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第二十四話 過去の傷 2


 マコトはアクラムのゲルから出ると、砂を含んだ冷たい風に身を縮め、ぎゅっと固く口を閉じた。風が強い日はこうしなければ、舞い上がった砂が口の中に入り込み、じゃりじゃりになってしまう事はこの五日で嫌と言う程学んだ。


(さむ……)


 顔を俯かせ、首にまいたショールを引っ張って口元を覆い視線を上げると、一足先に出ていたサハル は空を仰ぎ見ていた。釣られる様に顔を上げれば、闇と言うにはぼやけた空と月があった。


「今夜は随分冷え込みます。温かくして休んで下さいね」


 月を背負ったサハルの優しい労わりの言葉にマコトは、はい、と頷く。 ショールの中で呟いた返事はくぐもって小さかったが、きちんと耳に届いたらしく、 サハルは満足そうに微笑み、頷いた。


 彼の後ろに見える月は本来なら突き刺さる様な鋭い上弦の月。しかし朧気に輝く月の形は緩やかで、その光も穏やかに優しく感じる。――まるで目の前の彼の様に。


(……今日も星は見えないんだ)


 実は満点の星空を見るのは密かなマコトの楽しみだった。

 しかしこの世界に来た初日の様に、圧倒される程の数多の星やくっきりとした月が見える事は、珍しい事らしい。普段の砂漠の月や星は、砂埃で見えない事が多いのだと、ハッシュに教えて貰った。


 マコトはそのまま視線を動かし、注意深く周囲を見渡した後、微かに小さく息を吐いた。

 そんなマコトの様子に気付いたタイスィールは、一瞬眉を寄せ、視線を一巡させる。


 そして三人が立つ場所から少し離れたゲルの一つに目を止め、溜め息をつくと、さりげなさを装い口を動かした。思惑に気付いたらしい『彼』がそれに答え、綺麗な半円を作っていたゲルの影から人影が生まれた。


「足元に気を付けて下さいね」


 近くまで歩み寄ってきたサハルに促され、マコトは素直に手を取る。慣れない砂場は 夜に歩くと簡単に足を取られるのだ。つまず いて余計な手間をかけさせる方がきっと迷惑だろう。


 手の平から伝わる暖かさに、昨日タイスィールと手を繋いだ事を思い出し、繋いだ手に視線を落とす。小さな自分の手をすっぽり覆い隠す大きな手。


(……男の人って、みんな体温が高いのかな)


 もし父がいたら、さして珍しくも無い感触なのだろうか。慣れない温かさはマコトに安堵感と少しの緊張感をもたらし 落ち着かなくさせる。マコトは手を引かれながらも、転ばないように足元を確かめながら、慎重に足を動かした。


 少し外れた場所にあるハッシュのゲルの前に到着すると、サハルは軽く扉を叩き中に向かって声をかける。今開けます。と短い返事が返され、すぐに扉が開く。顔を出したハッシュは、サハルの隣に並ぶマコトに視線を移し、ほっとした様に口を開いた。


「どこに行ってらしたんですか?」

「……え? ……あ」


 アクラムのゲルでしていた縫い物を取りに来た時、ハッシュはゲルの中にはいなかった。わざわざ探して告げる事でも無いかと、そのまま何も言わずにアクラムのゲルに戻ったのだが、この表情から察するにどうやら心配させてしまったらしい。思えば、荷物だって置きっぱなしなのだから取りに来るのを待っていたのかもしれない。


「……すみません」


 申し訳なさそうに頭を下げたマコトに、ハッシュは一瞬驚いた様に目を見開く。そして慌てて首を振った。


「い、いえっ! 別に謝って頂かなくてもいいんですが……っ」

「いえ、一言行き先を言えば良かったんです。荷物も置いたままでしたし。すみませんでした」

「そういう意味では無く、あの」


 ハッシュはわたわたと手を振り、途中で詰まった様に言葉を途切れさせた。二人のやりとりを黙って見守っていたサハルは、二人を交互に見渡してから小さく苦笑し、静かに言葉を添えた。


「マコトさん。ハッシュは謝って欲しい訳ではありませんよ」

「……え……?」


 意味深な言葉に、いつか同じやりとりをした気がした。

 すぐに思い浮かんだのは、ふてくされた様なカイスの横顔だった。


「……ぁ……」


 そうか。

 こういう時こそ、きっと。


「有難うございます。心配してくれて」


 多分大丈夫だと思いながらも、おそるおそるそう言葉にすれば、ハッシュの顔が嬉しそうに綻んだ。いえ、と呟き、 照れた様に赤くなった顔を誤魔化すように後ろ頭をかく。


(駄目だなぁ……私)


 自分が思っている以上に「謝罪の言葉」が染みついているらしい。そんな自分に呆れつつも、ハッシュの裏の無い素直な笑顔に釣られる様に、口元を緩めた。


 和んだ空気になった所で、サハルが服を取りに来たのだと用件を切り出すと、 ハッシュは納得したように頷き、ゲルの中に戻った。 すぐに衣装箱を抱えて今度はゲルの外まで出てくる。受け取ろうとしたマコトに笑顔で首を振り「重いですからお運びします」と首を振った。


「――さて、後は」


 それまで黙っていたタイスィールの声が闇に溶けた。彼にしては低く硬質な声だった。


(タイスィールさん……?)

 いつもと様子の違う彼にマコトは首を傾げて、 タイスィールを振り返る。目が合ったと同時にその薄い唇が言葉を発した。


「ナスル出ておいで」


 その一言にハッシュの顔が分かりやすい程強張った。 しかし、名を呼んだタイスィールはもちろんの事、マコトの隣に立つサハルも何が起こるのか察しているのか、動かない。残るマコトも不安そうに一瞬目を眇めただけで、何も言わなかった。


「もう隠れてる意味は無いみたいだしね?」


 続けられた言葉と同時に、闇から抜け出た様にするっとナスルが現れた。 闇に溶け込みそうな黒い装束に剣を差し鋭く向けられたその瞳に感情は映っていない。


「いつから気付いていたんだい」


 ゆっくりと巡らせたタイスィールの視線が、マコトに向けられる。同時に吐き出された問い掛けに 、マコトはぎくりと身体を強張らせた。


 どうして。

 思わず心の中で呟いた言葉は、どうして気付かれたのかと言う疑問では無い。

 それは分かってる。


 彼は、……いや、ナスルはきっとこの集落に戻って来た時からずっと自分を見張っていた。昨日の出来事から 察するに少し考えれば分る事で、改めて気配を伺えば、どうして気付かなかったのかと思うほどの ぴりぴりとした殺気が自分に向けられているのが分った。


 だからこそ、――知らないふりをしてくれればいいのに。

 

(……私はずるい)


 自覚はしている。

 浅はかにもそう願い、きっと正直に事情を打ち明けようとしてくれているのだろうタイスィールを、今、自分は確かに責めた。


 きっと事情があるのだろうと言う事は、彼らを見れば分る。右も左も分らぬ異邦人なのだという事は現実なのだし、その事で彼らを責めるつもりは無い。


 ただ単純に。

 ナスルには嫌われている。どんな人であれ、人に嫌われると言う事は悲しい。

 分かってるからこそ、これ以上揉めて溝を深める事はしたくなかった。


「君ともあろう者が、気配を悟られるなんて新しい隊長はそれ程無能なのかい」


 整いすぎた美貌は微笑みを消すだけで、ひやりとした冷たさを孕む。冷ややかな視線は自分では無く、ナスルに 向けられていると言うのに、背筋に冷たい汗が流れた。


(違う、人みたい……)


「いえ、私個人の能力不足です」

 顔色も表情すら変えず、ナスルは静かに目を伏せた。


「だろうね」


 辛辣な嫌味にナスルは無表情のまま素直に「はい」と頷いた。


(二人の関係って……)


「処罰はいかほどにでも」

 ナスルは静かにタイスィールの前に歩み寄ると、片膝を付き深く頭を垂れた。

 タイスィールは唇を歪ませ、跪いた彼に吐息を漏らす。


「……やめたまえ。もう私は君の上司ではない」


 その言葉に、何となく彼等の関係が分った。ナスルが王の親衛隊の一人である事は既にマコトも知っていた。その元上司だというからには、タイスィールもきっと剣を振るう人だったのだろう。 今までのタイスィールの言動だけなら、きっと意外だと思えたはずだが、 今のタイスィールを見れば、納得出来る。女性めいた艶っぽい雰囲気は一切無く、軍人特有の迫力と冷徹な空気を彼は纏っていた。


 ――けれど、この雰囲気はあまり良くないのでは無いだろうか。

 仲を取りもちそうなサハルは、何か考えがあるのか黙ったままで、ハッシュは突然始まった険悪なや りとりに、驚いた様に眼を瞬かせている。


 サーディンとサハルの様に、また『自分』のせいで、誰かがいがみ合うのだろうか。

 それだけは避けたかった。

 本当に、自分は一体何の為にここにいるのだろうと、答えの出ない疑問に掴まる。


「ねぇナスル。君は気配すら消せない程無能なのかい。それ程感情を露わにして気付かれるなんて、先鋭を誇る王の親衛隊として」

「あのっ!」


 タイスィールの言葉を遮ったのはマコトだった。 本人も意外な程響いた自分の声に驚いたらしく、居心地悪そうに一 瞬視線をさまよわせたが、すぐにタイスィールに顔を向けた。


「私が気付いたのは、台所の掃除をしている時に、ナスルさんに助けて頂いたからなんです。だから」


 勢いを付けて言い放ったマコトの言葉に、ほんの少しタイ スィールの表情が和らぐ。それに反して、ナスルは眉間に皺を寄せ、厳しい目でマコトを一瞥した。何となくこうなるだろうと覚 悟していたマコトは出来るだけそれを真っ直ぐ受け止めて、「きっと本当なら気付かなかったと思います」と言葉を続けた。


「そう。私はてっきり四六時中そんな視線でマコトを見ていて、気付かれたのかと思ったよ」


 タイスィールはゆっくりと髪をかきあげ、伏せたままのナスルの頭を見下ろした。


「で、話は聞いたかい」

「はい」

「結構。マコトをゲルに泊める様に」


 ピクリと微かにだがナスルの肩が動く。やれやれ、と溜め 息をついたタイスィールが、殊更ゆっくりと言葉を続けた。


「文句があるなら王に、ね」


 目の前の少女に当たるなと、牽制を込める。


「……了解致しました」


 本当は納得していない。マコトにすら分る程、固い声でナスルは答え、深く頭を下げた。

 そしてすぐに立ち上がり、ちらりとマコトを見下ろすと、くいっと顎をしゃくった。


「ぐずぐずするな。ついて来い」


 その口調にタイスィールとサハルの眉が一瞬跳ね上がる。

「……あ……、はい」


 一人取り残された様に、呆然と二人のやりとりを見ていたハッシュだったが、ナスルにマコトの荷物を乱暴に奪われ、はっと我に返った。


 その瞬間にナスルの言葉が頭を飛び交い、信じられない思いでそれらを浚うと、かっと目を見開いた。


「……ッ『イール・ダール』に何て口を利くんですか!」


 普段滅多に声を荒げる事は無い少年の怒鳴り声に、その場にいた全員が驚いた様に彼に注目する。


「っいえ、『イール・ダール』では無くたって、女性にそんな言い方は失礼でしょう。 あなたにとっては仮とはいえ、今は守護すべき主だ。マコトさんに謝って下さい!」


 向けられる視線にも構わず、ハッシュは噛み付く勢いでナスルを睨んだ。 褐色の肌は怒りで赤く染まっている。


「ハッシュさん……」


 ナスルもまさかいつも物静かなハッシュが怒鳴るとは思っていなかったのだろう。 驚いた様に瞬きを繰り返していたが、すぐにマコトに視線を落とし唇を歪めた。 そして独り言よりも微かな侮蔑の言葉が零れ落ちた。


「もう、たらしこんだのか」


 明らかに嫌悪と侮蔑が入り混じった呟きに、マコトの体が一瞬固まる。 しかし幸いにも、と言うべきだろうか、その微かな呟きを拾ったのはマコトただ一人だった。


 顔色を変えたマコトの横顔にも見向きもせず、ナスルは表情も変えないまま、その場で長い外套を持ち上げ、片膝をつき、マコトに向かってわざとらしい程恭しく頭を下げた。


「では、これで宜しいか。『イール・ダール』。王から勅命を受け、御身を護衛させて頂く」

「……ぁ、あの、今まで通りでいいんですけど」

「いえ。これでいきましょう。立場が明確になっていい」


 戸惑うマコトに構わず、慇懃なほどナスルは丁寧に断ってマコトの前へ立つと、 何も言わずに歩き出した。後ろを振り返る様子も無い彼に、眉を吊り上げたハッシュがまた口を開こうとしたが、それを察したサハルがマコトに向かって口を開いた。


「おやすみなさい。マコトさん」

「っ……あ、はい、おやすみなさいっ」


 驚いた様に顔を上げ、残る三人にそれぞれ挨拶する。 ナスルはそれに構う事無く足を止めず、マコトは危なっかしい足取りで慌てて追い掛けた。






「――若いっていいねぇ」


 残る三人。年長者のタイスィールがそう言ってハッシュを見下ろし小さく囁いた。

 先程までの冷たい雰囲気は一掃され、その表情にはいつもの艶やかな微笑み浮かんでいた。


「馬鹿にしてますか」


 むっとして言い返したのはハッシュだ。敢えて言われなくても、若い…… 何の地位も持っていない自分の意見など、彼が聞く義務も義理も無い事など痛い程分かっている。

 睨むような尖った視線にタイスィールは軽く首を竦め、彼にしては珍しく真面目な口調で答えた。


「いいや。今回ばかりは君が正しくて、羨ましいよ。僕たちは大人だから仕方ないかとナスルを許しちゃうんだよね。マコトが何も言わないのをいい事に」

「……何も言わなくても、あんな酷い言い方では傷つきます」


 すぐに言い返したハッシュにタイスィールは、静かに頷いた。


「そうだね」


 ――だったら、どうして。


「ゲルに戻ります……!」


 彼女を傷つける人間とわざわざ一緒にするのか。

 理解出来ない。けれど、自分だって彼女が知らなければいけない事を黙っている。きっと間違いなく傷付ける。分っている。ナスルを責める資格なんて本当は無いのかもしれない。


 けれど。


 ――大人になりたい、これほど思った事は無い。

 ハッシュは怒りに任せる様に勢いよく扉を開け足音荒くゲルの中に入っていった。

 それを見送りタイスィールも何も言わず自分のゲルへと足を向ける。残されたサハルは、懐に忍び込ませたネックレスを服の上から撫でて、静かにぼやけた月を見上げた。





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