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第二十四話 過去の傷 3


 ナスルが使っているゲルは、ハッシュのゲルとは丁度反対方向にあり、マコトはかなりの距離を歩く事になった。足を取られながらも、ナスルに置いていかれない様に急いだせいで、マコトの息はすっかり 上がり吐き出す息が夜の闇に白く浮かんで消えていく。


 しかし一歩一歩砂に埋もれて沈んでいく足を、マコトは必死に持ち上げた。


 深い闇の中、置いていかれる事が、無性に怖かった。


「ここです」


 大きさで言えばカイスが使っているものと同じ位のゲルの前で、ナスルは足を止め、初めてマコトに向き合った。肩で息をする少女を見下ろし、目が合うよりも先に顔を背け、すぐに扉の取っ手に手を掛ける。ぎいっと扉が軋む音。その中は暗く何も見えなかった。


 どうぞ、恭しく手を差し出され、マコトは躊躇いがちに、暗いその中に足を踏み入れた。


(まっくら……)


 窓も小さな換気窓も全て閉じられ、月の光は届かない。しばらくたっても扉のそばに立ったまま動く様子の無いナスルに、マコトは不安を覚えた。

 もしかすると、明かりをつけるつもりはないのだろうか。確かに眠るだけなら、いらないかもしれないが、箱から寝袋を出さなくてはならず、夜目が きく方では無いマコトには箱の留め金の位置すら分からない。


(明かりを頼んでみようかな……それとも、つけない事に何か意味があるのかな)


 せめてその理由を教えて貰おうと、口を開いた所で、タイミングを図った様に声が降って来た。


「今、明かりを」

 その近さにマコトは一瞬体を強ばらせる。扉付近にいたはずのナスルが、いつの間にかすぐそばに来ていたらしい。


(びっくりした……)

 動揺したのを知られなくて、マコトは後退りしそうになった足に力を入れ、踏みとどまった。息を整えるふりをしながら、胸に手を当て更に跳ね上がった鼓動を落ち着かせる。


 ナスルが何事か呟く。耳を澄ますよりも先に、ぼうっと青い炎が浮かび上がり、 部屋を明るく照らし出した。

 ナスルはそのままゲルの中央に向かい、吊り下げられていたランプを下ろすと、慣れた仕草で火を移した。ランプの炎よりも、ナスルの手の中で未だに 燻る青い炎に目を奪われた。


(魔法、だ……)


 実は初日以来、マコトは一度も魔法を目にした事は無かった。 物珍しさと未知のものへの畏怖と色んな感情が混ざり合い、惹きつけられる。

 ハッシュ曰く魔法と言うものは簡単に使えるものでは無く、 修行を重ねた魔導師や騎士だと言ったごく一部の人間しか使えないそうだ。 発動には気力と魔力を使うらしく、いざという時の為に温存すべきものなので、日常生活に魔法を使う人間は滅多にいない。


 もちろん、マコトも朝食の用意をする時は、向こうの世界でも馴染んでいるマッチを使っている。 イブキの夫であるラーダに、マッチがあると教えて貰った時は、ほっとしたものだ。

 ナスルが無造作に右手を握り締め、左右に軽く振り、火を消す。


 その一連の作業をじっと見つめ、マコトは小さく息を吐き出した。

 綺麗だと思う。不思議だとも。しかしそれは同時に、 ここは本当に異世界なのだと知らしめるものだった。


(……だからタイスィールさん、最初に見せてくれたのね)


 砂漠の景色と一緒に見せてくれた。ここが異世界だというその証拠として。

 ……そういえばあの時も見せてくれたのはナスルだった。


「荷物はここで宜しいでしょうか」

 唇から吐き出される言葉は、あくまでも丁寧だが、隠すつもりも無いのだろう突き刺さる様な棘があった。


(やっぱり、このままなのかな)


 もちろん今まで同じ様に普通に喋って欲しいと思うが、 彼が一度言い出した事を覆えすとは思えない。

『互いの立場が明確になっていい』そう彼は言った。

 友人の様に馴れ合うつもりは無いのだと、知らしめる為なのだろうか。


 悲しい。そして寂しいと思う。


「……はい。運んで下さって有難うございました」

「では、寝床はそこをお使い下さい」

「いえ、お借りした寝袋を持ってきていますから」


「――左様ですか。ではお休み下さい」


 どうぞ、と言われて箱の側へ移動する。腰を下ろして、荷物を探り寝袋を取り出した。ナスルの言う通りさっさと眠った方が、きっとお互いの為にも良いだろう。


 突き刺さる視線に、振り返るのも勇気がいった。唇を噛み締めて首を回せば、背中越しよりも厳しい視線がマコトを捉えていた。


 すぐに顔を戻し唇を噛み締める。手早く寝袋を用意し、無言でその中に逃げる様に潜り込む。 実際剥き出しの悪意に晒されて、そのまま隠れてナスルの視界から消えてしまいたかった。


 そういえば彼はどうするのだろうか。とそろそろと様子を伺えば、 マコトがいるゲルの反対方向に胡座をかき剣を抱えて、瞼を閉じていた。

 もしかすると彼は、このまま夜を過ごすのだろうか。

 マコトは口を開きかけて、結局何も言わずに閉じた。

 自分の護衛の為に眠るつもりが無いなら気遣いはいらない。 と、申し出るべきだろう。しかし、言い出せる雰囲気でも無くマコトは仕方なく、 小さな罪悪感に蓋をする様にそのまま目を閉じた。


「おやすみ、なさい」


 返事は予想した通り無く。



 ……何故ここまで自分はナスルに嫌われてしまったのだろう。 自分の心持ち一つでどうにか出来るものならば、その原因を教えて貰いたいと思う。


 ……彼と、自分の不仲を気にする優しい人が多すぎるから。

 閉じた瞼の裏に思い浮かんだのは、先程のナスルとタイスィールのやりとりだった。


(……タイスィールさん、苛立ってた、な……)


 甘さを削ぎ落とした先程の姿が、彼本来の姿なのだろうか。

 彼はいつでもマコトに優しかった。ニムやサラにも優しいので、きっと見た目通り、フェミニストなのだろう。


 とは言っても、注意深く観察すればその優しさとは女性に限られたものでもなく、年長者として他の候補者達を上手くまとめていて、時々人を食ったような発言はするものの、誰とでも、……そう、アクラムにさえ親し気に声を掛けている。


(タイスィールさんには、気を遣わせてばっかり……)


 いや、彼だけでなく、サハルだってカイスだって、年下のハッシュだってそうだ。 自分がここにいるだけで、彼らに余計な仕事を増やしている気がする。


 重く沈んでいく気持ちを抑えるように胸を押さえ、ぎゅっと固く目を瞑ったその時、まだ馴染めない名を呼ばれた。


「『イール・ダール』」


 再び呼ばれ、マコトは体を強ばらせた。

 恐々と身体を返し顔を上げれば、ナスルの瞳がまた自分を強く捉えていた。


「何故聞かないのですか」


 酷く押し潰した様な低い声が響く。


 突然、どうしたのだろう、いや、それよりも。どっちの事なのだろうか。……あるいは両方なのか。


 疑問は先程のタイスィールとの会話を指しているのだろう。

 どうして自分に護衛が付いているのか、その理由を何故聞かないのか、と。


 ……そんなもの一つしかない。


「異世界から来た得体の知れない人間ですし。当然だと思っていますから」


 淀みの無いマコトの答えに、ナスルは意外そうに目を細めた。


「謙虚ですね」


 謙虚、なんてものではない。それは紛れも無い事実だ。

 そう、ただ。願わくば、その中に少しだけでも好意があればいい。多分、それだけで自分はきっと満足する。


「あの、無茶をするつもりも勝手にここを出ていくつもりもありません。 だから護衛は」


 いりません、と続けようとしたマコトの言葉をナスルが遮った。


「そうもいきません。あの方から、命じられた大事な『護衛』ですから」


 まぁ、とナスルは一旦言葉を切り、その瞳を眇めた。


「護衛、という名の見張りですが、ね」




 胸が、痛い。


 ……ああ、この人は。

 自分が敢えて触れなかった部分。それを許すつもりは無いらしい。


「分かっています」


 その、可能性を考えなかった訳では無い。ただの護衛ならマコトに内緒にする必要など無いのだから。

 マコトはゆっくりと起き上がると、ごくりと唾を飲み、口を開いた。鉛を飲んだ様に身体が重い。 しかしその言葉を彼は待っている気がしたから。


「どうして、と聞いていいのですか」


 初めてナスルの表情が動いた。まるで正しい答え をマコトが導いたかの様に満足そうに口の端を吊り上げた。


「先の『イール・ダール』の様に、妙な事を考えないようにです」

「先の……」


 そう言われて思い浮かぶのは、一人しかいなかった。けれど、漠然とそうでは無い気がした。


「……イブキさん、ですか?」


 マコトが半信半疑で問い掛けるとナスルは予想通り、首を振った。


「その後の『イール・ダール』の事です」

「――え」


 その後の『イール・ダール』。 

 それは、イブキの後に誰かがやって来たと言う事なのだろうか。


(そんなの言って無かったよね。……そう確か、長老様も十年振りだと言ってたし)


 それは確かに初耳だった。タイスィールもサハルからも聞いていない。


「イブキという名の『イール・ダール』から三月後、また新しい 『イール・ダール』がオアシスと共に現れました。しかし、命を落とし、オアシスもすぐに枯れました。 それから十年『イール・ダール』もオアシスも現れる事は無く、いつからか女神の怒りに触れたのだと、噂される様になりました」


(それが十年も空いた理由……?)


 アクラムのゲルで考えていた疑問がようやく解けた。だが、 しかし、何故自分に知らされなかったのだろう。

 命を落とした『イール・ダール』。その代償は砂漠に住む人々にどれだけ影響を与えたのだろうか。 しかし、噂を信じるとしたら何故十年も現れなかったのだろう。


 ――もしかすると。


「……事故、ですか」


 悪い予感がした。しかし問わずにはいられない空気が二人の間にあった。流される様に口にした質問をマコトはすぐに後悔する事になる。


 ナスルの唇が薄く開かれる。ナスルの憎い敵を睨むような視線に、肌が粟立つ。



「――自殺です」


 抑揚の無い冷めた声だった。







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