第九十四話 父
意外な程早く再会は叶い、その日の内に再びナスルが伝言を携え部屋にやって来た。
王が指定した時間は、その日の夜――いつもなら既に眠っている時間だ。それでも出来うる限り仕事を詰めて時間を作ったのだろうと予想は付いたが、マコトは敢えて何も言わなかった。
サラも着いて行きたがったが、人数が多いと目立つと言う事で、ナスルに却下された。
正式な手段に乗っ取って面会を取り付ければ時間が掛かり、また王と『イール・ダール』が仲良くするのは歓迎されない以上仕方の無い事だった。
人目を避けねばならない窮屈さに、マコトは胸に溜まった空気を吐き出し、先に自分の部屋に戻って休んでいて欲しい、と渋るサラにマコトも言葉を添え説得した。
……王との面会の後に、塞ぎ込むような事があったら、きっとサラは心配するだろう。サラは物言いた気な顔をしつつも、素直に頷いてくれほっと胸を撫で下ろした。
久し振りに湯浴みを済ませた後、時間通りにナスルが迎えにやって来た。
マコトは予め用意していた手帳を机からスカートのポケットに忍ばせる。イブキから返して貰ったその中には、母の写真があり、王に打ち明けるのならばきっと大事な証拠になるだろう。
サラは、きちんとお守りして下さいね、と、しつこい程ナスルに念を押し、マコトとナスルを不安そうに見送った。
* * *
案内されたのは、王と初めて会った、三度目となる、東屋だった。
前回と違い王の姿は無く、マコトは入り口の縁に手を置き、もしかして母も触れたのかもしれない、と、白い石が積み上げられた柱を感慨深く撫でる。
「……中にお入りになってお待ち下さい」
どうやらマコトの気が済むまで待っていてくれたらしいナスルが、少しの躊躇を見せて口を開く。 そっと柱から手を離したマコトに、ナスルは東屋の中へと促した。
「もう暫くお待ち下さい。冷えますからこれを」
手にしていた布を膝にそっと乗せられて、その甲斐甲斐しさに少し面食らう。
「――失礼しました」
マコトの微妙な表情に気付いたのか、ナスルは一瞬動きを止め、頭を下げた。
しかしすぐに、身体を返し東屋から出て行く。
(ナスルさんて……そっか、元々王様に付いてるんだもんね)
守る様に出入り口に立ったナスルの後ろ姿をそっと伺う。
気が利いていて当然なのかもしれない。サラも、マコトが肌寒い、と思う前にそっと上着を掛けてくれたり、マコトが不便を 感じないように常に先回りして用意を整えてくれるのだ。
(あ、でもそういうお世話するのは女官の仕事かな?)
そう思うとやはりこれは自発的なナスルの好意なのだと思う。そんなナスルの気遣いが自分にも向けられたのかと思うと、重く沈んだ気持ちが少し軽くなった気がした。
暫くして護衛一人を連れた王が現れ、ナスルは東屋の出入り口で膝を付き頭を垂れる。マコトは少し迷って立ち上がるだけに留めた。『イール・ダール』なのだから、頭を下げる必要は無い、と言われた事を思い出したからだ。
「突然、お呼び立てして申し訳ありません」
微かな緊張を感じながら、静かに東屋に足を踏み入れた王に向かって、マコトは軽く頭を下げる。
「いや、私こそこんな時間になってすまない。特に急いでるとも聞かなかったのだが、少しでも早く元気な顔を見たくてな」
穏やかに微笑み、以前と同じ――マコトから一人分離れた場所に腰を下ろす王。
ラナディアの事は王にも多大な影響をもたらしたのだろう。少し痩せたのか、以前と比べ頬がこけ、少し疲れているように見えた。それでも繊細な顔立ちは威厳と気品を失う事なくそこに存在はする。やはり彼は王で、――自分の父親とは思えそうにない、と改めて思った。
「見舞いの品は、気に入って貰えただろうか」
「…はい。綺麗な布ですね。有難うございました」
突然話題を振られて、マコトは曖昧に頷く。王はそんなマコトに苦笑した。
「次はきちんと好みを聞く事にしよう」
気に入らなかった、と思われたらしい事に、マコトは慌てて言い訳しようとして――止めた。何だかそれに対して言葉を重ねるのが、――いや、本来の目的から外れる会話が酷く億劫だった。
傷の具合を尋ねられ、マコトは、もう痛みは無く傷跡もうっすらとしか残っていない、と答える。そうか、 とほっとしたように頷いた王は、微かに表情を引き締めマコトを見つめた。
「私に話があると聞いたが何だろう。ラナディアの事なら元々私の事情でそなたは巻き込まれただけだ。申し訳ないと思っている。私に出来る事なら何でもしよう」
……そうか、この状況で呼び出せば、ラナディアの事だと思うのが当然だ。
今更ながらそう思い、マコトは静かに首を振った。
「いえ……ラナディア様の事はもういいんです。他に聞きたい事があって」
ラナディアに関しては、もう既にマコトの中で、決着が着いている。
刺されて命が危なかったとは言え、マコトは、今、生きている。
それに長老に生い立ちを聞いた事で、彼女を許せないとか責めようとか、そんな気持ちになれなかった。……だってあの人は、もう一人の自分だったかもしれないのだから。
マコトの言葉に王は意外とばかりに、片眉を上げた。
「では、他に?」
「王様は……前の『イール・ダール』の事が好きだったんですか」
単刀直入にマコトは聞いた。
王にしてみれば『イール・ダール』とは言え、無関係な小娘に聞かせたくはない話だろう。不機嫌になって罵られて終わるのも良い、と心のどこかでは思っていた。――なら、やはり冷たい人だったのだ、と思う事が出来るから。
「ああ……誰かから事情を聞いたのか」
しかし王は予想を裏切り、納得した様に頷いた。
「そうだな。君にはその資格がある」
素直にそう言った王は、視線を正面に向け、合わせた拳を机の上に置いた。
「『イール・ダール』はどこまで聞いたのだろうか」
王に確かめられ、マコトは静かに答えた。
「経緯と事情は多分、全部知ってます。ただ王様の気持ちが知りたいんです」
なぜ、と王は思ったのだろう。
微かに目を瞬き、マコトの真意を探る様に漆黒の、同じ瞳がマコトを射抜く。
黙り込んだマコトはただ黙って王を見つめる。こうやって正面からしっかり見るのは初めてだった。母はこの人の何を愛したのだろう。
ややあって、王はおもむろに身体の力を抜いた。
そしてゆっくりと口を開く。
「……前の『イール・ダール』はカナと言う名前だった」
初めて母の名前が出た事に、マコトは複雑な思いで頷く。
王の目が昔を懐かしむように眇められ――前に、見たものと同じだと感じた。やはりこの東屋の上で星を見たのは母に違いないのだろう。
「いつも明るくて私やザキをよく笑わせてくれた。大地を明るく照らす満ちた月の様な少女だった」
膝の上で握り込まれた拳、夢の中を彷徨う様などこか危うい視線の先には、恐らく母がいる。
「……好きだったんですか」
気付けば、そう問い掛けていた。
母は――きっと彼を愛していた。そうでもない限り、オアシスに飛び込んでまで彼の子供を助けようとはしない。
「ああ、愛していた。今も愛している。けれど私は過ちを犯したのだ」
それは、母を受け入れた事を言うのだろうか。
確かに王が拒絶すれば、母は自分を身籠る事無く、スェの花嫁として、いずれはこの世界に馴染み暮らしていたかもしれない。
「結果的には私がカナを殺した様なものだ。……腹の子もな。今でも夢に見る。赤ん坊を抱いたカナが私を責める」
「……王様」
小刻みに震える指に、マコトは手を伸ばそうとして、そんな自分を叱咤する様に拳を握り締めた。
「しかし、私はそれでも嬉しいのだ。カナに会えるのだから」
ぼつりと呟いたその内容は、マコトにとっては痛くて苦かった。
ナスルが王の事を強くて弱い、と言っていた意味をようやく理解した気がして、重くなっていく肺の空気を吐き出す。
夢での逢瀬、目が覚めた時の罪悪感と虚無感すら、彼は、母の欠片として大事に抱えている。それは幸せとはほど遠く、悲しい。だからこそなのか、王には現実離れしたどこか希薄な雰囲気がある。
……恐らく、スェの言った通り、王は真実を伝えても、マコトを排除しようとはしないだろう。けれど、実際母親は既に亡くなっており、真実を伝える事で新たな落胆を生むかもしれない。
東屋の出入り口に視線を向けると、少し離れた場所で乞い願う様なナスルの瞳とぶつかり、マコトは膝に置いた手をまた強く握り込んだ。
「カナ……は、あの時、死んだんじゃなくて、元の世界に還ったんです」
掠れた自分の声は、結界の中の音の無い世界の中で、よく響いた。
「何を……?」
言葉を浚うように時間を置いた王は、戸惑った様にマコトを見る。
マコトはポケットに忍ばせた手帳を取り出すと、中に挟んでいた写真を抜き取り、王の前へと差し出した。
「半年前、亡くなった私の母の写真です」
長い袂がふわりと揺れて写真を受け取る。
その数秒後に、伏せられた長い睫毛の下の目が大きく見開かれた。その指先は、青白く小刻みに揺れ始める。
「これ、は……」
写真から一度も目を離さず、王は掠れた呻き声を漏らした。
「……カナさんで、間違いないですか」
マコトがそう尋ねると、王ははっとした様に顔を上げ、マコトを凝視した。
「母……では君は……、」
王はそれきり言葉を忘れた様に黙り込んだ。
「確たる証拠は無いんです。私は本当は十八歳で……計算が間違ってなければ、その時の子供なのだと思います」
続く沈黙が耐え難くて、マコトは迷ってわざとあやふやな言い方をした。
王の黒い目が自分と写真の中の母を見比べる視線は痛いほど熱い。
身を投げたと思われたカナは生きていて、子供を産んだ――十年間罪の意識を抱え続けた王にとって、その事実は信じがたいものなのだろう。
証拠はこの写真と、あと一つ。
しかしこれで信じなければ、もう自分には証明する手立てはなく、ナスルを落胆させてしまうかもしれない。
「私の名前をご存知ですか」
視線を王の手元に置いたままマコトは静かに告げる。
確か、謁見の時に名前を呼び上げられた筈だが、たった一度の事だ。普段王は自分の事を『イール・ダール』と呼んでいるし、忘れているかもしれない、と思った。しかし、王は意外にも少し考えるような素振を見せた後、マコトの名前をきちんと口にした。
「マコトだったか……」
そういえば初めてきちんと名前を呼ばれた、と思いながら、マコトは静かに頷いた。
「お母さんが、言ってました。お父さんから貰ったのよって」
それはマコトすらもすっかり忘れていた思い出の欠片。
母が父親の事を自分から話すのは珍しかった。それでも心の奥で覚えていたからこそ、あんな風に夢に出てきたのだろう。
もしくは、母が見せてくれた記憶なのかもしれない。この日の邂逅の為に。
ぽつりと吐き出したマコトの言葉に、王の顔が歪んだ。
マコトから顔を背け、懺悔する様に空を仰ぎ目を覆う。
微かな嗚咽が、零れ落ちて狭い東屋に響く。
「カナが……、言っていた。貴方から貰うものは、ただ一つ。――もう決めているのだ、と」
途切れ途切れの掠れた声で、王はそう呟く。
声を殺して泣く男の人を、マコトは初めて見た。慰めなければ、声を掛けなければいけないのかもしれない。けれど身体は動いてはくれなくて、マコトは黙ったまま、王が落ち着くのを待った。膝の上にある写真には、男の人にしては白く華奢な手が置かれ、その下の母親は永遠に変わらない笑みを浮かべて、そんな王を――見つめている様に見えた。
「生まれて来てくれて……ここに来てくれて有難う」
不意に、王の囁きに近い掠れた声が、マコトの耳にも届いた。
王に否定されなかった事に、ほっと胸を撫で下ろす自分を、もう一人の冷めた自分が見ている様だった。感情が凍りついている様に動かない。
「これもまた女神の導き、だろうか。カナの後の……次の『イール・ダール』は、君で無くてはいけなかったのかもしれない」
少し落ち着いたらしい王は、独り言の様にそう呟くと、目元を赤くさせたままマコトに遠慮がちに問い掛けた。
「カナは亡くなったのだな……?」
「はい。半年前に、病気で」
マコトはわざと写真を出す時に『亡くなった母』と説明した。それを覚えていたらしい王は、マコトの返事を聞くとまた黙り込んだ。
そして膝元の写真を、悲しそうにけれど口元は微かな微笑を称えて、指先でそっと撫でる。その不思議な表情に違和感を感じたマコトが首を傾げる前に、王は、また問いを口にする。
「……カナは幸せだっただろうか」
『お母さんは、マコトを生めて幸せだったわ』
母の最後の言葉が蘇る。
本当に幸せ? それまであんなに苦しんでいたのに?
「……分かりません」
自然と俯いたのは、確かな後ろめたさがあったからだ。王は眉間の皺を寄せ、マコトを疑う事無く、「そうか」と頷く。
それからはまた問われるままに答えた。
戸惑う様な質問は無く、どんな様子で暮らしてきたか。何をして来たのか。どんな病気だったのか。
思い出を紐解き語るのは何も辛いばかりでは無い事に、時間の流れを感じそっと息を吐く。
「王、そろそろ戻った方がよろしいのでは」
遠慮がちなナスルの声が掛かり、王は月を見上げ、名残惜し気にマコトを見た。そしてずっと手にしていた写真を、そっとマコトに手渡す。
「……床から上がったばかりだと言うのに引き止めてすまなかった」
「いえ」
落ちた声音にマコトは首を振る。
ナスルに部屋までお送りします、と言われて断る理由も無く頷いた。
すっかり夜も更け、辺りはしんと静まり返って虫の声も無い。砂を孕んだ冷たい風に膝に置いていた布を肩に羽織って、ナスルの後に続く。
「マコト!」
不意に、少し緊張したような固い声が夜空に響いた。
振り向いたマコトに、王は言い掛けて、いや、と首を振る。
「……良い夢を」
「はい。王さまも……おやすみなさい」
頭を下げ顔を戻したその瞬間、王の表情か微かに歪んだ事に、マコトは気付かない振りをした。王は一旦瞼を閉じ、微笑みを浮かべてナスルの後を追うマコトを見送った。




