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第九十七話 笑顔


 薄い寝着はやすやすと手の侵入を許し、剥き出しの膝に置かれ、その上へと這い上がっていく。


「やめ、て……っ」


 くぐもった叫び声を上げたマコトに、サーディンは口を覆っていた手を外した。

 代わりに押し付けられたのは、少し乾いた薄い唇。

 噛み付く様に唇を吸われ、驚きに微かに開いた歯をこじ開け、舌が入ってくる。


(嫌、いや……っ)


 後ろに逃げるマコトの頭をサーディンの手が抱え、口付けを深くする。

 舌の付け根をぬくぬくと擦られて、気持ち悪さと奇妙な感覚がマコトを襲った。吐息すら吐く事も許されず、頭の中が酸欠で白く霞む。苦しい、と思ったその時に、ちゅっと軽い音を立てサーディンはマコトの唇を開放した。


「……ああ、マコトは首と耳がイイんだったね」


 どこか嘲る様な、冷たい声音。

 頭の後ろの手がそのまま降りて行き、うなじを指先が撫でた。


「……ッ、ゃぁ……」


 その衝撃に大きく仰け反ったマコトを支える様に上半身を抱き込んだサーディンは、そのまま首筋に顔を埋め鎖骨に軽く歯を立てた。


「い……っ」

「大丈夫、慣れたら気持ちイイよ……」


 低い掠れた声は、普段のサーディンの口調からかけ離れ、見知らぬ人物の様に酷く男性的に聞こえてマコトを余計に混乱させた。サーディンは自分が付けた跡を見下ろし、満足気に笑って舌で撫で始める。くすぐったさとぴりぴりとした痛みが交じり合い、自然と高い声が漏れた。


 しばらくそれを繰り返して力の抜けたマコトに満足したのか、サーディンの唇が首筋から喉を這い、それから少し逸れて耳に辿りつく。


「っや、本当にやめ……っふ……っ」


 耳朶をしゃぶられ、首筋を執拗になぞられる。

 以前の行為を彷彿とさせたそれに、閉じた瞼の裏でサハルの顔が浮かんで。


「ねぇ……、マコト、サハルはどんな風だった?」


 マコトの心を読んだ様にサーディンは、くっと口角を持ち上げ、耳の裏に唇を付けたままそう尋ねてくる。


「サ、ーディンさんはサーディンさんで、サハルさんはサハルさんです」


(……誰か……)


 助けて欲しい、自分を――サーディンを。


 声を出した事で、ひくっと喉が嫌な風に鳴った。

 視界が歪んで、世界が滲む。


 ――ごめん、なさい。


 彼に対する言葉は、謝罪しか思い付かない。本当は、もっと違う事を伝えなければいけないのに。


 頬に触れていたサーディンの手が、ふっと止まった。ゆっくりと顔を上げたサーディンの青い瞳が、不思議な色を伴い、ゆらゆらと揺れる。じっと見つめられ、涙が伝った頬を撫で目尻にたまったそれを親指で拭った所で、サーディンは笑った――いや、笑おうとして、失敗した様な中途半端な表情を見せた。


「サーディン、さん」


 動きを止め、明らかに様子のおかしいサーディンに、呼び掛ける。


 その視線から逃れる様にサーディンは身体をずらしマコトの胸に顔を埋めた。そして同時に腰に両手を回し、ぎゅっとしがみついた。彷徨うように両手が背中を滑る。



「……かないで」


 ぽつりと呟かれた声に、マコトは違和感を覚える。


『泣いてる顔が一番可愛いねぇ……』


 確か、彼は最初に会ったあの日に、そう言った。その言葉を証明する様な行動も確かに見られた。


「泣くなったら……っ! ……そんな顔しないでよ、もっと、ちゃんと……っ」


 胸の上、縋る様に、いやきっと縋っている。子が母親を求めるような切実さと必死さで、そう叫ぶサーディンの方が今にも泣きそうに歪んでいる。



「……笑って……?」


 お手本を見せる様に、へら、とサーディンは笑って見せる。

 けれど、小刻みに震える唇と、濡れた目がそれを完全に嘘にした。


 抱き締めたい、と思ったのは同情だったのかもしれない。

 けれど、それをすればきっと彼を受け入れた事になる。



 謝罪、と、自分が、彼に贈れるのは。



「……私、サハルさんが好きなんです」


 告白と。


「……でも、最初にサーディンさんに好きって、オアシスなんて関係ないって言って貰った時、どこか……ううん、やっぱり、嬉しかったんです。『わたし』を、一人でも必要としてくれる人がいることが。……だから、有難うございます」


 サハルに向けるものとは違う、けれど、精一杯の感謝を。


 サーディンがくれた猫のつがいを思い出す。あれだってサーディンの想いの形。


 有難う。あんな風に寄り添うことは出来なかったけれど。


 こんな自分を好きになってくれて、有難う。


 サーディンが起こした賑やかな騒動の数々は、恐らく自分がこの世界に慣れる為には必要だったもので。



 しん、と静まり返ったゲルの中、サーディンは顔を伏せたままマコトにしがみついていた。短い様にも長い様にも思える時間の後、口を開いたのは、サーディンだった。


「……マコト」


 そっと顔を上げたサーディンの目元は赤い。

 背中に回した手をほどき、上半身を起こすと、そのまま勢いよく立ち上がった。


「……あーあ」


 掠れた声が放たれて、長い前髪がかきあげられる。

 見上げているマコトをそのままにサーディンは両開きの窓を開けた。


 いつの間にか日は沈み掛けている。砂の大地にもうすぐ沈む。溶け合い溺れるその一時に世界を染め上げる赤い光は太陽の血なのかもしれない。


 湿っていたゲルの中に砂混じりの風が吹き込み、サーディンの髪を撫でる様に浚った。口の中で、何か呟いたと同時にサーディンが窓の外に手をつきだす。青い光は鳥が羽ばたく様な音をさせ、遠ざかっていった。


「今の、は……?」

「迎え呼んだよ。本当は、一日掛かるけどサハルなら半日で来るんじゃない?」


 ――迎え?


 それは自分を帰してくれると言う事だろうか。では、サーディンは。


「い、一緒に帰らないんですか」

「……本当に馬鹿だなぁ、マコトは」


 何に対してなのか、サーディンは目を眇めて苦笑した。子供を嗜める様な表情は、今までのサーディンから想像出来ない程大人びている。


 部屋を横切り、扉を開け放つ。光が四角く切り取られ、マコトはその眩しさに目を瞑った。


「……君の、泣き顔好きだったんだけど、そうじゃないみたいだ」


 錆びた蝶番が泣き声の様に、甲高い音を立てた。

 赤い光が燃える様に彼の身体を包み込んでいた。振り返ったその表情も輪郭すら分からない。


「サーディンさん……!」


 一緒に帰ろう。

 一緒に謝れば、きっと。




「――……から、マコトは笑ってて」


 低くくぐもった声は、ちゃんと聞き取る事はできない。




「じゃあ、またね」




 けれど別れの挨拶だけがはっきりとマコトに耳に届き、錆びた音を立てて扉は閉まった。




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