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第十一話 同胞 2


「……先の『イール・ダール』のイブキさんは、医者をやっていてね、定期的にこうして回診に来るんだ」


 馬から降りると、タイスィールは目を眇め、周囲を懐かしそうに見渡す。


「お医者さん……」

 一体どういう経緯で、その職業を選んだのだろう。 やはり元の世界でも医者をしていたのだろうか。


(あ、なんか凹みそう……)

 自分のスキルの無さを改めて思い知り、マコトは溜息をついたものの、気持ちを切り替えるべく違う質問をした。


「お知り合いなんですか?」


 イブキさん、と親しげに呼んだ事を考え、マコトはタイスィールに問いかけた。


「……ああ、昔のね」

 呟く様にタイスィールは返事をする。その視線は、マコトでは無く、真っ直ぐにオアシスへ向けられていた。


(何かあったのかな……イブキさんって人と)


 何となくマコトはそう思う。

 目的地に近寄れば近寄る程、タイスィールの口数が減っている事にマコトは気付いていた。


(でも、まぁ良かった)


 マコトはちらりとタイスィールの視線向け、気付かれない様に小さく息を吐き出す。

 馬に乗り込んでからは、初日に見せた様な、からかう素振りは見せなかった。 そんな気分では無いだけだろうが、マコトには何よりそれが重要だったのだ。


 オアシスの端、大きな木と緑に覆われた場所に、大中小とゲルが三つ並んでいた。一番小さなゲルの前に、人影が見える。小さな黒い頭に、マコトは胸が騒ぐのを感じた。長身の美人で、長い髪を一つに束ねている。 確かにその顔はマコトと同じ東洋系だ。イブキ――名前からほんの少し期待していた。 期待しすぎない様にはしていたけれど。それが現実のものになってマコトは嬉しかった。


「――久しぶり。イブキさん」


 それは決して大きく無い声だったが、目の前の人物は、はっとした様に素早 く顔を上げた。

 そして、小さくタイスィールの名前を呟き、まるで確認するように全身を上から下へと眺めた 後、くしゃりと表情を歪ませて、笑った。


「……久し、ぶり」

「うん、元気そうで良かった」

「ええ、とっても、……貴方も元気そうね。すっかり大人になっちゃって」


 イブキの目は少し赤く潤んでいる。タイスィールに会えた事が本当に嬉しいのだろう。

 けれど、久しぶりの邂逅のせいか。お互い交わす言葉は少なく、気まず い雰囲気が流れた。

 暫く間が空き、タイスィールは、後ろに控えていたマコトを振 り返ると手を差し出し、前に出るように促した。


「積もる話はまた後でね。イブキさん、紹介したい人がいるんだ」


 イブキも女性にしては相当背が高い。自然に見下ろされる形になる二人の視線に、 マコトは少し困惑しながらも、ぺこりと頭を下げた。そしてタイスィールの顔を見上げ、 頷くのを確認してから、目深に被っていたフードを肩に落とした。


「……え、……あっ!」


 イブキはマコトの姿を見て、大きく目を見開きそして口元を手で覆った。


「あなた『イール・ダール』ね!」


 嬉しそうにイブキはそう言ってマコトの小柄な身体を抱きしめた。突然の抱擁に マコトは驚いたが、その柔らかな身体は、確かに同じ女性のもので……ほっとした。 突然異世界に放り込まれ、周囲は異性だらけで。やはり緊張していた事に、 この時マコトは初めて気付いた。


「ね、名前は? あたしはイブキ。日本人よ」

「私も同じ日本人です。マコトと言います」


 マコト、と口の中で反芻して、イブキは身体を離し、マコトの頬に手を沿え微笑んだ。


「イブキさん。そんなにくっついてると、後でラーダにお仕置きされるよ。彼は?」


 苦笑しながらタイスィールが呟いた言葉を低い声が遮った。


「――ここにいる」


 草陰からがさりと音を立てて現れたのは、不機嫌そうな大柄の男だ。

この世界では初めて見る強面の顔に、マコトは少し身を縮ませる。 そんなマコトに気付いたのか、イブキは安心させる様に、マコトの手をぎゅっと握り締めた。


「大丈夫、顔は怖いけど優しい人だから」


 ぽそりと耳元で囁かれ、その声の優しさと手の暖かさに、マコトはそっと肩の力を抜く。


「久しぶりだな、タイスィール。……来るのが遅い」


 付け足すように言った男の言葉に、タイスィールは、くすりと小さく笑って彼 らしくなく素直に謝罪した。


「すまない。……本当に遅くなってしまった」


 先程の様な居心地の悪さはいつのまにか無くなっていた。

 三人の表情はそれぞれ穏やかだった。

 タイスィールのこんなくつろいだ表情は初めて見る。


 男が二人に女が一人――、先程から感じていたタイスィールの 変化の理由を何となくマコトは察した。


「ね。マコトちゃん、聞きたい事一杯あるでしょ?  とりあえずゲルに……じゃなくて、水浴びしましょう!」

「え……?」


 ――何故今、水浴びなのだろうか。確かに有難いが、 どうしてこのタイミングに。


(どうしよう……すっごい汗臭いとか思われてたら……)


 この二日の行動を思い出して、否定出来ない自分が悲しい。


「それはいいね」


 マコトの事情を知ってか知らずか、タイスィールもさらりと同意する。


「あたしこの世界に来た時、一週間もお風呂に入れなくて、 ほんっと困ったのよねぇ~。しかも周囲の男共は全く気が利かないし!」

「……悪かったな」

「別に責めてるんじゃないわよ。ね、ラーダ、気前よく結界張ってよ?」


 イブキは厚いラーダの胸にポンと拳をぶつけた。その手を上から握りこみ、ラーダは こくんと頷く。


「分かった」

「じゃ、あたし着替えとタオル取ってくるわね!」


(元気な人だなぁ……)

 そう言うなり、飛ぶ様にゲルに入っていたイブキを見てマコトは苦笑する。


「相変わらずだねぇ、イブキさんは」


 くすくす小さく笑うタイスィールの目は、懐かしそうに眇められている。それを受けてラーダは 困ったように眉を寄せた。


「いつまで経っても落ち着きが出ない」

「そんな所も可愛いと思ってるくせに」

「……っば」


 タイスィールの揶揄に、ラーダの顔にさっと朱が走る。

 ふふっと人を食った笑みを浮かべたタイスィールに、ラーダは顔を背け、 「お前も相変わらずだな」と眉を顰めた。


「お待たせ~! さ、マコトちゃん行きましょう!」

「え、あ、はい」


 ぐいっと強引に腕を引っ張られ、マコトは引きずられる様に少し離れた岩陰に連れてこられた。


「この辺一体宜しくね~!」


 イブキはそう叫び、ラーダに向かって大きく手を振る。すると、ラーダはオアシスの湖畔 にしゃがみ込み、大きな掌を湖面に向けた。呪文を唱えるとその手の平から淡い水色のドーム型の 空気の壁が生まれ、だんだん広がって行き、マコト達がいる岩陰もその周囲のオアシスもすっぽりと包み込んだ。


「この岩陰で着替えましょう。ラーダが結界張ってくれてるから、 この薄い水色の枠の中の景色は向こうから見えない様になってるの。 魚も毒虫も結界の外に追い出されてるから、気兼ねなく水浴び出来るわよ」


「凄い、ですね……」


 すぐ側にある水色の壁をまじまじと観察しながら、マコトはそう呟く。


「あ、内から触っちゃ駄目よ。害は無いけど消えちゃうから」


 触れようとしたマコトにイブキの声が飛ぶ。慌てて指を引っ込ませてイブキを振り返ると、 既に彼女は服を脱ぎ捨てていた。


「まぁこんな早い時間には来ないと思うけど、 患者さんが来る前に入っちゃいましょ」

「患者さん……あ、お医者さんされてる んですよね……」

「ええ。ホント何の因果かしらねぇ。一週間前に北の集落を出て、 昨日ここに到着した所なのよ」


 ふふ、と笑顔を浮かべてイブキはそう言っ た。医者である事を鼻に掛ける様子は無い。 気さくな人柄にマコトは一気に好感を持った。


『イブキ! 飛び込んだりするなよ!』


 突然聞こえたラーダの声に、マコトは一瞬ぎょっとする。 気付けば壁の向こうにタイスィールと共に立っていた。


「……っっ!」

 服を脱いでいたマコトは慌ててしゃがみ掛けたが、すぐに先程のイブキの言葉を思い出して動きを 止める。


「分かってるわよーぅ」


 イブキは子供の様に、ラーダに向かって舌を出す。が勿論、ラーダは気付く様子も無い。


(そうだ、見えないんだった……)


 しかし、それでもこちらからは見える訳で……何となく恥ずかしい。

 せめてもう少し離れてくれないだろうかと思っていると、 それを察したイブキが、二人に向かって怒鳴った。


「ちょっと! 気になるから二人共ゲルの方に行っててよ!」

「分かった……けど本当に気を付けろよ」


 ラーダは重ねて注意をしてから、タイスィールを伴ってその場から離れた。

 顔に似合わず心配性らしい。マコトはほっとし、躊躇いつつも服を脱ぎ、澄 んだオアシスに足を踏み入れた。


 水の中は透き通っていて、足元の苔まで見える。さ んさんと降り注ぐ強い日光のおかげで ほどよく暖められ、ちょうどいい温度だった。

 先に入っていたイブキが水を掻きながら近寄ってくる。


「ね、ね。マコトちゃんの伴侶ってやっぱりタイスィールなの?」


 にっこりと笑顔を浮かべて聞かれた言葉に、マコトはぶんぶんと首を振り、否定する。

 言うに事かいてタイスィールとは、――まずあり得ない。


 マコトはイブキの顔を見つめ、少し迷いつつ、小さな声で呟いた。


「呼び捨てでいいです。……あの、私まだ十四ですし……」


 マコトの言葉に、イブキは一瞬固まり、それから胡乱な目をして視線をずらした 。――胸元に。


「苦しいわよ。その胸で」

「……ですよね」


 にべもなく吐き出されたその言葉に、マコトはがっくりと肩を落とす。

 このやりとりだけでイブキはある程度 マコトの事情を察したらしい。問われるままに責められるのを覚悟で 初日の長老とのやりとりを語ると、イブキは責めるどころか、 面白そうに相槌を打って、「よくやったっ!」と感心する 素振りさえ見せた。


「気にする事ないわ。大体、初対面の男といきなり結婚しろ なんていう方が間違ってるのよ」


 イブキはそう言ってうんうんと自分の言葉に何度も頷く。

 気持ちを分かってくれた事が嬉しくて、マコトはほっとした様にイブキを見上 げ、表情を和らげた。


「まぁ、日本人で良かったわよね。東洋系の『イール・ダール』って珍しいみた いでさ、あたしも初めて年齢聞かれた時十六か、って聞かれて嬉しいどころかド ン引きだったわよ。その時、あたし二十六よ? かーっとなっちゃって、真っ正 直に自分の年齢言っちゃったもんだから、即効婚約者候補に引き合わせられてさ ぁ、散々だったわ」


 言葉の割に口調は、険しいものでは無い。どちらかと言うと懐かしむような口 調はとても楽しそうだ。


「その婚約者がラーダさん、ですか」

「そう、それと……まぁ、何となく気付いてると思うけど、タイスィールね」


 懐かしむ様な切なげなタイスィールの視線。やっぱりそんな事情があったのか 、とマコトは納得する。


「しかもタイスィールその時まだ十七だったのよ。淫行条例に引っかかるっつー の」


 一気に吐き出したイブキの言葉は、きっとこの世界で自分にしか分からないだろう。そんな事すら共有出来る事が嬉しい。からからと自分の言葉に笑ったイブ キに釣られてマコトも微笑む。


 イブキはパシャリ、と両手で水を掬ってゴシゴシと豪快に顔を洗った。

「……それにしても、『イール・ダール』が現れたならさっさと教えてくれれば いいのに。マコトはここに、いつ来たの?」


 イブキは頬を膨らませ、両手を合わせて水鉄砲を作った。 向こうの木陰で休んでいるタイスィールに向かって 水を掛ける振りをする。

 結界が消えたらどうしよう、とハラハラしながらも 素直に、三日前だと答える と、イブキは目を大きく見開いてマコトを凝視した。


「……は?」


 戸惑いをそのまま口にし、イブキは再び確認する。


「三日前って三日前?」

「え? ……はい」


 間違っているだろうか、とマコトは頭の中で数えてみる。間違いない。


「……もっと、取り乱してもいいと思うけど。あたしなんか最初の一週間夢だっ て言い張って次の週はひたすら泣いて暮らしたわよ? 開き直るまで一ヶ月は掛かったけど」


 容易に想像出来てしまい、マコトは込み上げる笑いを必死で噛み殺した。


「同じ事、違う人にも言われましたよ」

「え?」

「もともと向こうでも一人でしたし、心配するような家族 もいませんから大丈夫です」


 マコトがそう説明すると、イブキは何故か深刻そうに表情を曇らせた。


「――ねぇ、マコトちゃん」

「はい?」

「諦めちゃ駄目だからね」


 ここに来て初めてだと言う位真面目なイブキの顔に、 マコトはどうしたのかと首を傾げる。


「何をですか?」


 マコトの問いにイブキは答えない。


 暫く黙り込んでいたが、何か自分の中で納得した様に深く頷いてから、マコト に向かってぴしっと人差し指を立てた。


「あたしのモットーはね、強くしぶとく図太くよ」


 大真面目な顔で吐き出された言葉に、マコトはとうとう吹き出した。

 ああ、もうなんて。


「かっこよすぎです……っ」


 本当になんて素敵な人だろう。一緒にいる と楽しい。タイスィールがきっと――好き、になったのも分かる程、本当に魅力的な女性だった。


 イブキはふふん、と得意そうに鼻で笑って、くいっと顎を上げた。


「弟子にしてあげるから、見習いなさい」


そう言って胸を張ったイブキを見て、マコトは眩 しそうに目を細める。


「――幸せ、そうですね」


 自信に満ちた微笑を見てマコトは、無意識にそんな言葉を呟いていた。


「……マコト」


 イブキは柔らかな声でマコトの名を呼び、まるで母の様に優しく微笑むと 、濡れた手でマコトの髪を撫でた。


「そうね。とても幸せだわ。……それに子供も生まれるしね」


 付け足すように呟いた言葉にマコトは驚いて、イブキのお腹を見た。

 日焼けをしていない白い腹部に膨らみらしきものは見つからない。

 マコトの視線を追い、イブキは苦笑して顔の前で手を振った。


「まだ分からないわよ。こーんな小っちゃいんだから」


 指で小さなマルを作り、マコトの前に示す。


(ああ、だからラーダさん……)


 イブキに向かって何度も注意していたのか。奔放なイブキに心配になる気持ち も分かる。マコトはラーダに視線を向け、くすりと小さく笑う。強面で表情は変わらないが、 忙しなく動かしている靴の先が彼の苛立ちを示している。


「おめでとうございます」


 マコトがそう言うと、イブキは一瞬驚いた様に目を見開き、 それから照れくさそうに少し頬を染めて「有難う」と笑った。 柔らかなその微笑は確かに小さな命を抱く『母』のもので、 マコトは既にいない自分の母親の事を思い出した。


 ラーダとイブキ二人の馴れ初めを聞いて、 すっかり馴染んだ頃、イブキが布で身体を擦りながら何気なく呟いた。


「まぁ、不便だけどさほど悪い世界では無いわよ。好きな人に出逢って結婚して…… 今でこそ落ち着いてるけど、まぁでも、……色々疑ったりしたんだけどね、本当 にラーダは純粋に自分の事が好きなのかって……」


「どうしてですか?」

 マコトの問いにイブキは怪訝そうに眉を寄せた。


「――え。だって……」


 一瞬会話が途切れる。しかし、すぐにイブキは笑顔を浮かべ首を振った。


「……ううん。ほら、愛情を疑いたくなる時ってあるじゃない?」


 何となく言い淀んだ言葉の先に、何かがある事にマコトは気付いた。

 けれどきっとここは聞き流した方がいいのだろうと、マコトはイブキの言葉に 頷いて見せた。

 それからマコトは考えてきたありとあらゆる質問をした。例えば、切実な話、 生理の時はどうすればいいか、水はどこで手に入るのか、戸惑うような生活習慣 はあるか――思いつく限りの質問をし、その度にイブキは嫌な顔せず丁寧に答えてくれた。





* * *





 マコトはラーダと共に、昼食の仕度に取り 掛かっている。

 控えめな性格であろうマコトにしては珍しく、 手伝いたい、と言って譲らなかったのだ。

 からきし料理の才能が無い―ラーダに材料の無駄にしかならないとまで言わし めたイブキは、タイスィールと近くの岩場でその様子を見守っていた。


 マコトの包丁を持つ手付きは、なかなか堂に入ったもので、次々と野菜を切り 刻んでいく。時々、笑顔が浮かぶのが遠目にも 分かった。ラーダにも少しは慣れた様だ。


 最初に顔を合わせた時の妙な遠慮も消え、昔の様に雑談も織り交ぜて、ここ十年の お互いの近況を報告しあい、そしてラーダの愚痴をこぼし終わった所で、イブキ はようやく話を切り出した。



「――ねぇ、オアシスの事あの子に言ってないの?」


 イブキの問いは予想済みだったらしい。タイスィールは、静かに頷いて肯定し た。


「どうして? いつまでも隠しておける事じゃない。早く言わないと絶対に傷つ くわよ。あたしだって散々その事でラーダと揉めたの知ってるでしょ」


 眉を顰めたイブキにタイスィールは淡々と答えた。


「長老の命令です。十年前の悲劇を繰り返さない様にと」

「それはそれは立派な大義名分ね。根本的な解決策になってないって事、どうして気付かないのかしら」


 イブキは忌々しく吐き捨てて、表情を歪め、そして地平線に視線を向けた。


「……あの子が亡くなって――もう十年ね」


 今も夢に見る事がある。

 自分よりも十歳も下の、屈託の無い笑顔が可愛かった無垢な少女。

 自分より三ヶ月後に現れた彼女を、イブキは妹の様に可愛がっていた。


 十年前の悲劇。女神の怒り。想いを貫きたいと思っ た彼女はその純粋さ故に命を落とした。


(カナ……)


 一途過ぎる想いは世界を壊す――西の長老の言葉だった。

 師匠と慕った老人にも十年会っていない。まだ許してはいない。 ……あの老人は自分の様な小娘の許しなど欲しくは無いだろうが。



 無意識に噛み締めていた唇を開き、イブキは心を落ち着かせるように数回自分の腹部を撫でた。

 そしてぽつりと呟く。


「――世界は『イール』に許されたのかしら」


 タイスィールは静かに目を閉じ、ほんの少しだけ過 去を振り返ると、静かに頷いた。


「……そうなのでしょうね」


 タイスィールが浮かべた複雑な表情に、イブキは 、彼もまた忘れていないのだ、と安堵する。


 許されたからこそ、先の『イール・ダール』であるイ ブキは子を身篭り、新しい『イール・ダール』は砂漠の命とも言われるオアシスを伴い現れた。

 世界を慈しみ大地を潤わせ子孫を残す為に。


 それは歓迎すべき事だが、許されてしまえば、彼 女の存在が世の中から忘れられてしまいそうで――最初、イブキは妊娠を素直に喜んでいいものか分からなかっ た。

 だから……何も知らないマコトがくれた祝いの言葉が、とても 嬉しかった。


「っひゃああっ!」


 少し離れた場所から、妙に間の抜けたマコトの悲鳴が上がった。

 どうやら火の勢いに驚いたらしい。派手に上がった炎に恐々近づくマ コトの姿は、まるで野生動物の様だった。


「……っく」

「あははっ」


 その様子を見ていた二人が同じタイミングで噴出す。いつのまにか殺伐とした雰囲気が消え失せていた。


「――ホント可愛いわねぇ」

「ええ。とても」


 にっこりと笑ってそう答えたタイスィールに、イブキはにやっと笑って片眉を吊り上げた。


「……花嫁にしたい?」

「まさか、子供ですよ?」


 タイスィールの言葉に、イブキは数回目を瞬かせた。


(……もしかして、気付いてないの!?)


 他の誰も気付かなくとも、勘の鋭いタイスィールなら絶対に気付いていると思い込んでいた。

 彼のマコトに対する態度は子供というよりは、女性に対するものだ。からかっている時の 楽しそうな表情に本人が気付いていないのだろうか。

 眉を顰めてイブキは、まだマコトを見つめているタイスィールを注意深く観察する。その表情は柔らかく 楽しそうに見える。


(ははぁ……)


 心の中だけでそう呟き、イブキは口角を上げる。

 天邪鬼な所は、十年前と変わらない様だ。


『さようなら。貴女を諦める事が出来たら会いに来ます』

 今よりも幼い顔をしたタイスィールの泣きそうに歪んだ顔が、イブキの脳裏に蘇る。

 十年前に交わした約束。もしかしたら本人も覚えていないかもしれない。

 けれど、再び出会えた事が、嬉しかった。


(マコトのおかげよね、タイスィールが会いに来てくれたのって)


「……相変わらずね。キミは」


 イブキがかつてと同じ口調でそう呟くと、タイスィールは、おや、と 片眉を吊り上げ小さく笑った。


「同じ言葉をラーダにも言われましたよ」


 ああ、本当に久しぶりだ。いつかも繰り返したやりとりを懐かしみながら、 イブキは優しい母のような暖かな眼差しでマコトを見つめ、ぽつりと呟いた。


「まぁいいわ。……じゃあ『保護者』としてあの子を見守って あげてね。多分……今、あの子に必要なのは、伴侶じゃなくて」


 水浴びしている時に感じた頑なさ。まるで他人事の 様に淡々と自分の過去を話すマコトの表情は、 少女と言うよりは、全てを諦観した様な老人を思わせた。

 人当たりも良く、聞き上手で何より優しい。――けれど、 他人との間に壁を作っている様に思えた。気付けないほどとても巧妙に。


 きっと向こうの世界で誰も頼る事無く一人で生きていたのだろう。心の奥底を 覗き込まれる事を恐れ、深入りしない。傷つく事も失う事も 恐ろしいのだ。

 出来ればその壁を取り払ってやりたいと思った。

 寂しそうなその瞳は、かつての自分と一緒だったから。


 自分の存在を必要以上に軽いと、思い込んでいる。突き詰めれば、 身寄りも無く誰にも必要とされない自分など『どうでもいい』存在だと、本人が心のどこかで思っているのだ。

だからこそ異世界に来ても必要以上に取り乱さず、足掻いても無駄だとすぐに諦める。

例え、自分が消えても、誰も困る事は無く、世界は何一つ変わらないと思っているからだ。

イブキはタイスィールに近い内に遊びに行く約束をとりつけた。


 マコトの今の笑顔は、どこかカナの最後の顔と被る。後悔は二度としたくなかった。






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