第二十六話 本当は。
マコトは横になったまま、絨毯の幾何学的模様をぼんやりと見つめていた。
昨日のナスルの言葉や、今までの事を考えていたら、すっか り眠気が飛んでしまった。すぐ近くにナスルがいる緊張感も手 伝ったのだろう。いくら目を瞑っても眠気は訪れず、代わりに ナスルから聞いた『イール・ダール』の話が、ぐるぐると頭の中を駆け巡っていた。
自殺だ、と言い切った冷めたナスルの視線に、性質の悪い冗談などでは無い と分かった。
あまりにも違う世界に、孤独を感じたからだろうか。 それとも大事な人ともう会えない事に絶望したからだろうか。
理由らしきものは自分に置き換えれば、簡単に思い浮かんだが、まさか他に想う人がいたからだとは想像もしなかった。死を選ぶ程の想いなどマコトには理解出来ない。
しかしこれで自分を見張っている理由がはっきりした。
逃げないように、自ら死を選ばない様に。
けれど、それは――オアシスの為で。
結局、自分自身に価値など無い事を知らしめられた。
……それに、正直に言えば、マコトだってナスルの兄に同情し、後の事を何も考えず 、死を選んだ『イール・ダール』に憤りを感じる。そこまで嫌だったのなら婚約などする前に逃げれば良かったのだ。
この世界で育った訳では無いマコトには想像するしかないが、『イール・ダール』と共に現れるオアシスの存在はとても大きなものだろう。しかも女神の怒りを裏付ける様に、それ以降オアシス も『イール・ダール』も現れない状態で、人々は行き場の無い 不安と怒りをそのまま彼にぶつけたに違いない。そしてそれは彼の弟であるナスルにも向けられた筈で。
彼が『イール・ダール』を憎むのは仕方無いとさえ思えた。
(なるべく手間を掛けさせない様に……大人しく、してよう)
ナスルも大事な王の命令だからこそ、渋々従っているのだろう。関わらないで欲しい、と 拒絶したナスルの固い表情を思い出し、マコトは痛みに耐える様に寝袋の中で身体を丸めた。
気付けば随分と時間が経過し、空も白みはじめていた。今から眠ったら、きっと朝食の準備に間に合う時間には起きられないだろう。この世界に目覚まし時計があるはずも無く、マコトは迷ったものの結局そのまま起きている事にした。
自分が、この世界で任された唯一の仕事を放り出す訳にはいかない。
寝袋の中で息を潜め、扉の隙間から漏れてくる光が明るくなるのを待つ。
(もう、いいかな……)
のそりと寝袋から這い出し、そっとナスルを盗み見る。目は瞑っているが、おそらく彼も眠ってなどいないだろう。
「……朝食の、準備をしてきます」
昨日のように返事は無いが、聞こえているはずだ。マコトは一瞬目を伏せて、それから立ち上がると、箱からタオル代わりに使っている布と、タイスィールから貰ったスカーフを手にし、静かにゲルを出た。
眩しい朝陽に目を眇め、まだ青が濃くなる前の 透明な空を見つめる。ゲルの中で息を潜めていたせいか、大きく乾いた空気を吸い込むと、胸に 開放感が広がった。
寝不足と考え過ぎで少しぼんやりした頭に、よし、と気合いをいれて、顔を洗う為に井戸に向かおう としたその時、後ろから声が掛かった。
「おはようございます」
その穏やかで優しい声に、一瞬力が抜けた。
気を緩めると泣いてしまいそうで、マコトは堪える様に一度ぎゅっと目を瞑った。そして出来るだけ自然な笑顔を作って振り返る。
「おはようございます。サハルさん」
ゆっくりと近付いてくるサハルは、早朝 だと言うのにきちんと身支度を整えていた。それに引き換え自分は明らかに寝起きと分かる恰好で、少し恥ずかしくなる。
「顔、洗って来ますね」
そう言って逃げる様に井戸に向かおうと すると、サハルも手を洗いたいから、と言ってマコトの横に並んだ。……ここで断るのもおかしいだろう。と、マコト達は結局連れ立って井戸に向かう事になった。
井戸に着いたマコトが桶に触れようとすると、 さり気なくサハルが手を添えた。
「……重いですから、多少面倒でも少しずつ汲んだ方がいいですよ」
親切な忠告に素直に頷き、マコトは両手に力を入れる。ぎしりぎしりと軋ませて、半分辺りまで水が入った桶が持ち上がる。結局手伝って貰ったと言うよりは、ほぼサハルに引っ張って貰った形になった。備え付けてある桶二つに水を分けて、マコトは肩に掛かる髪を束ね顔を、サハルは手を洗う。
タオルで顔を拭いている途中で視線を感じ、マコトが首を傾げ横を向くと、サハルはにっこりと微笑んで項を指し示した。
「まだ使って下さってるんですね」
「え?」
視線を追いかけて髪を束ねている紐の事だと気付き、マコトは項に手を回した。
「あ、はい。使わせて貰ってます」
この暑い砂漠で、サハルから譲って貰った紐をマコトは重宝していた。
「では今度、市へ行ったら髪留め見て来ますね」
思い付いた様に呟いたサハルの言葉に、マコトは慌てて首を振る。彼にはもう十二分に良くして貰っている。これ以上何かして貰う訳にはいかない。
頑なに拒むマコトを見下ろし、サハルは少し困った様に微笑んでいたが、何かに気付いたように、あ、と小さく声を上げた。
「そういえばマコトさん。アクラムやカイスにお菓子をあげたそうですね?」
「え……はい」
何故サハルが知っているのかと首を傾げながらも、マコトは頷いて肯定した。
「私にも作って下さいませんか」
「それは……構いませんが」
もともと今日もアクラムに差し入れをするつもりだったので、マコトは突然の申し出に首を傾げながらも素直に頷く。
「良かった。時々無性に甘いものが食べたくなるんです」
照れくさそうに笑ったサハルに、マコトの心が静かに緩み、その顔に微かな笑顔が浮かぶ。
元の世界では男性はあまり甘いものが好きでは無いと思っていたが、砂漠に住む住民は違うらしい。きっと砂糖を使った菓子は、暑さを乗り越える為の重要なエネルギー源でもあるのだろう。
暫く市で売っている甘い菓子の話など、差し障りの無い話をしていたが、会話が途切れた一瞬、穏やかに微笑んでいたサハルが不意に マコトの名前を呼んだ。
顔を上げたマコトに、サハルはゆっくりと口を開く。
「――ナスルは、何か言っていましたか」
続けられた言葉は、疑問と言うよりは断定する様な強い口調だった。 聞かなくても本当はナスルが何を言ったのか、きっと予想はついているのだろう。
これまで隠して来た事を思えば、あれはきっと自分が知ってはいけない話だったに違いない。見方を変えれば、彼は真実を知らせてくれたのだ。 例え『イール・ダール』である自分を深く傷つけた かっただけだとしても、その事実は変わらない。
マコトはゆっくりとサハルを見上げ、微かに微笑んで首を振った。
「特に何も」
サハルはマコトの答えに、 困った様に微笑む。そして小さなマコトの頭にぽんと手を置いた。
「マコトさんは、優しい人ですね」
雪の様に優しく振り落ちた言葉に、マコトは俯いて首を振った。
「……優しく、なんて」
ない。
ただ臆病なだけ。諍いや問題の原因になり たくないだけで、結局は自分の事しか考えていない。 悪い事なら特に関わりたく無い。ただの自己防衛だ。
みっともなく掠れて消えた言葉の続きは、き っとサハルなら想像出来ただろう。こんなつまらない自分など放って置けばいい。自嘲気味に笑ったその瞬間、マコトはサハルの胸に抱き寄せられていた。
「……サ、ハルさん……?」
突然の事にマコトは目を瞬く。
懐かしい匂いに、そういえば初日もこんな風に抱き締められた事を思い出す。……あの時と 同じ位、自分は頼りなく見えているのだろうか。
取り乱したあの日よりは、生活に馴染んで来た。――成長したと思っていたのに。
そう思うと無性に自分が恥ずかしく惨めに思えて、慌てて サハルの胸から逃れようともがく。しかしサハルは腕の力を緩めず、耳元で囁いた。
「そんな風に無理して笑わないで、辛い時は辛いと甘えて下さい」
落ちついたその声は、ナスルに掛けられた厳しい言葉よりも、深い体の奥まで浸透し、瞼を熱くさせた。訳の分からない安堵 感に包まれ、体が小刻みに震える。
駄目。泣くな泣くな。
心の中で必死に呟き、唇を強く噛み締める。そんな風に優しく頭を撫でないで。体全部寄りかかって甘えたくなる。サハルの体がマコトから少し離 し、小柄なマコトと視線を合わせる為に腰を折る。そして、小さな子供にするようにマコトの頬を両手で包み込むと、穏やかに言い放った。
「甘えなさい。あなたは『子供』なのですから」
砂漠では見る事の無い、大地を思わせる焦げ 茶色の優しい瞳。その中に映る自分は困惑していた。
……ああ、そうか。
自分は今『十四歳』で、まだ子供でいられる年齢だった。
甘えてもいいのかもしれない。意地を張らない方が自然かもしれない。
――泣いても、いいのかもしれない。
「……ぁ……」
再び抱き締められ、宙ぶらりんにぶら下がっていた手を、 ゆっくりと持ち上げ、おそるおそる広い背中に回す。ぎゅっと力を込めると、それに答える様にマコトの背中に置かれた手が、宥めるように優しく動いた。
「……わ……たし」
本当は。
とても悲しかった。
訳が分からないまま嫌われて詰られて、どうすればいいか分からなかった。
ご飯を最後まで食べてくれたから、優しい人だと気付いた。
話を聞いて悲しい人だと思った。
嫌いにはなれなかった。
――でも、
本当は、剥き出しの悪意に晒され続けて、とても怖かった。
胸が疼く様に痛む。
「……っ……ぅ……ふ」
啜り泣くマコトの声はか細く、サハルは ゆっくりと労る様に背中を撫で続ける。
その手は暖かく、亡くした母を思い出した。もし兄がいたら、葬儀の晩もこんな風に慰めてくれただろうか。
そう思った途端、ニムの顔が閉じた瞼の裏に横切った。 ここで甘えては駄目だ。彼にはちゃんと本物の妹がいる。
昨日までの自分なら、すぐに体を離せた筈だった。しかし頭では分かっているのに、縋りついた身体も手も動かない。ナスルの言葉は思ってた以上に深い傷を残し心の奥底まで凍らせた。……だから、この温かい手を、身体を、離したくなかった。
――今だけ、貸して下さい。
心の中でニムに詫びて、背中に回した手に力を込める。
サハルは何も言わず、マコトの背中を撫で続けた。




