第十五話 責める声*
(う……ん)
頭が鈍く痛む。
口の中の苦さに喉の渇きを覚えて、マコトは重い瞼を押し上げた。
(あれ……あたし何して……)
妙な違和感を感じて、マコトはぼんやりとした頭の中で記憶を辿る。
確か、昨日はカイスのゲルで眠りについた筈だ。なぜか部屋の雰囲気が違うような気がしてマコトは微かに眉を顰めた。
(カイスさんは、もう起きたのかな?)
昨日の夜更かしがたたったのだろうか、どうにも体が重く、マコトはすっきりしない目覚めに首を傾げ、上半身を起こした。
「あっ目が覚めた?」
まだぼんやりとした視界に、突然一人の男が飛び込んできた。
その姿を認めるや否やマコトは声にならない悲鳴を上げる。 そして、途切れ途切れながらもこの男が現れた時の状況を瞬時にして思い出した。
(この人、だったよね……!?)
まじまじと顔を見る余裕は無かったが、妙に軽い口調が印象に残っている。
確か、目が覚めたらなぜか見知らぬ男に抱きつかれていた。何故ああいう状況に陥ったのか理解出来ない。
カイス達とのやりとり、そして言動から察するに、……多分、自分の世界で言う所の、『変態』 という類の人種なのではないだろうか。
(なんでこの人が……っ! ……えっと……、そうだ、結局サハルさん達 が助けてくれたんだよね。で、この人に飴貰って……)
名前は確かサーディンだっただろうか。飴を口の中で転 がしてすぐに、妙に体が熱くなった事だけ、強烈に覚えている。し かしそれ以外、全く思い出せなかった。きっとあのまま気絶 してしまったのだろう。あの飴は睡眠薬だったのだろうか。
知らない人にものを貰ってはいけない。まさか十八 にもなってそんな常識を痛感する日が来るとは思わなかった。
「アクラムの薬苦かったよね。はいお水」
(アクラムさんの薬……? 気付けでも飲ませてくれたのかな?)
アクラムとの一幕を全く覚えていないマコトは首を傾げながらそう思う。
手際良く目の前に差し出されて、マコトは条件反射で受け取る。
しかし素直に口を付けるには、サーディンは怪し過ぎた。
(……)
水を手にしたままマコトはきょろきょろと辺りを見渡す。恐ろしい事にサーディン以外は誰もおらず、ゲルの中に二人きりだという事実にようやく気付いたマコトは顔を引き攣らせた。
(何でこの人と二人きりなの!?)
サハルやカイスが庇ってくれた事は覚えている。あそこで庇ってくれるくらいなら、二人きりなんてさせないで欲しい。
「ここはねータイスィールのゲルだよ。結界張ってあったんだけど、こっそり入っちゃった。内緒にしててね?」
きょろきょろ見渡すマコトに気遣ったのか、サーディンはにこにこ笑いながらそう説明し、それから最後に子供のような仕草で首を傾げて見せた。
(こっそりって……っ!)
つまり誰もサーディンがここにいる事に、気付い ていないと言う事だろうか。だとすると……恐 ろしい予感にマコトは一気に青醒めて、座り込んだままじりじりと後ずさった。
「結界って知ってる? 向こうからは見えないし、物音だ って聞こえないんだよ? 色々便利だよねぇ」
説明する口調が、妙に楽しそうなのは何故だろうか。
「そう、ですね……」
既にイブキの場所で説明は聞いている。
掠れた言葉で曖昧に頷くと、サーディンはマコトが手にしたままのコップを指差した。
「飲みなよ。可愛い声が台無しだよ~? それには何も入れてないから、ぐぐっといっちゃってよ」
自分と同じ位だろうか。初めて見るならきっと爽やかだと思えただろう。長い前髪の下の顔は小作りながらも整っており、ほんの少し垂れた目は優しそうで、目元の泣き黒子を際立たせている。 無邪気に微笑んでいると、よりいっそう幼く見えた。
マコトは手元のコップを見下ろし、ごくりと唾を飲む。
確かに何を飲まされたのかと思うほど、口の中が苦い。
(……どっちにしろ結界の中なんだから、これ飲んだって状況は変わらないわよね)
マコトはそう結論を出すと、おそるおそるコップに口を付け 少しだけ飲み込んだ。いつ用意したのだろうか。冷た い水は寝起きの身体に心地よく、頭痛が少しだけ収まった気がした。
「……えっと……何か用でも……?」
まだなみなみと残っているコップを手にしたまま、マコトはそう切り出す。こうなれば、さっさと用件を聞いて追い出した方がいい。
「うん? ちょっと聞きたい事あってさ」
にこにこと無邪気な笑顔を浮かべてサ ーディンは、マコトのすぐ隣に胡坐をかき、頬杖をついた。
「……何ですか?」
妙な沈黙が続いて、――嫌な、予感がする。
ごくりと唾を飲んで、マコトが再び尋ねると、サーディンはようやく口を開いた。
「なんで年齢誤魔化してんの?」
さくっと軽くそう問われて、マコトはぎゅっと唇を引き結んだ。 アクラムの時と状況が似ているので、何となく予想はしていた質問だった。
それにしても、サーディンとは数時間前に……それも一瞬 話しただけだ。……どうして分かったのだろうか。
答えに困り、俯いたマコトにサーディンは笑みを浮かべた まま軽く肩を竦めた。
「バレないとでも思った? あれだけぎゅうぎゅう抱きついたんだよ?」
サーディンの手が、躊躇う事無くマコトの胸元に伸びた。服の上から遠慮なく胸を掴まれ、 マコトは驚きに悲鳴を上げる。
「……っ! ……はなし……っ」
「邪魔だよね?」
ぎゅっと力任せに強く握り込まれ、マコトは痛みに顔を顰めた。
(なに……この人……っ!)
掴まれたその場所からぞわりと鳥肌が立った。心臓が痛いほど大きく鳴り出す。 身体を捩って逃げようとするが、サーディンのもう一方の手がマコトの腰を掴んで、動きを封じた。
(怖い、怖い……っ!!)
すぐ近くにあるサーディンの表情は変わらない。楽しそうで、しかしどこか嘲る様な 冷たい影が見える。まるで心の中を見透かされる様なその瞳に、マコトは恐怖を覚えた。
「ね、ホントはいくつ?」
耳元に口を寄せて、耳の裏を擽る様に舌が這い回る。睦言の様に甘ったるい口調なのに、 冷気の塊の様な視線にぴりぴりと肌が痛む。
「……さっさと答えてよ? ……イラつくから」
首筋――頚動脈の辺りを噛む様に歯を当てられ、マコトは本能的な恐怖に身体を強張らせる。 考えるよりも早く、喘ぐように本当の年齢をマコトは口にした。
「じゅうは、ち……ッ」
「……それはまた」
明らかに落胆した口調で、サーディンはこれみよがしに大きな溜息をつく。
そしてほんの少し力を緩めると、顔を上げ、マコトの顔を覗き込んだ。
「で、なんで嘘なんかつくわけ? 初対面の男と結婚なんてしたくないから?」
サーディンの問いは疑問系だが、マコトからの答えを一切聞 くつもりは無いらしい。答える時間も考える時間も与えないまま、言葉を重ねていく。
「わっがまま~! 『イール・ダール』はみぃんな我慢してるのにね。結婚して子供を生むからこうやって一族で面倒見て貰えてるんだよ。それ分かってる?」
サーディンは一気にそう言うと、突き飛ばすようにマコトから身体を離した。
そんな事は分かっている。
自分だって思っていた事だ。しかしこうして第三者に 言葉にして責められると、本当に自分がどうしようも無いわがままな人間に思えてくる。
イブキが味方をしてくれたから、心のどこかで安心していた。
「それともお姫様扱いされてちやほやされてるのが嬉しいのかな? 中身はどうでも、みんな顔も良いし、お金も地位もそれなりに持ってるもんね? ああ、じっくり選ぼうとか? 女って嫌だよねぇ打算的で」
サーディンの言葉に、マコトは首を振る。
「ちが……っ」
「さいあく」
マコトの否定を遮って、止めを刺すように、優しく、そして残酷にサーディンは囁いた。
「私、は……」
声が震える。
何か反論しようと思うのに、言葉が出てこない。いや少しでも言葉を発すれば、 嗚咽が漏れそうだった。もう他人の前で泣くのは嫌だった。
――どうしてここまで傷つくんだろう。
掴まれた胸よりもその奥が痛い事に気付き、マコトは堪える様にきつく瞼を閉じる。
それは分かっていた事だ。この世界の居心地は決して悪くない。目を覚ませば常に誰かがいるこの状況は、孤独だったマコトにはとても――嬉しいものだった。けれどその暖かさは自分の心を弱くする。
だから。
酷い言葉が、今、こんなにも突き刺さるのだ。
事実を改めて責められた位で、こんなにも泣きたくなるなんて、元の世界では有り得なかった。
「悪いと、思ってます。けど、結婚なんてしたく、ないんです……」
こんな自分が結婚するなど、とても現実には思えない。何も出来ない、特技も無い、 こんなつまらない自分では、相手だってきっと喜ばないだろう。……もっと、自分に自信 があれば、状況と同じ様に婚姻だって、それ程躊躇う事無く、受け入れられた気がする。
もう少し自分に価値があれば、きっとサーディンにだって何か言い返せた筈だ。
マコトはぎゅっと唇を噛み締め、サーディンに顔を見られない様に俯いた。
いつのまにか放り出していたらしい転がったままのカップを取ろうとすると、 その手をサーディンが強い力で掴んだ。
「……なに」
するんですか、と言おうとして顔を上げると、ふいに涙が零れて頬を伝った。慌ててそれを 拭おうとするが、サーディンがそれを許さなかった。
息が触れ合う程の距離まで近づいていたサーディンと目が合う。
「――ああ、やっぱり」
蕩けるような甘い笑顔を浮かべてサーディンは言葉を続けた。
「泣いてる顔が一番可愛いねぇ……」
涙で濡れた頬を、先程までの乱暴さが嘘の様な優しさでそっと包み込み、うっとりと囁く。
「ほら、もっと泣いて。酷い事もっと言ってあげるから」
目尻に浮かんだ涙を舌で掬って嘗めると、サーディンは凄艶に微笑んだ。
(……え?)
一体どうなっているのか、状況が理解できないマコトはただ固まってされるがままになっていた。
「ほんとイイ顔するよねぇ。十八なんて年増、勃たないかと思ったけど全然問題無いよ」
嬉しそうにそんな言葉を呟いて、サーディンは何か確かめるように視線を下げた。驚きに目を瞬かせたマコトを見てにっこりと笑って首を傾げる。
「触る?」
「……~っは……!?」
不自然に膨らんだそれが一体何を示しているのか、流石に疎いマコトにも分かった。
「まぁまぁ遠慮しないで」
掴まれたままだった手を無理矢理引っ張られて、マコトは悲鳴を上げる。
嫁に行けなくなるどころじゃない。すっかり涙も引っ込み、マ コトは先程以上に絶体絶命の事態に陥った事に気づいた。
「やめてください……っ!!」
マコトの絶叫と共に、扉が派手な音を立てて開いた。
「サーディン……っ」
肩で息をし、扉の向こうにいたのはサハルだった。
泣いていたと思われるマコトの赤い目と、その細い手がサーディンの手に掴まれ、どこに導かれようとしているか――それを 瞬時に理解しサハルは眉を吊り上げ、くっと喉の奥で笑った。そし て素早く袖元から何かを出し、狙いを定めること無く、投げつける。
キン、と金属がぶつかり合う音がして、サーディンの足元 に何かが落ちた。それは、鋭く尖った二本のナイフだった。
「っわ! 危ないなぁ」
どこからか取り出した大きな赤い石が嵌められている金属性の杖を手にしたサーディンが、足元のナイフを見下ろし、眉を潜める。
「もうカイスのでたらめな剣ならまだしも、サハルのナイフは洒落になんないよ。うっかり死んじゃうとこだったじゃない」
「洒落じゃなくて本気ですが?」
ふふふ、とまだあるらしい手の中のナイフを撫でながら、サハルはにこやかに微笑んだ。
(……サハルさん、なんかすごく怖い……ような)
にこやかな笑顔はいつも通りなのに、纏う雰囲気が明らかに物騒だ。
救世主の登場にほっと安堵しつつ、今後サハルを怒らせる事はし ないでおこうと、マコトは心に誓った。




