第二十七話 不得手
はぁ、と小さく溜め息をついてマコトは水に濡らした手拭いを目元に押し付け、井戸の端にもたれ掛かった。
結局、サハルはあれからずっとマコトが泣き止むまで、ずっと抱き締めていてくれた。
しばらく泣いてようやく落ち着きを取り戻したマコトが、おそるおそる顔を上げると、 ずっと見下ろしていたらしいサハルの視線とぶつかり、穏やかな焦茶色 の瞳は柔らかく細められ、背中に回された手に、ほんの少しだけ力が込められる。その瞳はどこまでも優しくて、マコトはまた泣きそうになってしまった。
縋りついて泣いてしまった恥しさと、思いがけず優しくされた嬉しさに、謝罪以外の言葉が見つからず、無言で鼻を啜っていると、遠くからサハルの名を呼ぶ声がし、二人の間にあった決して不快では無い沈黙が破られた。
『ニムですね……どうしたんでしょう』
声のした方向に視線を向け、サハルは少し首を傾げる。朝が弱い筈の彼女がこんな早朝に起きているなんて珍しいのだろう。サハルは迷う素振りを見せたもののマコトに断ってから、声がした方に足を向けた。
……きっと明らかに泣いたと分かるマコトと、ニムが顔を合わせない様に気遣ってくれたのだろう。
泣いているのを見られるのも恥ずかしいが、ナスル程とは言わないものの、ニムにだって嫌われている自覚はある。そんな彼女と顔を合わせずに済んだ事に少 しほっとして、同時に後ろめたさを感じた。……まるでニムが自分の甘えを責めるようなタイミングだと思ったのだ。けれどその卑屈さに気付いて慌てて首を振る。
(仲良いよね……)
食事中もべったりとくっついていた二人を思い出してそう思う。慰めを言葉通りに受け取ってはいけないとは分かっているが、気持ちが弱っている時に手を差し出されて、結局そのまま縋ってしまった。
今回だけだ、と自分に言い聞かせ、マコトは迷いを振り払う様に、また首を振った。そして、昨日からポケットに入れっぱなしだったキーホルダーを取り出し、手の中に握り締め祈る様に額に当てた。
「うん……大丈夫」
瞼を閉じ、そう呟く。
サハルのおかげで随分、落ち着いた。
ナスルの事は自分がどうにか出来る事では無い。出来るとすればタイスィールに護衛などいらないと話をする事位だろうか。……それが無理ならせめて他の人に代わって貰えるように頼んでみよう。
とりあえず今自分に出来る事はそれくらいだ。マコトは自分に言い聞かせる様に呟くと、朝食の準備をする為に立ち上がった。
* * *
今日の台所は昨日とは打って変わって賑やかだった。
マコトが台所に着いた時には、宣言通り手伝いを申し出たサラが既に待ち構えていて、大した用事では無かったと戻っていたサハルと共に台所に立っていた。マコトは慌てて二人に頭を下げ、朝食の準備を始めたのだが。
「えっと……あ、いえ、砂糖じゃなくって……」
「えっ!? ぁ、……きゃああっふきこぼれ……っ」
「大丈夫です、火を止めれば……っ」
がっしゃんと派手な音が上がり、鍋の中身が乾いた石の上へと派手にぶちまけられる。 咄嗟にマコトとサラを庇ったサハルは、転がった鍋を注意深く拾い上げ、元の位置に戻した。
「火傷はありませんか」
サハルの言葉にマコトは頷き、鍋を取り落としたサラは、その惨状を呆然と見下ろしていた。
「……申し訳ありません。私、お手伝いどころか邪魔ばかりしてしまって」
白い湯気をたてながら地面に広がるシチューを前に、サラは眦に涙を溜め、深々と頭を下げた。
「誰にだって得手不得手はありますから」
こういう場合はソツのないサハルが、フォローを入れ、マコトは頷いて同意する。
しかし、その過程こそ違うものの、サラが鍋の中身を駄目にするのは、これで三回目だった。
包丁を渡せば、野菜では無く指を切る。調味料を渡せば、瓶の中身を全て注ぎ入れる。
サハルの言葉から察するに長老の孫娘と言うのは、一族でも高い地位にあるらしく、家事の類は全て住み込みの使用人の仕事であり、生まれてこのかた 台所に一度も立ったことが無いらしい。
(貴族のお嬢様みたいな感じかな……)
マコトの脳裏に真っ先に思い浮かんだのはそんなイメージだった。 確かにサラは明らかに良家のお嬢様という雰囲気がある。 身だしなみも物腰も所作も明らかに自分とは違い、普段は王宮に仕える女官だと聞いた時はマコトは驚きつつも納得した。
それにしても確か彼女はまだ十四歳だった筈だ。自分の世界で言うとこ ろの中学生なのに、既に親許から離れ行儀見習いも兼ねて王宮で働いているらしい。
……サハルはああ言ってくれたが、この世界では十四歳と 言うのは、思っているよりも子供では無いのかもしれない。
きっと優しい彼は、泣いても――甘えてもいい理由を用意してくれたのだろう。
(しっかり、しなきゃ……)
シチューを掻き混ぜる彼の横顔をちらりと見て、心の中で二度誓った。
昨日の三倍以上の時間を掛けてスープが出来上がった頃には、既に日は高く昇っていた。
しかし三度目の正直……となると、やはりシチューの具が寂しくなる。しきりにそれを気にするサラに、サハルは、「じゃあ、サーディンとカイスには落ちた分の上澄みにしましょうか」と呟き微笑んだ。
一瞬固まったサラは、まじまじとサハルの顔を見てからふっと表情を緩め「冗談はよして下さい」と吹き出した。
(えっと……)
……サラの気持ちを紛らわせる為の冗談だと、信じたい。が、例によって例の如くサハルは穏やかに微笑むだけで否定はしなかった。
(カイスさんもサーディンさんも、まだ来てなくて良かった……)
しかしサーディンはともかく、何故カイスも道連れなのだろう。 ……わりと損な役回りが多いのは、その性分故なのだろうか。
噂をすればなんとやらで、昨日同様呼び出し役を引き受けた カイスがタイスィールとハッシュを連れて戻り、また一段と台所が賑やかになった。
カイスとサラが父方の従兄弟であるという事は、今朝サラから直接聞いた。
気安い仲なのだろう、サラが失敗する度にカイスは何度も悲鳴を上げ、繰り返しもうやめる様に説得していた。もちろん見た目に反して頑固らしいサラがそれを受け入れる事は無かったが。
「っぶな……っなぁ! もう止めとけよ。次はぜったい指飛ぶぞ!」
彼曰く家事が苦手だった自分の母親を思い出すらしい。
その騒がしい声に、マコトは少しほっとした。朝の挨拶 を交わした時、その表情が少し固かった気がして気になっていたのだ。サ ラの不器用さに気付くまで挨拶もそこそこに台所から少し離れた木の影に腰を下ろし、ぼうっとしていた様に見えたのだが。
(昨日のハッシュさんみたい……寝不足かな? カイスさんも忙しそうだし)
きっとサラと本当に仲がいいのだろう。遠慮の無いやりとりに、サハルとニムの兄弟とは、また違う仲の良さが垣間見える。
ハッシュはと言うと、危なっかしいサラの手付きにちらちら視線を流しつつ、本を読んでいた。タイスィールはすっかり傍観者を決め込んで、騒がしい台所の様子を面白そうに眺めている。
そして、ここでカイスの母の話題になり、マコトは、カイスの亡くなった母親もまたイール・ダールだという事実を知ったのだった。機会があればどんな人だったのか聞いてみよう、とサラの手付きを凝視……というよりは見張っているカイスの横顔を見つめそう思い、そしてようやく食事が始まったその時、また騒ぎが起こった。
「はぁ~!? 何言ってんの! 絶対納得しないからね!」
事の発端は、三杯目のお代わりを待っていたサーディンが邪気の無い笑顔でマコトに話しかけた事だった。
「ね、ね、マコト、いつ来るの。ご飯終わったらすぐ?」
カイスのお代わりを注いでいた手を止めて、マコトは行儀悪く立ったままスプーンを咥えているサーディンを見上げ、一瞬固まる。そして静かにスープを啜ってい たハッシュとカイスもはっとしたように顔を上げた。
「え……」
心当たりが無い訳が無い。
しかし、彼のゲルへの宿泊だけは阻止すると、タイスィールは約束してくれた筈だったが。
不安になり思わず黙り込んでしまったマコトに、サハルが素早く立ち上がり、マコトを庇うように サーディンとの間に立った。――そして静かにゴングが鳴る。
「一体何の事ですか」
分っているだろうに、サハルはわざわざ眉間に皺を寄せ、問いかける。対するサーディンはつま先で伸び上がって、サハルの肩越しにマコトに笑顔を送り続けていた。
「サハルに用は無いってば。ね、今日は僕の所に泊まりに来てくれるんだよね!」
「ぁ……えっと……」
子供の様に無邪気に笑って問われた言葉に、マコトは、助けを求めるようにサハルの背中を見上げた。視線を感じたのかサハルは振り向き、マコトを目が合うと心得たようにしっかりと頷き、またサーディンに視線を向けた。少し厳しいものを。
「君の当番はありません。今日からマコトさんはサラ達と同じゲルに泊まります」
「ちょ……!」
サハルの言葉に寝ぼけ眼でスープを飲んでいたニムがぎょっとしたように声を上げたが、それはサーディンの叫び声にかき消された。
「なんでっ!!」
「自分の行動を振り返ってから言いなさい」
呆れた口調を滲ませてサハルはきっぱりとそう言い切る。しかしそこで引くサーディンでは無く、子供の様に地団駄を踏むと、キッと鋭くサハルを睨み付けた。
「なんでなんでなんで! 酷いよ! なんで僕だけ仲間はずれにするのさ」
「貴方とマコトさんを一緒にするなんて、危険すぎます」
「じゃあ、ナスルだって一緒じゃん!」
サーディンが叫んだ言葉に一瞬周囲が静まり返る。
サーディンとはまた違った意味で危険――つまりはそういう意味だったのだろう。
(そりゃ、みんな気付いてるよね……)
改めて突きつけられた事実に、マコトは小さく息を吐く。この場にナスルがいないのがまだ救いだ。
沈黙を破ったのは、それまで静かにスープを口に運んでいたタイスィールだった。
「王の命令だったからね」
その一言は思っていた以上に効力があったらしい。
サーディンは子供の様に頬を膨らませると、乱暴に皿を置き、足音荒く無言で台所から出て行ったカイスとハッシュは明らかにホッとしたように表情を緩め、 同じタイミングでマコトに視線を向けたが、肝心のマコトは遠ざかっていくサーディンの後姿を見つめていた。
(……なんか、悪い事したような……)
しかし彼にしては随分あっさりと引いたものだ。それだけ王の権力は絶対だという事なのだろうか。
だんだん小さくなっていく背中に、微かな罪悪感を感じ、マコトはまた小さく溜息をついた。




