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第百話 夜光虫


 月を背負い二つの影が砂漠をゆっくりと横断していた。柔らかく輝く月は静かな波の様に広がる大地に身を委ね、わが子を抱き締める腕のような優しさを放つ。


 詩人が謳うような静かな明るい夜だった。


「この辺りかの」


 小高い丘に差し掛かり、懐から出した銀の鎖の付いた磁石を見つめて、ムルシドは一人ごちる。

 今夜は月が明るく、その針の先もはっきり見え、指し示す方向はぴったりと北。天上で瞬く星達は寄り添う様にその月を囲んでいた。件の少女に惹かれるあやつらのようだ――と、ムルシドは分厚い外套の下で込み上げる笑いを押し殺した。


 ムルシドは傍らの――無理矢理息子に付けられた護衛に合図を送ると、らくだの手綱を引き、その場に降りた。


 手綱を共に預けて小さな皮袋を肩に担ぐとゆっくりと月に向かって歩く。

 少し進んだの先の窪みの底には乾いてひび割れた大地があった。周囲を取り囲んでいたであろう木々はとっくに乾いて砂に還り、その形すらとどめていない。


 その中で、唯一の名残とも言える大きくせりだしたかつては崖だった石の、平らな部分に腰を下ろし胡座をかくと、ムルシドは手にしていた皮袋から酒を取り出した。


 こほこぽと乾いた大地……かつては、カナのオアシスがあった場所に、その半分を落とし、息をつくと、また取り出した杯に残りを注ぐ。琥珀色の液体が流れ落ち、最後の一滴まで振り落とすと空っぽの瓶を砂の上に転がした。


 夜空に捧げた杯に、丸い月がゆらゆら浮かび、その中に昼前見たマコトの笑顔が朧気に見えた。瞼を閉じれば、スェの穏やかな表情、イブキのあの頃と変わらぬ勝ち気な、しかし清々しい笑い声。そして――王の慈愛に満ちた表情――幸福が目に見える何かだと言うならきっと、今日のあの光景の事を言うのだろう。



 満ちる月、満ちる想い。


 戦を嫌った優しい女神が治める――尊いこの世界。マコトと言う新しい『イール・ダール』が欠片となり、あるべきところに収まりそれが満ちて潤い完全になる。


 そう、彼女は今日の月の様に、王の、スェの、イブキの、そして 自分の、十年前に痛みを伴い欠けた部分を補ってくれた。


 あの幸せな光景は、さほど遠くない未来に赴く自分の死出への最高の手向けだろう。


 ふぅわり、と酒の甘い匂いに誘われたのかどこからか夜行虫がムルシドの鼻先を掠めた。今日は本当に良い夜かもしれない。例年の寂しい一人酒にどうやら良い連れ合いが出来たようだ。夜光虫は死んだ者の魂だと教えて貰ったのは今はとうに亡くなった何代目かの『イール・ダール』であった古き良き友人。



「……娘を心配してやってきたのか?」


 一人ごちて笑う。


「心配無い。あの子は幸せになるよ。その優しさもひたむきな強さもお前譲りじゃ」


 夜行虫は差し出された杯の端に止まると、まるで答える様に羽を一度震わせ、また飛び立った。

 それを見送り、ふと元の大地を見やり、ムルシドは首をかしげる。そこには溢した杯の中身がそのまま黒く色を変え、そこに未だ存在していた。


 いつもなら――乾いた飲み込む様に吸い込まれ瞬時に風に吹かれて跡形もなく飲み込んだ。しかし、そこには未だ水溜まりがあり――違う。注いだそれよりも確実に多い……水溜まり――それは命を繋ぐこの世界の命。水。



 ムルシドは、小さく呟いた。



「――オアシス?」


 こぽり、こぽりと噴水の様に水はどんどん増えていき、ムルシドが落とした杯が船の様に浮かんで、水に写りこんだ月を渡った。


 驚いたラクダの蹄の音と嘶き。護衛が何か叫ぶ声が遠くに聞こえた。

 オアシスの前に立つムルシドを取り囲む様に緑と花が溢れて萌ゆる。


 十年前、脳裏に焼き付いたあの崖。追いかけようとしたザキを抑え、繋がりを断ち切らせた場所。見渡さなくてもそこに新しい『イール・ダール』はいないだろう。


 何故ならここは間違いなくカナのオアシスなのだから。


 苦い思いを抱えて過ごした十年――忘れる訳が無い。何もかもが元通りに存在し、今、生きている。



『――長老』


 女性らしい明るく、けれど落ち着いた声が、確かに耳に届いた。

 ムルシドは皺だらけの顔をくしゃりと歪め、乾いた唇で呟いた。



「――おかえり。カナ」






 











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