第九十六話 流転 4
微妙な無理槍要素注意
甘い匂い。
どこかで嗅いだ事のある、それに鼻を動かしながら、マコトはゆっくり瞼を押し上げた。視界いっばいに映ったのは、鮮やかな砂漠の蒼い空。しかし本物とは違う表情の……濃淡の無さに違和感を覚え、マコトは勢いよく身体を起こした。
ここは。
視界が霞がかった様にぼやけ、目を凝らして周囲を見渡そうとすれば、鈍い痛みが頭全体に広がった。
こめかみを指で抑えそれをやり過ごし、再び顔を上げたマコトは、大きく目を見開いた。
「……え……?」
戸惑いが唇から溢れ落ちる。
そこは、数ヵ月前、ただ一度だけ訪れた部屋――いや、ゲルの中だった。
たくさんの木のおもちゃ。
色とりどりのクッション。
素朴で味のある顔をした人形は、どこか持ち主に似ている――確か、そう思ったのを覚えている。
「ああ、やっと起きた」
真横から声が掛かって、マコトは、ぎくりと身体を強張らせた後、ぎこちなくその声に身体を向けた。
「サーディン、さん」
一番太い柱に立って、じっとマコトを見下ろしていたサーディンは、ふと、視線を外し指先から、摘まんでいた赤く小さなガラス玉を落とした。細長い筒に落ちたガラス玉は、カタカタと軽い音を立てて階段を走り、滑り台へと落ちていき、やがて黒い穴へと吸い込まれていった。
釣られる様に赤いガラス玉を追っていたマコトは、はっと我に返り、サーディンに視線を戻す。同じように転がしたビー玉を追っていたサーディンの横顔に表情は無く、昨日の賑やかさが嘘の様に彼はただ静かだった。別人の様な態度に違和感と居心地の悪さを感じ、知らず知らずの内に口の中に溜まっていた唾を飲み込む。
(なんで……ここは……集落、よね?)
ぼんやりとした頭の中で、意識が途切れる前の記憶を浚い、マコトは眉を顰める。
寝室で、音が――虫の声が大きくて、窓に近寄った……それで。それで――?
最後に見たのは、青い影。それは目の前の、サーディンの髪によく似た。
「サーディンさん……あの、ここ前いた集落ですよね? どうして……」
見渡す限りどれも確かに一度見たものだ。ぬいぐるみもクッションも、目の前にあるビー玉を転がす木のおもちゃは、長い間見ていたので間違いない。
(……寝てる間に運ばれた、って事?)
そう心の中で呟き、確信する。
「うん、ここ、マコトが最初に生活してたとこだよ。案外穴場かなぁって思って」
にっこり笑って、サーディンはゆっくりと戸惑うマコトに歩み寄る。そしてその場にしゃがみ込むと、両足の間に両手を突っ込んで、マコトを見た。
「どうして、ですか」
恐らくサーディンは何らかの方法で、……もしかすると以前サラに使った睡眠薬かもしれない。
再び同じ言葉を繰り返したマコトに、サーディンは、答えなかった。無言のまま、寝起きで乱れたマコトの髪に指を差し入れ手櫛で梳いている。やはりその顔に表情らしいものは無い。
(駄目、だ……)
このままではいけない。
ここまでサーディンを追い詰めたのは間違いなく自分で。
『イール・ダール』を攫って、無事で済む訳が無いのは、ラナディアの件で十二分に分かっている。
「サーディン、さん。……一緒に、帰りましょう」
どれだけの時間が立ったのか分からないが、窓の隙間から差し込まれた光は既に明るく鳥の声がする。恐らく次の日の朝だ。……まだ今ならサーディンもまだ軽い注意だけで済むかもしれない。自分が外に出たい、と頼んだのだと言えば、見逃して貰えるだろうか。
だから。
「サーディンさん、早く……っ」
「やだ」
サーディンはそう呟いて、その細い指先で、マコトの顎をくい、と持ち上げた。濁りの無い綺麗なサーディンの瞳には、戸惑うマコトの顔しか映っておらず、それ以外は深く底が見えない。長い間見つめられれば吸い込まれてしまいそうなその瞳がどこか怖かった。
「……だって、あのままじゃサハルにかっさらわれちゃうし」
それが、先の問いの答えだと分かるまでに、時間を要した。
じっと見つめられ、サーディンの瞳に移る自分の顔は困惑している。……やっぱり、そうなのだ。サーディンは本気だったのだ。
「ねぇ、マコト」
掬い上げた髪の向こうで、サーディンが囁く。ふと、指先が首筋に触れた。
サーディンの指から逃れる様に、マコトは布に置かれた手を動かし、後ろに後ずさる。しかし狭いゲルの中では、すぐに背中が柱にぶつかった。手の平で遊んでいた髪が溢れ落ちて行くのを見つめていたサーディンは小さく笑って、獲物を吟味する豹の様な動きで両手をマコトの身体の両側に置いて跨いだ。マコトに胸元に擦り寄り下から顔を覗き込む。
「これ」
ふわり、とサーディンの手が再び伸びて、首に触れた。ちりっとした鋭い痛みが触れられた場所に走る。 どんな手段を使ったのか、白い包帯がするすると解けていき、マコトの膝に歪な弧を描き落ちていった。
サーディンが噛み付いた場所――恐らくはくっきりと跡が残った歯形を、指先でそっと辿ったサーディンは、 うっすらと目を眇めて薄い唇を開いた。
「ああ、跡残っちゃってる……痛いよね」
返事に困ってマコトはサーディンを見つめる。痛かったのは、痛かった。けれどサーディンを傷付けた自分が サーディンを責める資格が無い気がした。
「っあ……ッ」
身を屈ませたサーディンがマコトの肩を掴み、顔を埋める。噛まれたその場所にねっとりした生暖かいものが這う。血の滲んだ皮膚が一層強くぴりぴりと痛み、マコトはぐっとサーディンの肩を押した。
「苦いよ」
顔を上げたサーディンは、眉間に皺を寄せ、マコトに見せる様に長い舌を出す。
おそらくそれはナスルが付けてくれた消毒液の味に違いないが、何故、サーディンはこんな事をするのか。
「ねぇここで一緒に暮らそ? とりあえず必要な食料も持って来たし、 三日後には近くのオアシスで市も出るから、足りなかったらまた買い足せばいい」
顎を擽り、サーディンはそれまでの冷たさが嘘の様に、酷く楽しそうに笑った。
ゲルの隅には確かに、以前見なかった大きな麻の袋が二つ。少し開いたままの口から、服だろうか、愛らしい赤色の布が見えた。その横の籠には銀食器や木のスプーン。食器には小さな人形がついていて、それはどれも色違いで二つずつ綺麗に並べてあった。まるでおままごとの様に、酷く現実味が無いそれらからマコトは目を逸らす。――胸が、痛かった。
向けられた好意に同じものは返せない。
だからこそ二人で暮らす事も、出来ない。
「サーディンさん。私は」
先伸ばしにしていた答え。
気持ちには応えられない、と。言い掛けたマコトの口をサーディンが手で覆った。その向こう側で、サーディンはくしゃりと顔を歪める。
泣かないで、と言い掛けた言葉は音にもならなかった。
「――マコト。僕を選んでよ。サハルじゃなくて僕のお嫁さんになって」
縋る様な掠れた声は、マコトの胸をきつく締め付ける。
「ねぇ、僕とサハルの何が違う。顔? セーカク? お金は僕の方が持ってるし」
唇を覆う手が微かに震えていた。
「マコトが望むなら何でも叶えてあげる。真面目に働いてもいいし、もういたずらもしない。いくらでも――だから側にいて……?」
懇願するような響きに、マコトはぐっと唇を噛み締めた。そして、口を塞がれているせいで音にならない言葉を口の中で、繰り返す。――ごめんなさい、ごめんなさい。首を振り続けるマコトに、サーディンはきゅっと眉間に皺を寄せ俯いた。
絨毯に置いた手に上から同じものが押し付けられる。
指の間を滑り込み、緩やかに拘束される。
「それとも、そんなにサハルが良かったの……?」
熱い息が首筋から鎖骨を撫でる。
何を言っているのか。頭が理解する前にその近すぎる距離と捲れ上がった寝着に忍び込んだ手の平の熱さに身体が、理解した。
「……っやめ……っ」
「忘れさせてあげる」
唇が耳朶を這うように動き、囁きと共に熱い息を吹き込まれた。




