第九十三話 約束(ナスル視点)
夜勤の護衛と交代し、王に朝の挨拶を、と部屋に入ると書類が重ねられた執務机の端に見慣れぬ飴色の箱があった。ちらりと視線を流した自分に、王は顔を上げ、ナスルの視線を追うと、ああ、と表情を和ませる。
細かな細工がされた箱の蓋を撫で、ナスルを見上げた。
「『イール・ダール』への見舞いだ」
その名前に一瞬自分の身体が強張ったのが分かった。
動揺を表に出してしまった自分の未熟さに、舌打ちしたい気分で視線を王に戻す。
そんなナスルに気付いているのか、王は苦笑とも取れる曖昧な笑みを浮かべ、 手にしていた書類を机に置いた。
「一昨日目覚めたと聞いた。お前も私の護衛ばかりで見舞いにも行っていないの だろう」
王は、そう付け足し組んだ手の甲に顎を置き、ナスルを伺うように見上げた。
肯定も否定もせず、黙り込んだナスルに、王は苦笑し言葉を続けた。
「これを私からの見舞いの品として、『イール・ダール』に届けてくれないか」
親し気な口調で頼まれ、反射的にそれを受け取る。磨かれた縁の飾りに歪んだ 自分の顔が映った。
一体どんな顔で、彼女と顔を合わせろと言うのか。
……鈴を拾った事でおあいこにしましょう、と彼女は、自分のした事を許してくれて、ナスルも罪悪感を感じつつもマコトがそう望むなら、と受け入れた。
王とラナディアの話を聞き、ナスルも気持ちの決着を着けた。タイスィールに命じられた通り、王の護衛に戻り不測の事態に備え、マコトの目覚めを願いなが らその側に身を置いた。
マコトが目を覚ました一報は、タイスィールから護衛の騎士を通じナスルの耳にも届いていた。彼女の魂がこの世界に留まった事に、歓喜しひたすらに感謝し た。一目だけでも、その顔が見たいと願って……その後にやって来たのは、とてつもない羞恥心だった。
十年前の真実を知った時に思い知ったのは、自分の愚かさ。前の『イール・ダ ール』が、全ての元凶だと思い込み、実際には何の罪も無いマコトを一方的に憎み責めた。
それを思い返すと、羞恥心と自分に対する嫌悪感に目眩すら感じる。勿論、今も。
マコトが目を覚ませば、きっと自分の様に真実を知る事になる。その時に、自分の子供染みた思い込みにも気付き、その理不尽さを知るだろう。そして前の『 イール・ダール』……つまりはマコトの母を、無実にも関わらず散々貶したナスルを憎く思うに違いない。
けれど、その事で王を責めようとは思えなかった。何も言わなかった王の気持 ちを勝手に推し量り、周囲の噂に惑わされ決め付けたのは、自分自身であって王では無いからだ。
いっそ罰してくれたのならば、と思うが、彼女がそれを望む事は無いであろう事は、ナスルにも分かる。――けれど、口にしてしまったのは、居心地の悪いい たたまれなさからだ。
恐らくマコトにと言うよりかは、ナスルの理由付けの為に用意された箱を手に 離宮へ赴いた。踏ん切りが付かず気付けば見舞いの品を手に何度も扉の前を往復していた。
ふと声を掛けられ振り向けば、護衛の一人が途方にくれたような顔で立っており、その隣には呆れ顔のサラが、冷めた目で自分を見ている事に気付き、間抜けさを痛感する。
しかし顔を付き合わせて見れば、彼女はいつもの様に何も言わず、自分を迎え入れてくれた。そのいたたまれなさに、子供染みた八つ当たりをした自分すらも 。……その後の事は忘却の彼方に追いやってしまいたいが。
『どうかお願いします。王にあなたが娘だと打ち明けて貰えないでしょうか』
そう言葉にした時も、マコトに表情が微かに歪んだ事にも気付いていた。
無理も無い。彼女もつい先日真実を知ったばかりで混乱しているのだ。それでも王に会う事を了承してくれたのは、自分の強引さに譲ってくれたのだろう、と。
けれど、あれから王の近くにいればいる程、ナスルの不安は募っていた。
意識すればするほど王の生への執着心の薄さが見えてくる。眠りに落ちる前の寛いだ一時や、謁見のその合間、ふと遠くを見やり、何かを掴み損ねた様な幼い表情を浮かべる。
以前から時々見られた表情だったが、ラナディアの事があってから、目に見えてその頻度が上がった。
恐らく王は、『イール』の……いや、カナの元へと還りたい、と願っているの だ。引き止めたのは、驕りでは無い程に分かっている自分の存在。しかし枷はそれだけでは不十分な気がして、一刻も早くマコトにカナの娘なのだと名乗って貰いたかった。
マコトの了承を取り付け、最大の感謝を込めて頭を垂れる。
償いも必要としない。これ以上口にしても彼女の迷惑にしかならない。王とも離れられない。その上で、自分が出来る事は、ただ一つしかないのだろう。
「……イール・ダール」
王との面会に思う所があるのだろう、少し考え込む様に顔を伏せていたマコトが顔を上げた。
「『イール・ダール』は、毎年女神祭に、出席しなければならない事は、ご存知ですか?」
「え……? はい」
突然話題が変わった事に、首を傾げながらも、マコトは頷いた。
微かな緊張に自然と唇が乾く。今、を逃せば二度と口に出来ない気がして、ナスルはマコトから視線を逸らさず一気に言い放った。
「王都に滞在する間、親衛隊から護衛が付きます。その際は私を側に置いて下さいますか」
「え……?」
戸惑う様に小首を傾げた少女に、ナスルは感情を抑え、辛抱強く言い募る。
「王に護衛は誰が良いかと尋ねられたら、ナスル、と……私の名前を仰って下さ い」
「あの、でも、迷惑じゃ……」
「駄目ですか」
「いえ、駄目とかじゃ無くて、その」
「女神祭の間だけでも、私に守らせて下さい。今度こそ命に代えてもお守りします」
虚を衝かれた様に見開いていた目が、何か思うように眇められた。
「……じゃあ、そうさせて貰いますね」
すぐに返ってきた返事と控え目な微笑みに、彼女は恐らく今回自分が刺された事に関して、ナスルが気にしていると思ったからこそ、こんな事を言い出したのだ と思っているのだろう。
勿論それもあるが……それだけは無いのだと、言おうか迷って結局心の中で押し留めた。
きっと、そうしておいた方が、いいのだろう。
想いを伝えて何になるのか。彼女が自分を受け入れる事なんて世界がひっくり 返っても有り得ない。それだけ彼女を深く傷付けたのだし、彼女から好まれるような要素など何一つ自分には無く、その資格も無い。
……サハルの様な博識さも知識も優しさも無く、ただ力だけを求めた自分が敵 う訳がない。
――もう彼女の苦しむ姿は見たくない。
「じゃあ、改めて宜しくお願いしますね」
そう言って、控え目に微笑んだマコトに、ナスルはほっとする。自然と唇の端が上がり、目の前の少女が少し驚いた様に指摘した。
「ナスルさんて、そんな表情もされるんですね」
いつになく『イール・ダール』も砕けた口調で微笑む。胸の奥で疼いた甘やかな痛みを自覚しながら、マコトから隠す様に片手で顔を覆う。
「……どんな表情ですか」
思わず聞いてしまった問いに、マコトは少し考えゆっくりと口を開いた。
「なんて言うか……いつも落ち着いていて少し近寄りがたい雰囲気なんですけど 、笑うと若々しく見えると言うか、……失礼でしたよね、すみません」
若々しく見える?
そんな事を言われたのは初めてだった。
ふと、目の前の少女は自分を幾つだ と思っているのかと疑問に思う。
「……私は『イール・ダール』と、あまり年齢は変わりませんが」
「え……?」
戸惑った様な声に、ナスルは静かに言葉を続けた。
「十九です。カイスと同い年になります」
「え、ぁ……っ、そうなんですか。あ、カイスさんも……」
やはり年上だと思われていたらしい。
ナスルが気分を害したとでも思ったのか、言葉を重ねようとしているマコトの焦った姿に、笑いが込み上げる。くっと喉の奥で笑うと、マコトも、落ち着いたのか、くすくすと声 を立てて笑い始めた。
あまり見ない『イール・ダール』の姿に嬉しさと照れが奇妙に混じり合う。若々しいと言われたその真意は、まるで子供の様だと言う事だろうか。仕方がない 。一年に一度の了承を取り付けた事を喜んでいるのは、事実なのだから。
「……一年に一度でも、貴女と共にあれる事を、幸せに思います」
笑いを収めたナスルがそう言うと、マコトは微かに頬を染めて、「大袈裟です 」と、困った様に微笑んだ。




