第二十三話 鈴 3
サハルに用事があると言って出て言ったタイスィールを見送った後も、マコトは図々しいのを承知でアクラムのゲルにいた。
きっと迷惑ならアクラムははっきりと言葉にするだろう。その遠慮の無い性格が今のマコトには安心出来た。
――正直に言って他の候補者は、分からないのだ。迷惑かそうでは無いのか。
そんな気配には人一倍敏感だったはずなのに、この世界には自分に優しい人が多すぎて惑ってしまう。
アクラムは一連の作業を終え、既に魔法陣の定位置に胡座をかいて座って瞑想中だ。マコトはマコトで一度ハッシュのゲルまで戻り、市で買った衣服を持ち込み裾を詰める作業をしている。会話 は一切無かったが、しかしその沈黙が何故か気詰まりになる事は無かった。
(不思議と存在感が無いんだよね……)
こんなに目立つ人なのに、と思って刺した針から視線を上げると、彼は三 十分前と全く同じ体勢で微動だにしていない。知れば知るほど不思議な人 物だと思う。占い師兼薬師だと言う彼はいつも黒尽くめで、その表情が変わる事は無い。
しかし甘い物好きな彼の意外な一面を見たせいか、初対面の時よりも更にマコトの中で彼への近寄りがたさは薄れていた。初めて会話を交わした時に悪い人間では無い事は分かっている。それにマコトの年齢を誰かに言った様子も無く、黙っていてくれている事が何より信頼出来た。
さて、もうひと頑張りするか、と腕を伸ばしたマコトは、賑やかに近付いてくる足音に気付き扉に視線を向けた。
「マコトいるぅ~?」
賑やかな声と共に勢い良く扉が開き、外の光が部屋に差し込む。いつも以上に明るいサーディンが赤い光を背負ってゲルの中に足を踏み入れ、その眩しさにマコトは目を眇めた。
もうすっかり日は暮れ、太陽が地平線に沈む時間になっていたらしい。
その後について身体を屈ませのっそりと扉を潜ってきたのはカイスだ。最近二個一で見る事が増えたのは、カイスの意外な面倒見の良さのせいだろう。
……しかし、誰も来ないと思った自分の勘はどうやら外れたらしい。
「悪いなマコト。なんかサーディンがどうしても用があるって言うから」
口調はぶっきらぼうだが、先程別れた時の不機嫌さは消えている。マコトはほっとしつつ、サーディンに視線を向けた。
「えっと……?」
仏頂面のカイスとは逆にサーディンはご機嫌だった。にんまり笑って含み笑 いする彼は、元の世界で大昔に流行った猫のキャラクターに似ていた。
「んとね、はい手出して」
「え……はい」
思わず素直に右手を出して、しまったと思う。
前回言われるまま口を開いて、大変な目に合ったのに、と学習しない自分に呆れた。しかし引っ込めるより先に掌に固い感触が落ち、それは手の平で弾むとちりんと音を立て転がった。
「……ぁ」
馴染んだ手触り。驚きに自分の手の中に視線を落とせば、それは、この世界では存在しないであろう物体だった。所々メッキが剥げた小さな子猫のキーホルダー。家の鍵についていたそれ。
「なんだそりゃ」
釣られる様にマコトの手元を覗き込み、カイスはそう言って眉を潜める。いつまで経っても口を開かないマコト にサーディンは焦れた様に口を開いた。
「ほらぁ、昼間言ってたひげもじゃが持ってたヤツだよ」
手の中の誇張された丸い目がマコトを見ている。空いた手で鈴を摘めば、またちりんと軽い音がした。
(……たった五日なのに)
――懐かしい。
家の鍵を回す度、ちりんと小さく鈴が鳴り、母の帰宅を知らせてくれた。
揃いのキーホルダー。
黒い縁取りに嵌められた母の笑顔。
それらが全てが、今も自分を待っている様で――胸が詰まる。
もう戻れない事に罪悪感が押し寄せて、けれどそれ以上に嬉しかった。
隔たれた向こうの世界が少し近付いた……いや、亡くなった母と自分との繋がりが戻って来た気がして、酷く安心した。
「ちょっと薬とお酒一緒に盛ってね~。ベロベロに酔わせて貰ってきちゃった」
「おい」
得意そうに言い放ったサーディンに、カイスは鋭い眼光と共に低く諫めた。それを受けてサーディンは肩を軽く竦める。
「大丈夫だってば。あんなオッサンに僕だって分かる筈無いし。ね、それよりさマコト嬉しい? 嬉しかったらお礼欲しいなぁなん」
子供の様に無邪気に笑い、サーディンは、 俯いたままのマコトの顔を覗き込んだ……が、言葉の途 中で驚いた様に目を見開いた。
マコトは声も無く泣いていた。
虚ろに開いた黒い双眸から透明な雫が頬を伝い、流れ落ち、手の平の鈴を濡らす。そしてマコトは ゆっくりとサーディンの顔を見上げると、掠れた声で呟いた。
「……あ、りがとうございます……っ」
頭を下げた拍子に大粒の涙が零れ落ち、その瞬間瞑想していたアクラムがようやく永い眠りから覚めたようにゆっくりと目を開いたが、立ち尽くしているサーディンも、突然のマコトの涙に固まったカイスも、気付く様子は無かった。
(……ぁ、やだ……あたし泣いてる)
慌てて拭うも、涙は関を切った様に溢れてなかなか収まらない。
「おい、大丈夫かよ?」
涙は苦手だと言っていたカイスが慌ててマコトの顔を覗き込んできたが、マコトは頷くだけで精一杯だった。その心配そうな表情に泣き止まなければとは思うが、涙は一向に止まらない。
呆気に取られた表情のまま、マコトを見つめていたサーディンは、目を数回瞬かせぽつりと呟いた。
「……僕、泣きながらお礼言われたの初めてだ」
立ち尽くしたまま溢れるマコトの涙の軌跡を視線で追いかけ、そして 彼らしくない慎重さでマコトの頬に触れると、おそるおそるその涙を丁寧に掬い取る。
サーディンの突然の行動に、マコトは少し驚いたように小さく肩を動かしたが、その指先は前回と比べようが無いほど丁寧で優しく、マコトはされるがまま身を任せた。
ひとしきり拭って、サーディンは指先についたその涙をじっと見下ろすと、何かを確かめる様に胸に手を置き目を瞑った。そして微かな笑顔がその顔に浮かぶ。
「……うん。何か、いい感じ」
しみじみとした口調でそう呟くか否や、サーディンはぱちりと目を開け、マコトの肩にあったカイスの手を乱暴に払いのけた。
「ねえっマコト! 他に何か欲しいものないっ!? すぐ手に入れてくるから何でも言ってよ!」
そこで初めてカイスはマコトが泣いた理由に思い至ったらしい。 払いのけられた手をぎゅっと握りこみ、苦虫を噛み潰した様な顔をして 一歩身を引いた。
「……え、いえ、ほんとにこれだけで十分です。本当に有難うございます」
肩を揺らされたマコトはその勢いに驚きながらも、涙を拭いながら首を振り、微かに 微笑む。それはサーディンが初めて見るマコトの笑顔で、 結果ますます舞い上がる事になった。
「そんな事言わないでよ! じゃあ甘いもの!? 可愛い服とか、宝石とか……っもう! ほら早く教えてよっ」
ぎゅうっと力強く抱き締められても、まだマコトは笑ったままだった。しかし、さすがにカイスが口を挟む。
「サーディンしつこいぞ。用事終わったんならさっさと帰れよ」
しかしサーディンはそんなカイスの忠告など耳に入る様子も無く、マコトに向かって熱心に話し掛けている。入れない二 人の間にむっと眉を寄せたカイスが、 怒鳴るように大きく口を開きかけた所で、艶やかな美声がそれを遮った。
「サーディンいい加減にしなさい。一体何を騒いでるんだい」
開いたままの扉をノックし、タイスィールは咎める様にサーディンとカイスを交互に見渡した。
「また貴方ですか。マコトさんの側に近寄らない様に再三忠告しましたよね」
後ろから現れたのはサハル。
穏やかな物言いだが、やはり例によって目が笑っていない。
動物的本能が危機を告げたのか、サーディンは名残惜 し気にマコトの手を一度ぎゅっと握り締めると、「考えといて!」と片目を瞑った。
それを見たサハルの目が眇められ、胸元に手を滑らせた瞬間、サーディンはマコトから素早く身を離し 、開け放った窓からするりと出て行った。
「慌しいねぇ」
呆れ顔でタイスィールは溜息と共にそう漏らし、すっかり闇に包まれた窓からサーディンの背中を見送る。
「……俺も戻る」
そして誰に言うでも無く、独り言の様に呟いてカイスは扉に手を掛けた。
いつになく物静かな彼にサハルは一瞬眉を潜め、扉が締ま るその瞬間までその背中を見つめていた。
* * *
後ろ手に扉を締め、カイスは注意深く周囲を見渡した。 もうすっかり日は落ち闇が広がり、月は砂埃 で朧気に光るだけで、足元どころか伸ばした手の指さえ闇に吸い込まれ見えない。
気配を探っても今出ていった筈のサーディンの姿は既 に無く、最後に見せた脳天気な笑みを思い出し、 ぎりっと奥歯を噛み締めたカイスは、早足 でその場を離れる。集落の中心にある台所で足を 止めると、苛立たし気に髪を掻き毟った。
(そんなに大事なもんなら、最初っから言えっての!)
はっきりとは確かめられなかったが、きっ とあれがロジナが手に入れた鈴なのだろう。
昼間、サーディンの話を聞いて、自分だって確認し た。しかしマコトはすぐに首を振ったから、 必要の無いものだと片付けたのだ。それに、鈴 を手に入れる為にロジナに近付くのは厄介な事で、 どうして必要なのかと腹を探られる事にでもなれば、 マコトの存在が明るみに出る危険性もある。
だから、マコトが必要無いと言った時、正直に言えばほっとした。
――しかし、手の中に落ちた鈴を、マコトは愛おしそうに握り締めた。
きっと、本当に嬉しかったのだろう。まだ付き合いは浅いがマコトの性格は何となく分かる。彼 女があんなに感情を表に出す事なんて滅多に無く、 カイスはあんな嬉しそうなマコトの笑顔……いや泣き顔を見た事が無かった。
揚げ菓子を押し付ける様にやった時も、マコトはただ驚いた様に目を瞬かせただけで、その落差に一層胸がざわつく。それでも 次の日にはきちんと礼を言ってくれたが、やはりサーディンが差し出した鈴と比べればその差は一目瞭然だ。
「っくそ」
朝食の後だって、マコトが昨日の礼にと手作りの菓子を持って来てくれて、嬉しかった。アクラムにもあげるつもりだと知って、自分だけじゃ無いのかと、少しがっかりしたが、どこかよそよそしい雰囲気が随分抜けて、二人の距離が近付いた気すらした。 なのに、それが全て自分の思い込みだったと思い知らされる。
(馬鹿みてぇ……)
分かっている。マコトは自分達に気遣って、 大切なものでは無いと言ったのだ。
サーディンは気付いたのに、気付けなか ったのは他でも無い自分で、こんな風にマコトを責めるのはお門違いだろう。
もし、あの鈴を渡したのが自分だったらどうだったろうか。 きっとマコトは同じ様にあんな表情で感謝の言葉を口にしたはずで。 少なくともサーディンよりはマシな好印象を持って貰えている自信はあった。もしかするともっと……喜んで貰えたかも知れない。
……どっちにしろ、こんなに居た堪れない気持ちになるような事は無かった筈だ。
自分に笑顔を向けるマコトを想像し、その虚しさに頭を振って打ち消した。
「くだらねぇ……」
カイスは後ろを振り返りマコトのいるアクラムのゲルを睨み付ける様に凝視した。 しかしすぐに視線を外し大きく肩を竦ませる。
(あーやめやめ辛気くせぇ。もう過ぎた事はどうにもなんねぇし)
カイスは無理矢理そう自分を納得させ、ゲルに戻っていった。




