな表情を崩さずに頷いた。
「護衛なんですが、ナスルさんではなく、他の方ではいけないのでしょうか」
「……王の命令ですからね。あの方が個人的に信頼されている親衛隊に西の一族はナスルしかいないのです。撤回するのは難しいでしょう。……それに何か考えがあるようですし」
そう、かつての親友の弟だからと、王はナスルを可愛がり目を掛けている。頑なな思い込みと女嫌いを治すいい機会だとでも思っているのだろう。
迷惑な。
思わずそんな非難を口に出しそうになり、苦笑して打ち消す。きっとハッシュも同じ事を思っているのだろう。
サハルの言葉に、ハッシュは眉を顰め、食い下がる様に言葉を続けた。
「でも、このままではあまりにマコトさんが気の毒です。……ナスルさんの態度は変わるとは思えませんし、理由も分からず冷たくされるなんて」
「理由はきっと知ったと思います。昨日一緒だった時に、ナスルはきっと話したのだと思います」
「……え」
遮る様なサハルの言葉にハッシュは驚いた様に目を瞬かせた。馬鹿な、と掠れた声で呟き、縋る様にサハルを見上げた。
「マコトさんは、何も聞かなかったと仰っていましたが」
心から、彼女の賢さと優しさに敬服した。堰を切って溢れた涙を思い出し、サハルは彼女を抱き締めたゆえに触れ合った胸を押さえた。まだ熱い気さえする。触れた小さな肩は小刻みに震えていた。
「勝手に情報を漏らせば、ナスルがどうなるか察したんでしょう。優しい人ですから」
「どうして……ッ」
悔しそうにハッシュは唇を噛む。
どうしてナスルは話したのか。
どうしてマコトが庇うのか。
その後に続く言葉は何だろうか。あるいは両方なのかもしれない。
言いようの無い怒りをぶつけるように、ハッシュは赤みの差した瞳でサハルを睨むように見上げた。
「……どうして昨日、サハルさんは何も言わなかったんですか。私は十年前の出来事はあまり覚えていませんし、人伝に聞く限り、僕にはただの八つ当たりとしか思えません。前の『イール・ダール』は前の『イール・ダール』であってマコトさんとは別人です」
サハルは自分の分のお茶を啜ると、どこか遠くを見る様に目を眇めて、静かに口を開いた。
ハッシュの怒りは正当で、反論出来るものでは無い。サハルだって同じ事を思った。けれどハッシュの様に真正面から責められなかった事には、理由がある。
しかし。
それをハッシュに告げるかどうか迷う。しかし黙っていても彼の怒りは収まらないだろうし、また同じ事を繰り返されるのは、困る。
静かに息を吐き出して、サハルは出来るだけ穏やかに言葉を発した。
「あの時、マコトさんの顔を見ましたか」
「え?」
ハッシュの顔が訝しげに歪む。
「ナスルを責めれば、マコトさんがとても気にするんです」
本当は誰よりも先に口を開く筈だった。マコトと出逢ってから五日。庇護欲をそそる彼女が、ナスルの八つ当たりの対象になっていた事を、一番理不尽だと感じていたのは自分だったかもしれない。しかし、タイスィールがナスルを責めている間、マコトは辛そうに眉を顰め、時々その細い肩を震わせ二人のやり取りを息を潜ませて見つめていた。
そしてナスルにとって親衛隊としても武人としても決定的な非難を口にした時、それを遮った。
だから何も言えなくなった。
一方的な口論が終わった時の、あのほっとした表情を見てしまったら。
「……あの人は自分が諍いの種になるのを恐れています。あそこで私もナスルを責めればもっと空気は悪くなったでしょう。ナスルの兄を知らない私なら、彼の葛藤を知るタイスィールよりも深く彼を追い詰める事が出来ますから」
ハッシュははっとした様に目を見開き、サハルの瞳を凝視した。
そしてすぐに唇を噛み締めサハルの静かな目線から逃れる様に俯く。まだ子供 といっても差し支えのない彼に気付けと言う方が酷だ。だからタイスィールもあえて王の親衛隊としての彼の未熟さを責めた。
「けれど、ナスルは」
しかし、大事な人を傷つけられて、黙って見ているほど優しくは無い。報復はいつか、とは思うが、多分自分がそれをしなくとも。そう遠くない未来に、彼はきっと。
「……後悔、する事になると思います」
彼はきっと抗っているのだろう。
マコトと触れ合えば触れ合うほど、自分の中の『イール・ダール』とは違う存在だと分かってしまうから。
彼の中の『イール・ダール』は、狡猾で愚かそして脆弱、自分の想いだけを貫く我儘な――女、そのものを嫌っていると、タイスィールから耳にした事がある。
サハルは小さく溜息をつき、華奢な身体を包み込んだ腕、そして温かさが残っているような手の平を順番に見下ろす。
抱き締めれば折れそうなほど細い肩だった。ナスルの身勝手さにだって気付いていたのに、マコトは何も言わず、それどころかナスルを庇って見せた。
他人に優しい。彼女の美徳は見ていて切ない。
放って置いたら彼女は他人のエゴや悲しみを受け止め続けて、いつか壊れてしまうのではないだろうか。それに最後、オアシスの事だってまだ話せていない。早い内に言ってしまった方がいいのではと、何度も打診しているが、頑なに長老が反対していた。助けられたことに感謝している彼女が、自分の一族を裏切り、他の部族に行くとは考えにくい。
しかしそれはあまりにも今更で、ひたすらに……彼女の反応が怖かった。
傷つける。そんなことくらい分かるから。
その時、自分という存在が彼女の中でどれぐらいになっているのだろう。
傷付いた彼女はどの位、自分の言葉を聞き入れてくれるだろうか。
むせび泣く彼女を抱きしめたのは二回目。
その温かさと柔らかさに、同情心の他に確かに何かが存在して、ほんの一瞬だけ、――喜んだ自分もいたのもまた事実。
彼女が泣くのは自分の前だけだ、と。
確かに感じたのは満足感と、紛れもない独占欲。
だから分かった。いや、気付いたと、気付かされたというべきか。
自分は彼女の事を、妹などと思っていないことに。
「……僕は余計な事を言ったのでしょうか」
掠れた声で呟いたハッシュに、サハルは出来るだけ穏やかに首を振る。
「いえ、あんな風に庇う存在も彼女には必要です。彼女はあまりにも自分の事に構おうとしませんし」
「そう、ですか」
そう返すものの、その顔は明らかに納得しているものではない。
やはり、傷つけてしまっただろうか。
少し話そうかとサハルが口を開いた所で慌しい足音がした。
「お兄ちゃん。いい?」
返事をするよりも先に扉が開かれ、サハルはその慌しさに少し眉を顰める。
「……ニム」
少し嗜めるように低い声で名前を呼べば、ニムは少し怯んだ顔を見せ、誤魔化すように傍らにいたハッシュに視線を向けた。
「あら、ハッシュじゃない。何の用なの?」
「私が呼んだんですよ。学院長に渡して貰うものがありましてね」
躊躇う素振りを見せたハッシュが答えるよりも先にそう説明する。「そうなの?」と遠慮の無い視線を向けてきたニムの視線を避けるように苦虫を噛み潰したような顔をして俯くと、小さく頷いた。
「僕はこれで失礼します」
ハッシュは俯いたまま視線を合わせる事なく、ニムの隣をすり抜けて出ていった。
「あ、ちょっと! ……変なの」
ニムは遠ざかるハッシュの背中を睨みつけ、頬を膨らませる。
(……あまり思い詰めないといいんですけど)
サハルは小さく溜息をつき、遠ざかっていく背中を見送ると、ニムに向き直った。
「さて、どうかしたんですか」
穏やかなその声にニムの表情が分かりやすい程緩む。サハルは開きっぱなしだった扉を閉めながら、ニムに座るように促した。




