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第九十二話 懺悔 2


 窓辺の椅子に腰掛け、マコトは黄色い花が咲き誇る庭園を見つめていた。


『王に話すか話さないか、お前さんに任せるよ』


 長老もイブキとスェ同様、マコトの意思に任せる、と言ってくれた。


 話さなければ、おそらく何も変わらないまま延期になったお披露目が終わり、その後は、西の村へと帰るのだろう。それもいいかもしれない、とぼんやりと思う。


 ――もし話したら、自分と王の中で何かが変わるだろうか。


 それよりも母親の事を――今更、と吐き捨てられる可能性だってある。いやそれよりも思い出したくも無い過去だと面と向かって言われれば、その原因になった自分は耐えられるだろうか。


 薄いカーテンに遮られた日差しは、心地よい温かさだけをもたらし、うつらうつらと眠気を誘う。マコトは小さな欠伸を噛み殺した後、何度目かの溜め息をついた。


 今更嫌がられてまで、王を父と呼びたいとは思っていない。そう呼んでもいいと言ってくれた優しい人がいるのも大きな理由だろう。


 しかし、出来る事ならば王と一緒にいた頃の、自分の知らない母の事を聞いてみたいとも思う。


(……サハルさんに相談してみようかな……)


 窓の縁に腕を置き、その上に突っ伏す。

 彼は言葉通り昨日の朝別れてから、まだ戻っていない。いや戻っていない、という言葉はおかしいのだろう。別にここはサハルの部屋では無いのだから、そう思って少し寂しくなる。目覚めてからずっと側にいてくれたサハル。今朝起きて一番に探したのは彼の姿だった。


(依存してる、なぁ……)


 閉じた瞼の裏に思い浮かぶのは、やはり彼で。


(会いたい、な……)


「――マコト様? ご気分でも悪いのですか?」


 考え事に集中しすぎたせいか、突然掛けられた声に驚き慌てて顔を起こし、振り返る。

 その勢いに驚いたサラは、暫く目を瞬かせた後、はっと我に返り「驚かせてしまってすみません」と、頭を下げた。


「……っあ、いえ! ぼんやりしてて。体調はもうばっちり大丈夫です」


 その言葉の通り、熱はすっかり下がりイブキに部屋の中なら自由にしていいと言われている。だがやはり昏睡状態が続いたせいで、少し歩き回っただけで、鈍い倦怠感がどっと押し寄せる。まだまだ失った体力は元に戻っていないらしい。


「そうなんですか……」


 マコトの悩みに気付いているのか、サラは真面目な顔で頷くと、マコトのすぐそばまで歩み寄り、長い裾を上品に持ち上げて屈み込むと、マコトの耳元にそっと口を寄せた。


「実はですね。今、応接間にナスル様がいらっしゃってるんです。王の代理としてお見舞いの品を持ってきたそうなんですが……」


 抑えた声でそう言い、応接間に続く扉に視線をやった。


「王の代理……」


 悩みの種である人物の名前にマコトが戸惑いを見せると、サラは微かに眉尻を下げた。


「眠ってらっしゃる事にして、お見舞いだけ私が受け取りましょうか。後できちんとお詫びの手紙でも送れば問題ありませんわ」


 自分を覗き込むサラの目は、心配そうに揺れている。


「いえ……行きます」


 サラの気遣いに頷きたい気持ちを抑え、マコトは首を振ると静かに立ち上がった。

 本人が来た訳でも無いのに、ビクビクしていてもしょうがない。それにナスルとは一度顔を合わせたかったし、聞いてみたい事もあるのだ。


 軽く支度を整え、マコトはサラの後ろに続く。扉を潜り抜け部屋を見渡せば、ナスルはソファの傍らで真っ直ぐ立っていた。そしてマコトの姿を見とめると、微かに肩を揺らし、静かに頭を下げマコトが座るのを待っている。


「ナスルさん。顔を上げて下さい」

「……お久しぶりです」


 淡々と紡がれた言葉は、どこか緊張感を孕んで固い。伏せた視線はマコトに注がれる事なく、机に置かれた細長い箱に置かれていた。サラは部屋の隅に控え、そんなナスルの一挙一動をまるで監視する様な厳しさで見つめている。


 ソファに座ったマコトを見届けてから、ナスルはその傍らまで歩み寄り跪いた。圧し殺した様な低い声が、溢れ落ちる。


「この度の事は如何様にも処罰を受ける所存です」


 深く頭を垂れたナスルに、マコトは慌てた。確か処罰は無いとタイスィールが言っていたのだが。

 マコトは慌ててソファから腰を上げ、ナスルの前にしゃがみ込む。 真っ直ぐに絨毯に落とされた拳。腕はよく焼け血管が浮いていて…… 強い力を込めているのが分かった。 ――ああ、恐らく彼は何も処罰が無かったからこそ、こうしてマコトに自分を罰する様に直接訴えて来たのだろう。


 彼は他人に厳しい以上に、自分にも厳しい。……けれど、自分に言われても困るのだ。


「……あの、……あれは仕方無い事だったんです。タイスィールさんもそう言ってたし、ナスルさんは悪くありませんから。どうか顔を上げて下さい」

「……」


 眉間に深い皺を刻んだまま、自分と視線すら合わせようとしないナスルに、マコトはただ困惑する。しかし思えば、ナスルはサハルとはまた違った意味で、一途な程、真面目な性格である。護衛対象であったマコトが、ラナディアに刺された事は、酷くナスルの自尊心を傷つけたかもしれない。


 本当は、王の人となりをよく知るナスルに、王に話すか話さないかを相談するつもりだった。しかし、このままでは相談どころか、少しずつ話せる様になったナスルにまた避けられる事になりそうだ。


 どうしようかと悩んで、ふと、タイスィールの言葉を思い出す。


『――命令すればいい』

『意地っ張りで頑なナスルにはそれが一番楽なんだよ』


 真面目で、頑なナスル。

 あの時、そう教えてくれたタイスィールの言う通りにしたら、彼は妥協し歩み寄ってくれた。


 ならば。


「……もういいんです。ナスルさんは立場的にもラナディア様に逆らえないってタイスィールさんに聞きました。どうしようも無かったんです。……立って下さい。この話はもうおしまいです。ね?」


 意識してやや強めにそう言ってマコトがそう結ぶと、ナスルはまだ納得していない顔ながらも、マコトの指示通り立ち上がった。


 ほっと胸を撫で下ろしてソファに座る様に促すと、彼は正面より少しずれた位置に腰掛けた。


 けれども黙り込んだままのナスルに、気まずい沈黙が落ちる。俯いたままのナスルの表情は分からず、マコトが身を屈ませその顔を覗き込むと、ふい、と顔を逸らされた。


(……顔、合わせたくないって事なのかな、それとも、やっぱり守れなかったから気にしてるってこと?)


 取りつく島も無いナスルの態度に、次の言葉を考えあぐねいていると、ナスルが溢れた吐息の様にぽそりと漏らした。


「ナスルさん……?」


 聞き取れなかった言葉にマコトは首を傾げる。


「……どんな顔をして貴女を見ろと言うのです」

「え……?」


「私は真実を知ろうともせず、ただ闇雲に全てが『イール・ダール』のせいだと貴女を責めた。そんな私を滑稽だと思っているのでしょう……!」


 苛立たし気に吐き捨てられたナスルの言葉に、マコトは驚く。一瞬意味が分からなくて、村での一幕とそれまでの態度を指しているのだと思い当たったその時、


 銀色の何かが軌跡を描き、がっと派手な音が部屋に響いた。


 ナスルの背後で仁王立ちになったサラは、振り上げた手にお茶を運ぶ時に使う銀のトレイを持っていた。


「サ、サラさん……ッ」


 まさか、それで殴ったのだろうか。


「言うに事書いて逆ギレ!? 逆ギレですの!? 三十分も四十分も扉の前で、なかなかノック出来ずに大トカゲの様にうろうろして、扉の護衛にどうにかして欲しいと泣き付かれたから面会を許しましたけどっ! もう通さなければ良かったですわ!」


 両手でトレイをふりかぶったまま、サラは一気に怒鳴り出す。


 その鈍く輝く凶器の犠牲になったナスルは、彼には珍しく呆気に取られた様な 表情でサラを見上げていた。かと思うと次の瞬間にはきゅっと眉間に皺を寄せ深く俯く。 膝の上の手がぎゅっと拳を作る。細かく震えているのは堪えているからだろうか。痛みか怒りか、もしくはその両方かもしれない。


(仕返し、は、さすがにしないよね……!?)


 サラはおそらく庇ってくれたのだから、責任の一旦は自分にある。

 マコトは咄嗟に身構え、ナスルの様子を注意深く伺ったが、ナスルはただじっとしているだけで動く様子は無い。ほっとして体の緊張を解く。


(……でもあれは……うん、相当痛いよね)


 王宮で使われる銀食器は重い。それでも呻き声一つ出さないナスルに、マコトは心から感心した。


(それにしてもトカゲって……)


 もしかすると、王に命令されたもののここに来るのは不本意だったのかもしれない。それでなかなかノックのタイミングも掴めず、扉の前で行ったり来たりを繰り返したのだろうか。しかも三十分も。


(……ナスルさんて……)


 その光景を思い浮かべてみると、部屋全体に広がっていた居心地の悪さが消え、どうにも笑いが込み上げてくる。


「そもそも何ですの貴方は! マコト様がもう良いと仰ってるんです! それを まだぐちぐちと……鬱陶しい! どれだけ構って欲しいのです! まるで子供ですわ!」


 口許に手を当てて、込み上げてくる笑いを堪えていると、サラは怒り冷めやらぬ様子で銀のトレイを掲げた両手を更に高く持ち上げた。


 ……さすがに、二度目はマズイだろう。


「サラさん、あの、もうその辺で……」


 笑いを噛み殺し、マコトはサラを取り成す。

「マコト様がそう仰るのなら……」と、トレイを下ろしたサラに ほっと胸を撫で下ろしたマコトは、ナスルの傍らにある包みに視線を向けた。


 ……ここは、話題を変えてしまった方が良いだろう。


「王様からのお見舞いを持ってきて下さったんですよね?」


 我に返った様にはっとし顔を上げたナスルは、苦虫を噛み 潰した様な顔で、サラを睨む。何ですの? マコトなら裸足で逃げ出したくなる様な 視線にもサラは怯む様子も無く、顎をくいっと持ち上げたサラは 挑戦的にナスルを見下ろした。


 堪える様にぐっと拳を握り締めたナスルは、マコトに視線を戻す。


「……滑稽だと笑いたいのなら我慢されなくても結構です」


 そう言って、細長い箱をマコトの目の前に差し出した。

 その言い方はナスルが真実を知らずにマコトを責めた事を言っているのか、 それともオオトカゲの様に部屋の前をうろちょろしていた事を言っているのか。


「いえ、別におかしかったんじゃなくて」


 むっつりと黙り込んだナスルだったが、部屋の雰囲気はもう張り詰めておらず、 マコトは小さな笑みを浮かべて首を振った。


「その……」


 集落での出来事は、そもそも謝罪して貰っている。今回の事はナスルに非があるとは全く 思っていない。ただ自分は。


「ナスルさん可愛いなぁ、って」


 そう思っただけなのだ。


「っか……――いえ、何でもありません」


 絶句するようにマコトを見て、それからすぐ我に返り首を振る。

 その表情は複雑そのもので、その中でも大きなものは困惑、と言った所だろうか。


(可愛いは、さすがに失礼だったかな)


 湧いた親近感をそのまま言葉にしただけだったのだが。


「……自分には、分かりかねます」


 明らかに声のトーンを落としたナスルに、マコトは微かに首をかしげ、側で聞いていた サラはそんなナスルを胡乱気な目で見つめていた。






* * *




 何故かうろうろと所在無さ気に、視線を彷徨わせていたナスルは、ようやく本来の目的を 思い出したらしい、はっとした様にテーブルの上の箱に手を伸ばし、かちりと蝶番らしきものを外すと蓋を取りマコトの方へ向けた。


「王からの見舞いの品です。お納め下さい」


 金糸で詩集された布の中に入っていたのは、光沢のある柔らかそうな素材の生地だった。


(シルク、かな……)


 恐らくそれなりに価値のあるものなのだろう。この世界では始めて見る生地だ。マコトは慎重に生地に触れ、さらりとした表面を撫でた後、すぐに手を引っ込める。


「ありがとうございます。王様に宜しくお伝え下さい」


 礼を言ってサラに視線を流すと、マコトの元へと歩み寄って来た。そして預けた生地を見ると、先程までの不機嫌さが嘘の様に目を輝かせた。


「まぁ……素晴らしいですわ」


 慎重な手付きで蓋を閉め箱ごと別の机へと運ぶ。その足取りはスキップする様に軽く、 その変わり身の早さに苦笑した。


(……やっぱり高いのかな……。後でサラさんに何か返した方がいいか聞いてみよう)


 サラの反応から察するに見舞いの品としては高価すぎる気もするが、自分の妃でもあったラナディアの謝罪も含まれているのだろう。

 しかし、何故かあまりいい気がしなかった。高価な贈り物で何かを誤魔化している様な気がして、自然と顔も険しいものになる。


(……今、聞いてみようかな)


 当初の目的を思い出しマコトは、伺う様にナスルを見る。

 いつもと変わらぬ無表情だが、先程のサラの行動、もしくはマコトの『可愛い』発言を引きずっているのか、少し疲れた様な雰囲気があって、改めて尋ねようとして生まれた緊張がやんわりと解れていくのが分かった。少し開いた膝の間で拳を組み黙り込んだままのナスル。彼は幼い頃から王を知っており、その護衛を勤めていると聞いた。



「……私、王様に告げるべきかどうか迷っているんです」


 本当は、もう少し違う事を聞きたかった。

 しかし彼もまた十年前の真実を知っている。彼だって十年前の事件の被害者だった筈で……どうして全てを知りながら黙っていた王を恨まないでいられるのですか、と尋ねてみたかった。


 けれど自分がそれを聞いてしまえば、それはナスルを責めているのと同じ事になる。それでは先程の会話に逆戻りだ。


 何の前置きも無く、マコトはナスルをじっと見上げたまま口を開いた。

 ナスルはきっと事実を知っている。その上でマコトが問うその意味も分かるだろう。その燃える様な赤い瞳が戸惑うマコトの姿を映し出した。



 王を大事に想うナスルは、真実を告白するのを勧めるだろうか、止めるのだろうか。


「それは……」


 戸惑うようにナスルの赤い瞳が揺れた。


「私の存在は、何かの諍いの種になる可能性もあると思うんです。それに王は、今更 私の存在に興味持つでしょうか。……否定されるのが怖いんです。お前がいなければって」


 出てきたのは、酷く消極的な言葉だった。初めて口にして、自分が王に真実を 告げたくないのだ、という事を自覚する。


(私……言いたくないんだ。多分……)


 どうしてか、と言われればはっきりと言葉に出来ない。

 拒絶される不安よりも、むしろもっと自分勝手な――


「個人的な希望を口に出しても宜しければ」


 そう前置きしてナスルは、伏せたままぽつりぽつりと語りだした。


「打ち明けて頂きたいと思っています。王はずっと後悔されていたようですから」

「後悔……」


「ええ、王がラナディア様の事情聴取をされ、その時に王の積年の想いを聞きました。前の『イール・ダール』……いえ、貴女の母親を愛していたのだと」


「じゃあ、どうしてずっと黙っていたんですか?」

「……色々事情はありますが、一番大きなものはこの世界の均衡を護る為です。勿論、王も 自分の罪を当時の宰相に訴えましたが、王はこの世界を壊すつもりか、と黙する事を強いられました」


 世界と愛する人、それにナスルの兄を天秤に掛けた。

 どちらに傾くのが正しいか、誰が見ても王が選んだ結末が正しい。けれど。


 マコトが口を開く前に、ナスルは意を決したように顔を上げ、まっすぐもマコトを見つめた。ナスルが語りだしたのは、マコトが最も聞きたい事だった。


「私が王の護衛に戻ったのを不思議に思っていると思います。今までの私なら王の 罪を許せなかったかもしれません。正直に言えば……随分迷いました。私は王を神聖視しすぎた気がします。……私を引き取ったのは良心の呵責からだと王は仰いましたが、たった一人になった時に、与えられた優しさは本物でした。王の想いと葛藤を知り私と同じく弱い所もある人間だと思ったのです」


「王が弱い……?」


 マコトが会った王は、不思議な雰囲気のどこか掴み所の無い人だった。

 けれど王としての威厳も威圧感も余裕も確かに存在し、弱さなどどこにも見られなかった。


「ええ、こんな言い方をすれば傲慢だと思うかもしれませんが、……私が支えて差し上げたいと思う程に」


 信じられない、と思わず口に出し掛けすぐに閉じる。

 おそらくナスルとマコトの主張はきっと平行線を辿る。せっかく歩み寄ったナスルとこんな事で再びいがみ会うことになるのは避けたかった。


「どうかお願いします。王にあなたが娘だと打ち明けて貰えないでしょうか」


 身を投げたカナは本当は生きていて、自分を産んだのだと。

 ナスルがマコトにそう望むのは、王の罪悪感を少しでも軽くさせたいからだろう。


「……ナスルさん、顔を上げて下さい」


 マコトは首を振り、その手を取る。


「勝手な事を言っているのは分かっています。どうかお願いします」

「ナスルさん……!」


 命令するような強い口調で繰り返しても、ナスルは顔を上げようとはしなかった。

 マコトが了承するまで動くつもりは無いと言う事だろうか。


 目の前で揺れる赤い髪は、何もかも受け止めた彼の兄と被って。まるでスェに 窘められているように感じた。今まで知らなかった自分よりも、彼の方が憤りも嫌悪も憎しみも あったと言うのに。自分はいつまで逃げるつもりだと。任せる、と言ってくれた彼がそんな事を言う筈が無いのに。


 ――どうせいつかは、王と向き合わなければならないのだ。



 間に入ろうとしたサラに気付き、マコトは首を振り、ゆっくりと言葉を紡いだ。


「……分かりました」





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