表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
25/135

第二十二話 目に映るもの (ハッシュ視点)


 学生らしくハッシュの持ち物は大半が本だった。

 適当に本棚に入れる訳には行かないので、ハッシュがある程度分類し、それらをマコトとカイスが並べていく。


 ハッシュが通う学院は今女神祭で長い休みの最中だ。サハルがそこの卒業生である 事や、同じ師について学んだ事があるなど、マコトは手 を動かしながら、楽しそうに話を聞いてくれた。


 分厚い本の隙間からハッシュは、チラリとマコトを盗み見る。

 夢にまで見た『イール・ダール』は、予想していた人物像とは少し違った。ハッシュが会った事がある『イール・ダール』は二人。

 頭領の妻であり、カイスの母でもあったターニャとイブキ。ターニャは子供の頃に亡くなっていたので、会話をした事があるのはイブキだけだ。しかし、


『だああっしつこいっ! ここは病院なのっ怪我 するか病気にならない限りは来ないでっ』


 そう怒鳴られたのを最後に、いつ行ってもラーダに門前払いをくらう。さすがにしつこかったと今では反省しているが、探求心旺盛なハッシュにとって異世界から来た『イール・ダール』は興味が尽きない存在だった。


 今は年も重ねてある程度の分別もつき、婚約者候補という 有利な立場でもある。今回こそ嫌われ無いようにしようと思ったのに、この辺りでは珍しい黒髪を見てあっさりと理性が弾けた。

 多分年も近く、親しみやすい風貌だというのも悪かった。


 しかしタイスィールの言葉にはっとし、やってしまった……! と猛省した所で、降って来たのは意外にも優しい声で。


『マコトといいます。私でお役に立てるかどうか分かりませんが、お答え出来る事があったら何でも聞いて下さいね』


 穏やかな落ち着いた声だった。吸い込まれそうな黒 い瞳は自分を映し、そして柔らかく細まった。


 疲れているだろうから、と温かいお茶 を淹れてくれ、そのまま立ち去るとばかりに 思っていたのになんと手伝いまで申し出てくれた。


(優しい方なんだなぁ)

 何より自分の事を他の候補と同じように『さん』 付けで呼んでくれる。年下のサラでさえ呼び捨てで、それを不快に思った事は無いが、特別な存在である『イール・ダール』 にそう呼ばれると自分が一人前になった気がして、それが何やら照れくさく嬉しい。


「よい、しょっと……」


 上の段に本を置こうとマコトが手を伸ばす。開いた袖が重力に逆らえず肘の少し上に落ちて、現れた華奢な白い手にドキリとし、ハッシュは慌てて視線を本に戻したが、しばらく伸び上がって頑張っているマコト に慌てて本を置き、助ける為に手を伸ばした。

 が、ハッシュもさほど背が高い訳でもなく、手はあと僅かと言う所で空しく宙を掻く。


「二人で何やってるんだよ」


 それに気付いたカイスが呆れ顔で近付き、マコトに 覆い被さる様にして軽々と本を置いた。


「ちびっ子は下の段でもやっとけよ」


 にやにや笑ってカイスはマコトの髪をくしゃくしゃと掻き回す。


「ちびっこじゃないです」

 少し唇を尖らせたマコトに随分仲がいいのだなと思った。

『イール・ダー ル』が現れてもう五日目。カイスだって婚約者の一人なのだ。同じ場所で過ごせば仲良くだってなるだろう。


 ハッシュは隣で本を並べるカイスを見て溜め息をつく。

 もう少し身長があればなぁ……と、普段なら気にしない事を思ったせいか、


「便利そうですねぇ」


 と気付けば口に出していた。自分でも分かった位嫌味ったらしい口調だった。


「あ?」

 眉を顰めたカイスにハッシュは慌てて、いいえ、と首を振りかけたが、小さな声が柔らかくそれを遮った。


「そうですね。私も羨ましいです」


 マコトがそう返してきたので、ハッシュも言い訳を引っ込め 素直に頷く事にした。二人の目線が自分の頭上に 注がれてる事に気づき、カイスは居心地悪そうに頭を掻く。


「なんだよ、身長か?」

「ええ、高い場所でも梯子いらないなぁって」

「それだけかよ」


 呆れたようにそう言いつつカイスは肩を揺らせると、不穏な空気は一瞬にして消え失せた。


「もう成長期終わっちゃったしなぁ……ああ、でもハッシュさんは」


 マコトは一人でぶつぶつ何か呟くと、ハッシュをじっと見つめた。


「な、なんですか」

「手出して貰えますか」


 言われるまま手を伸ばすと、マコトの手が合わさった。カイスの瞳が一瞬不機嫌そうに眇められたが、その場にいるマコトもハッシュも――カイス自身でさえも気付いていない。


 その柔らかい感触に、ハッシュがぎょっとし体を強張らせたその瞬間、マコトは弾んだ声を上げた。


「やっぱり。ほら、ハッシュさんこんなに手が大きいし、 きっとまだ伸びると思いますよ」

「……そうなんですか?」


「私の世界ではよく言われるんですよ。 さっき分厚い本三冊も掴んでて大きいなぁって思ってたんです。 個人差はあるみたいですけど、手足の大きさと身長って比例するみたいですよ」


「だからお前はちびっ子なのか」

「カイスさん~?」


 マコトはハッシュから手を離し、カイスを睨むマコトにハッシュは自分の手の平を見下ろした。 残った温もりを閉じ込めるように握り締める。


「……有難うございます」

 身長の話も興味深かったが、それより自分の心の狭さを誤魔化してくれたマコトの気遣いが嬉しかった。




 あらかた片付けも終わり、一息ついた所で、タイスィールとサハルがやって来た。ハッシュは第二の師と仰ぐ彼の登場に分かりやすく嬉しそうな顔をした。


「お久しぶりですね。ハッシュ」


 落ち着いた声で穏やかに微笑むサハルに、ハッシュは満面な笑みを浮かべ、深く 頭を下げた。


「はい。サハルさんもお元気そうで」


 ハッシュに尻尾があればきっと千切れん勢いで振ってるだろう。微笑ましい光景 にマコトはカイスと顔を合わせ噴き出すように笑う。しかしタイスィールが持 ち込んだ箱に気付き、マコトの顔がほんの少し強張った。


「戻ってたのか」


 笑いを噛み殺しながら、カイスはそうサハルに声を掛けた。


「ええ、少し前に。ニムが色々迷惑を掛けたみたいですね」

「いつものこったろ」


 吐き捨てる様な返事にサハルは苦笑する。

 タイスィールはゲルの中を見渡し、感心した様に口を開いた。


「随分片付いたじゃないか。お疲れ様。……それでね サハルと相談した結果今日はハッシュのゲルに泊まって貰う事にしたよ」


 タイスィールの視線の先にいたのは、ゲルの持ち主の自分では無く、 マコトだった。小さく溜め息をついてその箱を受け取り、複雑な顔をしてハッシュを見つめ る。


(ハッシュのゲルに泊まって貰う事にしたよ……って)


「……は?」

 思わずハッシュが漏らした呟きに、タイスィールはおや、と眉を吊り上げマコ トは申し訳無さそうに身を縮めた。


「誰にも聞いていなかったのかい? マコトは婚約者候補のゲルを回ってるんだ。 今日は君の番」


 長老命令だよ、と続けて面白そうに目を細めたタイスィールに、ハッシュは言葉を失い、思わずマコトの顔を凝視した。


「……本当にすみません……」

 黙り込んだままのハッシュに、マコトは消え入りそうな声で謝罪した。その事にタイスィールは眉を寄せ非難するようにハッシュを見た。


「女の子にこんな顔させるなんて君もまだまだだね」

「えっ? ……ぁ……! 嫌な訳では無いんですっただ驚いただけで!」


 どもりながらもそう反論し、ハッシュは助けを求めるように サハルの顔を見るが、頼みの綱の彼も困ったように微笑むだけだった。


(ほ、本気……なんだ……っ!?)


 尊敬するサハルの視線があるので、表面上は落ち着いているが ハッシュはこの上ないほど取り乱していた。

 いくら『イール・ダール』と言っても、年頃の少女――で、ましてや マコトは可愛らしく穏やかで優しい。


(どうしよう……っ!)

 知らない間に溜まった唾を飲み下して、ハッシュはうろうろ と視線を彷徨わせる。そんなハッシュに 気付かない訳が無いのがサハルとタイスィールだ。短く目を合わせ、そしてタイスィールは視線を流す。


 その視線の先が自分にある事に気付き、マコトはゆっくりと席を立った。


「お茶でも入れてきますね」


 そう言って返事も待たずにゲルから静かに出ていった。


「まだ何も言ってないんだけれどね、……相変わらずマコトは察しが良い」

「良すぎるのも困りものですけどね」


 続けられたサハルの言葉に、言えてる、とタイスィールは同意して苦笑する。そ してハッシュに向き合うと、艶やかな笑みを浮かべた。


「ハッシュ。分かってると思うけどマコトには手を出しちゃ駄目だよ」

「……ッ!? 何言ってるんですか!」


 見透かされた気恥ずかしさも手伝い、ハッシュは普段なら想像出来ない 激しさで怒鳴った。


「もちろん信頼してるけどね。でもほら、君寮生活長いし」

「それが何か!?」

「学院も男だらけだしねぇ、禁欲生活きっと長いだろう?」


 それは信頼してる事にはならない。

 ハッシュが心の中で突っ込むと、とっくに胡坐をかいて くつろいでいたカイスがニヤニヤと嫌な笑いを浮かべた。


「あ~十四だっけか? 穴があったら入れたい年頃だよな?」

「い……っ」


 直接的な言葉にハッシュが固まり、 そして褐色の肌でも分かる位顔を真っ赤にさせた。

 この一瞬で三人は同じ結論に達する。曰く 、彼は『まだ』らしい、と。


「でもまぁアレが本当かどうか確かめたいってなら止めねぇけど?」


 猫のように目を細めてカイスはにやにやと笑う。


 女の少ないこの土地ではある伝承が伝えられていた。女はみんなイール・ダール の血を引く愛されるべき存在であり、成人するまでに 契る様な事があれば、母である女神の祟りで相手の 『それ』が腐り落ちるという――ある意味、とても物騒な噂が。 迷信だと思うものの、絶対的に女の数が少ない以上確かめる術はあるようで無く、男達の間ではまことしなやかに噂が流れている。


「カイス下品ですよ」


 さすがに弟弟子が不憫になったのか、サハルの拳が静かに カイスの後頭部に振り落とされた。

 いってぇえ、と唸るカイスを無視し、ハッシュに向き直ると 両肩に手を置き、私は、と前置きしてにっこり微笑んだ。


「信用してますよ」


 ……その笑顔に薄ら寒いものを感じるのは、自分の気のせいだと思いたい。

 ハッシュがその気迫に飲まれるように何度も頷くと、サハルは満足そうに微笑んだ。



*





 それから程なくしてお茶を手にしたマコトが戻り、ハッシュは周囲の――特にサハルの視線が和らいだ事にほっと胸を撫で下ろした。


「では、そろそろお暇させて頂くよ」


 マコトが差し出したお茶を受け取り、きちんと飲み干してからタイスィールはゆっくりと立ち上がった。コップを机の上にあった盆に置きごちそうさま、と艶やかな笑顔と共に言い添える。マコトは、いえと言葉少なく返し軽く会釈した。


「……っ」


 そのつれないとも言える反応に、ハッシュは一種の感動めいたものすら覚え、まじまじとマコトを見てしまった。西のタイスィールと言えば、男女構わず虜にすると噂されるある意味偉大で……はた迷惑な人物である。

 あの我侭放題のニムでさえ、タイスィールに微笑まれれば頬を染めるし、集落の年頃の女は歳の差も構わず彼の恋人の座を狙っている。


(タイスィールさんの魔力にも動じないなんて『イール・ダール』はやっぱり素晴らしい人なんだ……っ!)


 若干斜め明後日な方向に感動し、思わず拳をぎゅっと握りこむ。魅力では無く魔力と言い切る辺り、ハッシュも少なからずタイスィールに思う所があるらしい。


「そうですね。ハッシュも長旅で疲れ たでしょうし。――私は妹のゲルに寄 るつもりですが、マコトさんはどうなさいます?」


 一緒に行きますか、というニュアンスにマコトは微かに笑って首を振った。


「いえ、折角の兄妹水入らずを邪魔しては悪いですから」


 そうですか、と頷いたサハルの言葉に微かに残念 そうな響きが含まれたような気がして、平常心を取り戻しつつあるハッシュは 妙な違和感を感じ首を傾げた。

 同じ師の元で過ごしていた頃は、サハルに対して、 こんな感情の『揺らぎ』を感じた事は無い。常に品行方正で冷静沈着――誰にでも 優しい。そんな完璧なサハルはハッシュにとって憧れであり、目標だった。


(あれ……)


 しかしそれは一瞬だけで、次の瞬間にはサハ ルは話題を変えるといつもと同じ穏やかな表情でカイスに声を掛けていた。


「では、カイスも行きましょうか。もう整理は終わりましたよね」

「え? ……あー……」


 すっかり埋まった本棚を見上げながらも、カイスは言葉を濁すと頬をかいた。


「どうかしたかい」


 彼らしくないはっきりしない態度に、タイスィールは首を傾げて見せる。


「いや……」


 一瞬だけマコトに視線をやったが、向けられた本人は微かに首を傾 げただけだった。カイスは結局何も言わず、立ち上がりサハルの後 に続いた。三人の男が立ち去り、あまり広いとは言えないゲルの 内部は開放感に包まれる。何となく深呼吸する様に大きく息を吐き出して、 ハッシュはタイスィールに渡された箱を探り始めたマコトに視線を向けた。


(何でも聞いていいって言って下さったし……)


 ほんの少しだけなら、異世界の話を聞いても良いだろうか。長い移動距離にもちろん体は疲れていたが、このまま横になったとしても眠れそうに無い。好きな事に没頭すればきっと余計な事は考えずに済む筈だ。


 カイスの下品としか言いようのない一言や 、意味有りげなタイスィールの行動、それに釘を刺すようなサハル の視線を意識的に頭から追い出し口を開き掛けた所で、扉の向こうから声が掛かった。


 ……おい、いいか」

 押し殺す様な低い声だったが、確かに今し方頭から追い 出したばかりのカイスの声に間違いない。何か忘れ物だろうかとハッシュ が返事を返すと、素早くマコトは立ち上がり、扉を開けた。 一言二言会話とは言えない程の言葉を交わし、そしてそ の狭い隙間からするりと出て行った。音も無く閉まった扉に、ハッシュは開きかけた口のままそれを見送り目を瞬いた。


(『イール・ダール』に用事? 別に入ってくればいいのに)


 時間にして数分……ハッシュは木製の扉の錆びた取っ手に視線を固定したまま固まっていた。時間にして数分 たった頃それが動いた事にはっとし、 慌てて本棚から用も無い本を抜き取り 適当に開いて視線を落とす。


(……僕は一体何してるんだ)


 無意味な行動を自問してみるが、意識は既に戻って来たマコトに向いていた。その手には紙袋が握られていて、ついまじまじとそれを凝視してしまったハッシュに、マコトはそれを少し持ち上げて笑った。


「カイスさんに頂きました。二人で食べろって」


 何だ。差し入れか、と思ってほっとし、しかし次 の瞬間ある事に気付き、ハッシュ片手で顔を覆いマコトから顔を逸らせた。


(うわ……ッもしかしなくても、食べたいとか思われたんだろうか!?)


 育ち盛りと言っても、ハッシュはそれ程食べる事 に興味は無く、研究に没頭してしまえば忘れる事も多い。目の前にいる同年代の……しかもイール・ダールに食い意地が張ってるなどと、思われるのはプライドが許さなかった。


 けれど、じゃあ何故凝視していたのかと問われれば答えにならない言葉しか出そうにない。

 あんな風に呼び出されたカイスに何を貰ったのか――なんて。


「え、あ、サ、サラのオアシスの揚げ菓子ですね。名物なのでいつも行列が出来るって聞いた事があります」


 話題を変えようと、袋を見てそう話すとマコトは興味深く頷いてその中を覗き込んだ。

 おいしそう、と呟いたわりに少し困った様に眉を寄せたマコトに気付く。


「どうかしたんですか」

「いえ、カイスさん急いでたらしくて、ちゃんとお礼言ってないんですよね……わざわざ買ってくれたのに」


 明日ちゃんと言おう、と独り言の様に呟いたマコトの生真面目さに、ハッシュは知らず 知らずの内に肩の力を抜き微笑んだ。



「美味しい」


 丸い小さな揚げ菓子を一口かじりマコトはそう呟くと、嬉しそうに顔を綻ばせた。それを眺めていたハッシュも広げた袋の上の小さなそれを口に放り込む。

 学院の寮で同室の少年が甘い物を好むので、度々分けて貰った事があるハッシュにとっては馴染んだ味だったが、こうして小腹が空いている時は何より美味しく感じる。なつめのあんは甘過ぎずちょうど良い甘さで、時間が経っているだろうに外はかりっと香ばしかった。


「……あの、……甘いものお好きなんですね」


 少し緊張しつつも障りの無さそうな話題を振ると、マコトは少し照れたようにはにかんで小さく頷いた。今まで見せた中で一番年相応な素直な表情に、ハッシュの顔も自然と和らぐ。


 幼い頃から学院の寮で暮らしているハッシュは、あまり同年代の少女と言葉を交わした事が無い。 一族自体にもともと女は少なく、同年代と言えばニムとサラと……あと数人は顔だけは知っていると言った程度だ。

 しかも親交があると言っても、我が儘なニムは、ハッ シュの話しなど興味無いとばかりに一方的にまくし立てるし、長老の孫娘でカイスのイトコでもあるサラは、 その声すら小さ過ぎてまともに聞き取れない事もある程の引っ込み思案だった……王城に上がり 幾らかはマシになった様だが、それでも積極的に話しかけてくるタイプでは無く、 集落に来るまでの道中はもっぱらニムが話していた。


 だからこんな風に年頃の少女と二人っきりでお菓子を食べるなど人生初の体験だった。


(……しっかりしてても、やっぱり女の子なんだなぁ)


 女の子は甘い物を好む、それ位の一般論は恋愛経験の無いハッシュも知っている。 摘んだ菓子を興味深気に観察しながら、口に運ぶマコトは本当に嬉しそうで、見てるだけで気持ちが和んだ。


 ……もしかしてカイスはこの笑顔が見たかったのだろうか。


 指についた砂糖を舐め取ってハッシュはふとそう思い付き、再びお菓子に伸ばした手を一瞬止めた。 広げた紙袋の上のそれをまじまじと見つめる。


(そういえばこれ……、誰かに貰ったのかな)


 思えばカイスが揚げ菓子を差し入れに持ってくるというのも、彼らしくない行動だった。

 サラの揚げ菓子屋はとても人気があり行列が途切れる事は無いと言う。そんな中に短気で女々しい事は嫌いだというカイスが加わるなんて考えられない。


 タイスィールとはまた違う健康的な魅力があり、粗暴ながらも次期頭領という立場にあるカイスなら頼めばいくらでも喜んで並んでくれる女がいるだろう。その内の一人だろうか。


 そこまで考えてハッシュは妙に苛立ち、勢いよく山を崩し摘んだそれを口に放り込んだ。


 ……そもそも西の中でも人気を二分する彼らが何故候補なのだろうか。強いて言えばサハルだって優しい物腰が いいと女文官達の信頼を集め、王の親衛隊の一人だというナスル もあの冷めた視線が堪らないと、女官に大人気だ。……残り の二人は敢えて除外。あれは普通の男としては規格外だから、色んな意味で女は近寄らない。逆にどうして彼らが候補に上がったのか聞きたい位だ。


 しかし最後の二人を抜いてもこれでは分が悪すぎる話で。


(……いや、まぁ僕は異世界の話を聞けたらいいだけなんだけど)


 そう言い訳しつつも、思考は別の方向に飛んで行く。

 もし――仮に目の前の少女に自分が選ばれたとしたら――。


 美味しそうに揚げ菓子をかじるマコトをちらりと盗み見て想像してみる。

 異世界の話を聞いて時々自分達の話なんかしたりして……マコトの淹れた お茶を飲み食事をして夜は疲れた体を癒やして貰う。


 とにもかくにも婚約そして結婚となると、長い間一緒にいる事になる。マコトな ら慣れれば一緒にいても疲れなさそうだし、気も遣わずに済みそうだ。今よりも近い自分の傍ら にマコトがいる事を想像し、ハッシュは知らず頬を染めた。


(意外にいいかもなぁ……)


 それからハッシュは精一杯しつこくならない程度に 自制しながらマコトの世界の話を尋ね、ハッシュは心躍る時間を過ごした。マコトは衣装箱に入っていたらしい寝袋に入り、ハッシュも寝床で横になる。カイスの事もタイスィールの意味深な言葉も楽しい時間に押し流されて頭からさっぱり消えた。






 ……と思っていたが。





(眠れない……っ)


 ハッシュは心の中で唸り、何度目かの寝返りを打った。 背中合わせのマコトからは何の物音も無く、吐き出す息にすら緊張感が高まる。幼い頃から寮暮らしをしているので他人と同 室で生活するのは慣れているはずなのに、マコトの存在が妙に気になって眠れなかった。



(……ん?)

 のそりと起き上がったマコトの視線を感じ ハッシュは一瞬身体を強張らせた。狸寝入りをするつもりは無かったが、目を開けるタイミングを逃してしまい、何となく規則正しい寝息を立てると、しばらくしてから立ち上がる気配がした。


(どこか、行くのかな……)


 あまり一人にしない様にとタイスィールから言い遣っている。

 それにそんなに親しみやすいと言っても彼女はオアシスの所有権を握る意味ではとても重要な存在で、今、他の部族に存在を知られる訳には行かない。 ――彼女がその事を知らないと聞いた時は、さすがに良心が疼いたが、そこまで必死になる長老の気持ちも痛いほど分かる。


 西の部族が今所有しているのはカイスの母が所有権を持っていたオアシスただ一つ。何度か 『イール・ダール』を迎え他にも勿論あったが、『イール・ダール』が死ぬとそれは二十年程で枯渇する。 周期的にも見て西の部族が合同の部族会議にて次の所有者に選ばれる可能性は強いが、 十年振りとなればそう簡単にはいかないだろう。 次が必ずやってくるという確証が無い限りは。


 四つの部族の中で醜い争いの種になるよりは、彼女にとっても良いのでは無いだろうか、と 長老が尤もらしく言った言葉に頷いたハッシュだったが、――先程のマコトの笑顔を思い浮かべれば、口の中に苦い物が広がった。


(まぁ僕が口を出せる事じゃ無いけど……)


 つまりはそうなのだ。いくら聡明だ と言ってもハッシュはまだ子供 で発言権すら無い。

 ……今はどうにもならない事だと、ハッシュは 無理矢理それを頭の隅に追いやった。


(……それにしても何やってるんだろう)

 用を足しにいく訳でも無い様子に、ハッシュはそっと瞼を薄く開く。

 が、次の瞬間には顔を真っ赤にさせ悲鳴を上げた。


「ぅわっぁ!」


 叫びながら起き上がり、ハッシュは今更ながら自分の口を両手で押さえた。

 立ち上がり振り返ったマコトは着替え中だった。


「っ!?」


 剥き出しの背中は華奢で、艶やかな黒い髪がそれを少しだけ隠していた。 キャミソールに隠しきれない豊かな胸の谷間と滑らかな曲 線が月明かりに照らされくっきりと形を作る。

 驚いた様に見開かれた黒い瞳には、尻餅をついている情けない自分の姿が映し出されていて、 ゴクリと息を飲む音が大きく響き、ハッシュはぶんぶんと意味無く首を振った。


 凝視したままのハッシュに、マコトは驚いたように目を瞬かせていたが、 はっと我に返ると小さく悲鳴を上げ、着替えらしきもので前を隠した。


「す、……すみません。服を着替えたくて」

 恥ずかしそうに俯いてマコトは呟く。ただ呆然とマコトを見上げていたハッシ ュはその言葉に我に返り、わたわたと手足を動かして背中を向けた。


「いいいいえっ! っあの申し訳ありませんッ」


 初めて見る生身の女性のあられもない姿にハッシュの顔は、月明かりでさえ分かる程赤くなる。


「……驚かせてすみません」

 

 そんなハッシュに追い討ちを掛ける様に、すっかり落ち着いたらしいマコトが声を掛けて来た。

 穴があったら入りたい。謝罪を続けるマコトにハッシュは首が千切れんばかりに左右に振った。


(加害者のクセに何謝らせてんだっ!)


 誰がどう見たってハッシュが一方的に悪い。しかも相手は年下の女の子。 一人で狼狽して醜態を晒す自分が情けない。 


「本当に申し訳ありません……ッ!」


 何もこんな大騒ぎにしなくとも良かったはずだ。別 に着替え位どうって事ないのだし、声さえ出さなければ……そう心の中で叫んで、 頭を抱える。いやしかしそれも道徳的にダメダメだ。 思考が纏まらず、だらだらと冷たい汗が背中に伝った。


 どうしよう。わざとだと思われたら!

 せっかくいい感じに築いた(と思う)信頼 関係がガラガラと音を立てて崩れていく音が聞こえる。神聖な『イール・ダール』でなくとも、年頃の女の子の着替えを覗くなんて最低最悪だ。



「いえ、こちらこそすみません。……あの、もういいですよ」


 気遣うような抑えた声に、ハッシュはますますいたたまれなくなって体を小さくする。 思えば女の子なのだから自分の様に着の身着のままと言う訳にはいかないだろう 。着替えるから出ていってほしい、と言い出せず自分が寝るのを 待っていたに違いない。


(なんて気がきかない……っ)


 もう少し配慮すべきだった。きっとサハル……いや他の候補者なら自然に申し出ただろう。


「じゃあもう寝ましょうか」


 いつまでも謝り続けるハッシュに、マコトはそう言って切り上げた。


「え」

 その呆気なさにそろそろと振り返ると、着替えを済ませたマコトは穏やかに微笑み、寝袋に潜り込んだ。


「……」


 許してくれた、と言う事なのだろうか。

 何も言わないのは、多分少女の優しさだ。


 残されたハッシュも複雑な表情を浮かべ、のろのろと寝床に潜る。

 気付かれないように毛布の中で溜め息を付き、目を瞑 ったその瞬間、先程目にしたマコトの姿が瞼の裏に映り 、ハッシュはくわっと瞼を押し上げた。女の子と言うよりは成熟した女性の体。学院の先輩に息抜きにと見せられた写し絵のそれに、恥じらうマコトの姿が重なる。


「……っ」


 頭と体の一部に熱い血が集まっていく感覚がした。


(…~っなんて事を……ッ)


 自己嫌悪に再び目を瞑れば、凝視しすぎたせいか鮮やかに蘇るマコトの姿。


(考えるな考えるな……ッ)


 どうしよう。今夜は眠れないかもしれない。

 ハッシュは頭から毛布を被りそう思った。






評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ