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第二十五話 傷跡(ナスル視点)


「自殺……」


 掠れた声でマコトが反芻するのを、ナスルは冷めた眼差しで見つめていた。


 驚きに見開かれた黒い瞳は見れば見る程、――あの女に似ている。


 同じ国の人間が続いたとタイスィールから聞いていたが、先々代にあたるイブキよりもそれは顕著だった。纏う雰囲気が同じ、とでも言うべきか。庇護欲を駆り立てられる小柄な体。

 いつも伏せられた瞳は物憂気で頼りなく、脆弱なその姿が視界に入るたび無性に苛立った。 


「……どうして、ですか」


 顔を強張らせたままマコトは呟く。


 かつて自分と同じ名前で呼ばれた人間が、自ら死を選んだ。きっと少女にとってそれは衝撃的だっただ

ろう。先程まで頑なに逸らされていたマコトの瞳は、今は真っ直ぐ自分を見ていた。


 ナスルはそれに少しの満足感を覚え、口を開いた。


「『イール・ダール』は過ちを犯しました」


 オアシスの所有権を省くとしても、長老達が不安に思う事の無いようにと 隠した過去の出来事を勝手に話せば、きっと何ら かの処分が下るだろう。しかし、タイスィールはきっとこうなる事を予想していた筈だ。


 今日のやりとりを考えれば、それなりにマコトを大事にしているであろう事が分かった。だからこそ彼がこの状況を想像出来なかった筈が無い。


 自分の上司だった頃から掴めない人だったが、剣の腕も統率力もあり、隊長を辞した時は最後まで引き止められる程の人物で、ナスルも尊敬していた。そして同時に策士家でもあった彼だ。きっと何か考えがあるのだろう。


 ――自分には関りの無い事だが。


 ナスルは一度深く深呼吸した。


 彼の、いや唯一の肉親であった兄の事を他人の 前で口にする事は、随分と久しぶりだった。感情 が顔に出る事の無い様に気持ちを引き締め、静かに語り出した。



「『イール・ダール』は絶対に愛してはならない人間を愛しました。 それは、『イール・ダール』とも一族とも中立の立場を貫かねばならない王でした」


「王……」


 女神の監視者。だから敬われ、尊敬される。人格者でもある王は王都に住む民からも慕われてい た。王は中立の立場だからこそ、『イール・ダール』争 奪戦には関与する事が出来ない。それが神話の時代からの約定だった。


「『イール・ダール』は王に受け入れられないと知り、族長会議で決まった王の乳兄弟で親友だった男と婚約しました。男は『イール・ダール』を愛し慈しみました」


 瞬きもせず、マコトはじっと自分の言葉に耳を傾けている。


「しかし婚姻が結ばれる前夜。女は婚約者を裏切り、生んだオアシスに身を投げました」


 マコトの眉間がきゅっと寄せられ、目が眇められた。膝に置いた手が固く毛布を掴む。


「残された婚約者は、『イール・ダール』を死なせた男として、大陸に住む民に憎まれ蔑まれる事になりました。それでも男は周囲の非難に堪えた。しかしちょうど一年後 、男は誰にも何も言わず突然姿を消しました」


 幼い自分でもわかる位、それは陰湿な視線だった。王の側近という高い地位にいながら、誰よりも低く見られていた。


 兄が何をしたと言うのか。何一つ罪は無い。兄は王が忘れられないと言った『イール・ダール』を優しく受け止め慈しんだ。だからこそ『イール・ダール』も兄を受け入れたのだと信じていたのに、一族、兄、そして自分すらぎりぎりまで笑顔で騙し続けた『イール・ダール』。


 想いを貫きたかったのなら、婚約する前に死んでくれれば良かったのだと何十回、何百回思ったか数え切れない。


「その、哀れな男の名は――ザキ。私の兄で唯一の肉親でした」


 マコトの目が驚愕に見開かれる。 そして自分が憎まれる理由を察したのだろう。静かに目を伏せて ナスルから視線を逸らせた。


『……ナスル。すまない』


 今も、失踪する前夜最後に兄が見せた 苦悶の表情が忘れられない。それは『イール・ダール』 が死んでからも気丈に振舞っていた兄が、初めて見せた表情だった。


 兄弟二人きりだったせいか、父親代わりで母親代わりでもあった 兄を自分はとても尊敬していた。


「そして、想いを寄せられた王も、自分を責めました。 お優しいあの方は、今も気に病んでおられます」


 王としては優し過ぎる方だ。 

 兄がいなくなった時は、先頭切って行方を探し、ただ一人残された自分を気に掛けてくれ、忙しい身だと言うのに度々召し上げて話をしてくれた。 王からの配慮が無ければ、自分は一族にもいられなかった。


 兄がいなくなってから、兄代わり父代わ りとして接してくれた。たった一人放り出された自分には、そんな王の愛情が何よりも嬉しかった。


 ナスルの表情が、ほんの少し緩む。マコトはそれを見て、ポツリと呟いた。


「大事な方なんですね」

「この命に代えてお守りする方だ」 


 そう答え、ナスルは一気に言い放った。


「あの女は我侭な思いを貫き、周囲の迷惑も考えず勝手に死んだ。ですから私は『イール・ダール』を憎んでいます」


 ピンと張り詰めた緊張感がその場を支配する。暫く黙り込んでいたマコトは、 一度深く息を吐き出し、ぺこりと頭を下げた。その表情は見えない。


「……教えてくれて有難うございました」


 何を言っているのかと、ナスルは一瞬眉を顰めた。その表情にマコトは躊躇いつつも口を開いた。


「辛かった事を話してくれたんだと思っ」

「っ黙れ!」


 言葉の途中で、ナスルは唸るように低く声を上げた。驚いたマコトは口を閉じ、暫くしてから小さく謝罪の言葉を口にした。


 ――こちらの心の内を見透す様な、娘のこういう所が気に障る。

 もっと酷い言葉で責めて、みっともなく泣いてくれれば、きっと気持ちも収まるのに。

 同じ立場だからと言うだけで責められるなど、不条理だと非難すればいい。


 荒立った心を落ち着かせて、ナスルは出来るだけ感情の籠もらない声で続けた。


「『護衛』は今まで通り務めさせて頂きます。ですが私に気遣わず……いえ、関わらないで下さい。 私は貴方が嫌いです。仲良くなりたいとは思っていませんし、これからも思わないでしょう」


 ぴんと張り詰めた空気の中、ナスルは強引に話を打ち切った。

 マコトが小さく動く気配がする。ナスルが薄く瞼を押し上げると、無理をした様な不自然な笑顔で 「おやすみなさい」と呟き、寝袋に潜っていった。


 苛立ちは結局収まらず、丸められた背中に苦いものが口の中に広がった。






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