第二十話 気配
正午を過ぎてもマコトはまだ台所にいた。
タイスィールの申し出にすぐに頷き、サハルも交えて相談した結果、マコトの仕事 は朝食の支度という事になった。それぞれ仕事もあって出払う事も多く、 全員揃うのは朝しか無いらしい。
もう少し役に立てるかと思っていたマコトは少しがっかりしたものの、 仕事があるだけマシだと自分に言い聞かせて、その申し出を受け入れた。
そしてあの後しばらくハッシュの話をし、キリのいいところでカイスが高く昇った太陽を振り仰ぎ 思い出した様に声を上げた。
『あ―ぼちぼち行ってくる。ほら、お前も行くんだからな』
最初はサハルに、最後は残る一人に言って、えーと嫌そうに声を上げたサーディンの首根っこを掴み、半ば引き摺るように歩き出した。
何をしでかすか分からないサーディンの退場にマコトは少しほっとし、それならばと台所の整理をしたいとサハルに申し出てみた。
案の定、それも手伝います、と言ってくれたが、これ以上迷惑を掛ける訳にはいかないと マコトは丁重に断った。
そしてゲルに一旦戻ったサハルが、市場に行く、と声を掛けてくれた時からちょうど一時間。
隙間に積もった砂埃を全て取り去り、誰 も使わないと言う事で、マコトなりに使い勝手が 良い様に調味料やらフライパンや鍋を整理してい たせいで思ったよりも時間が掛かってしまった。
(意外にいっぱいあるのね……)
手に馴染む感じのもの、錆びて使えないものなど選り分けながら、 棚の中身を出していく。
マコトにとっては少し高い棚に手を伸ばし、 中の鍋を取り出そうと取っ手を掴み大きく傾けたその時、中に重ねられていたらしい一回り小振りな小さな鍋が滑り落ちてきた。
「……っ」
次に来るであろう衝撃に目を瞑り、覚 悟を決めたマコトだったが、 ぐいっと誰かに肩を掴まれ後ろに引き寄せられた。
重い鉄鍋が床石に落ち、派手な音が上がる。 強ばらせた肩から力を抜いて後ろを振り仰ぐと、 無表情に自分を見下ろすナスルと目が合った。
(ナ、スルさん……?)
密着した背中に金属製の何かが当たる。固く冷たい感触にそれを見下ろし一瞬体が強張った。使い込まれたくすんだ色を出している持ち手。 鞘には獅子を象った紋章が刻み込まれていた。
(剣……)
まだ見ぬその刃の鋭さを想像してしまい、一瞬肌が粟立つ。
「……気を付けろ」
低く呟く様にそう言って、ナスルは肩から手を外し、マコトから体を離した。
気配も無く突然現れたナスルに、呆然としていたマコトだが、はっとした様に目を見開き慌てて頭を下げた。
「っ有難うございます」
ナスルは何も言わず、そんなマコトの小さな頭を見下ろし、不快そうに眉を寄せる。そしてまだ棚に視線を上げると手を伸ばし残っていた鍋を全て下ろした。
「これだけか」
「え、あ……はい」
助けてくれた上に、手伝ってくれたらしい、というその事実を理解するまで、マコトはやはりナスルを見つめたままだった。自分の事が嫌いらしいナスルがどうして手伝ってくれたのか――思わず助けてし まう程見ていられなかったのだろうか。
そう思ってマコトは大きく目を瞬く。
……見ていた――?
一体いつから?
近付いてくる気配なんて無かった。腰に剣を佩いている事を考えれば物語の中でしか想像出来ないが、いわゆる…… 剣士と呼ばれる職業に就いているのだろう。思えば そんなストイックな雰囲気をナスルは纏っている。だから気配を殺すなど息を吸うよ うに自然に出来るのかもしれない。しかし どうして、そんな事を『今』しているのか――。
ふと思い浮かんだ疑問の答えを探るよりも先に、 ナスルは立ち尽くすマコトを置いて、踵を返した。 遠ざかっていく背中に慌てて礼を言った。
ナスルの一連の行動を不思議に思いながらも、マコトはてきぱきと作業を進めていく。あらかた片付けが終わり、ふぅっと溜め息をついた所で、背後から声が掛かった。
「おや、珍しい一人かい?」
振り向かずとも昼間っからこんな艶っぽ い声を出す人は一人しかいない。
「タイスィールさん」
そう名前を呼べば後ろに立っていたタイスィールは にっこり微笑んでマコトを見下ろしていた。
「水を貰いに来たんだ」
尋ねるよりも早く彼はすぐ脇にある瓶を指差した。
タイスィールはマコトの隣に並ぶと、瓶の蓋を開くかと思えば、手の中に持っていた布をふわりとマコトの頭に被せた。
「屋根があると言っても全部が日陰ではないし、風で砂も飛ぶしね。外に出ている時は何か被った方がいい」
タイスィールの意外な行動にマコトは目を瞬かせた。被せられた薄布の切れ端に視線を落としそれを凝視していたが、どうやら貸してくれたらしい、と気付き顔を上げる。
アクラムから貰った日焼け止めを塗ってはいるが、日差しの強さは気になっていた所だったのでそれは有難かった。
薄布の隅には控え目に花の刺繍が施してあり、上品な色合いによく合っている。しかしどうみても女性物のそれを、タイスィールが持っているのか。 誰かへの贈り物か、もしくは知り合いの女性の物なのではないだろうか。そう考えてマコトは申し訳無さそうに言葉を添えた。
すみません。洗ってお返ししますね」
「いや、出入りの業者から余り物だからと押し付けられたものなんだ。明らかに女性物だから使い道は無いし捨てるのも忍びないからね」
「そうなんですか……」
貰ってくれると助かる、というニュアンスで説明され、マコトにしてはそれを珍しく素直に受け取った。
(でも素敵なスカーフだし、タイスィールさんからなら、貰いたいって言う人いるような気もする……)
しかしわざわざ思い出し 持ち出してくれたのだろう。気まぐれだ としてもその気持ちが純粋に嬉しかった。
「……有難うございます。大事にしますね」
「どう致しまして」
タイスィールは微かに小さく息を 吐き出して、彼にしては珍しく素直に微笑んだ。
(気、使わせちゃったな……)
その微かな表情の変化に気付き、マコトはス カーフを捲きながら苦笑する。タイスィール は手際よく掬い上げた水を溢すことなく水袋 に注ぎ込んだ。豪快に溢していたカイスとは対 照的だ。蓋をしっかり閉めるとそれを小脇 に抱え、タイスィールはさらりと話題を変えた。
「もうこの世界には慣れた?」
この世界にやってきて既に五日目。もうそんなに、とも思うし、まだそれだけかとも思う。マコトは少し考え、こくりと頷いた。
「そうですね」
泊まる先を転々とする生活にも幾らか慣れてきた気はする。仕事として食事の用意をさせて貰えば手持ち無沙汰も幾らかマシになるだろう。余った時間はサハルに本でも借りて過ごそうと思っていた。そしてそれからどうするか――、はまだ決めていない。選択権は多分自分に無い事をマコトは何となく気付いていた。そしてそれがある意味ではとても楽だと知っている。
マコトの言葉にタイスィールは、ゆっくりと頷き「すごいね」と賛辞の言葉を送った。
「本当に君は落ち着いているよね。イブキさんが最初に来た時はそりゃもう大変だったんだよ」
イブキ――その名前をタイスィールがこ れ程簡単に口にしたのが、マコトには意外だった。少し驚いた様な表情のマコトに気付き、タ イスィールは、ああ、と頷き口の端をほんの少し吊り上げ薄く微笑んだ。
「失礼。私とした事が引き合いに出すなんて」
(……あ)
失敗した、と思った。そんな悲しい表情をさせたい訳では無かったのに。
マコトはすぐに笑顔を作り、同意するように大きく頷いた。
「イブキさんから聞きました。一週間は夢だって言い続けて、次の一週間は泣いて暮らしたって」
少し茶化したように言ったマコトにタイスィールの表情が緩む。そうなんだ、と頷いて懐かしそうに目を細めた。
「真面目な顔をして名前を呼ぶから何かと 思えば思いきり頬を抓られて、『痛くないって言って!』だよ。本人は必死だから加減なんてしてくれないし、私は適当に逃げたけど、ラーダはずっと付き合って 抓られていたよ。……今思えばそれが敗因なのかな?」
くすくすと笑うタイスィールの顔に先程までの憂いは無い。イブキらしさにマコトも今度は自然に声を上げて笑い、ほっとしたのも束の間、タイスィールは意味有り気にニコリと微 笑んで癖の強い柔らかな髪をかき上げた。
「気を遣ってくれて有難う。未練たらしい男だと自分でも思うよ。十年も心配させたままで会いにも行かなかった、なんて」
結局タイスィールには何もかもお見通し らしい。マコトは諦めた様に溜息を一つつくと緩やかに首を振った。
どうしてタイスィールがこんな風に自嘲気味に語るのか、マコトには何となく察しがついた。そして何を言って欲しいのかも。
それは恋愛感情では無いけれど、自分にも覚えがある感覚だから。
再会したあの日、きっとタイスィールの想いはきっと終わった。
そう確信出来るのは、恋敵である筈の タイスィールのラーダを見る目が穏やかだったからだ。そして身篭ったイブキに 向けられていた目は恋愛感情と言うよりは少しの切なさを伴った憧憬 だった。
タイスィールはきっと怖いのだ。
十年その胸に抱えていた想いはきっともう体の一部で、 それを捨てる事で違う自分になってしまう事が。
恋愛だけでなく、一度辛い思いを体験すると、 なかなか新しい一歩を踏み出すのは難しい。
人間は臆病で、出来るだけ傷つか ずに生きていきたいから、色褪せた 想いも抱え続けその場所に留まろうとする。けれどもそれでは何も始まらない。
マコトはタイスィールから貰ったスカーフの端を撫でながら、少し考える様に間を置き、そしてゆっくりと口を開いた。
「イブキさんを好きになって辛い事ばっかりで、 楽しい事なんてありませんでしたか」
「そんな事は無いよ。だからこそ困る」
過去に思いを馳せる様にタイスィールの目が眇められる。
「新しい場所に踏み出せば……辛い事もあるでしょうけど、そういう楽しい想いも同じ位あると思います。 ……だから、そこで止まってちゃ勿体無いですよ」
後半は肩を竦めてマコトはわざと軽い口調で続けた。
それは過去自分自身に何度も言い聞かせた言葉。
だからちゃんと生きていこうと思った。 母がいなくても、誰もいなくても、たった一人でも。
マコトは床に置いた廃棄する予定の鍋に視線を固定したまま 動かさなかった。
「――そうだね」
そしてタイスィールも同じ方向を眺めてぽつりと呟いた。
「君がいなかったら、きっとまだ行けなかった」
タイスィールの囁く様な言葉に、マコトは少し驚い た様に真横に立つタイスィールを見上げる。苦笑いを浮かべるタイスィールの視線とマコトの視線が絡まり、お互い同じタイミングで微笑んだ。
「そんな事無いと思いますけど。……でも、きっかけになったなら嬉しいです」
愚かさも脆弱さも全てを包み込んでくれる様な、 柔らかな微笑みはまるで、女神の様に美しく 、タイスィールは眩しそうに目を眇めてマコトを見下ろした。
「……マコト」
「はい?」
奇妙な沈黙。その間の長さに、マコトが首を傾げたその時、馬の嘶きが横たわる静寂を打ち消した。




