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第九十一話 交わる想い 4

 次に目が覚めた時、部屋は薄暗かった。

 まだ寝起きのはっきりしない頭でぼんやりと部屋を見渡していると、微かに人の話し声が聞こえ、マコトははっとして時計を見上げた。


(……寝過ごした……っ)


 予定では、三十分程で起きる筈だったのに。


 結局あれから二時間程眠ってしまったらしい。部屋が薄暗いのはきっとサラがカーテンを引いてくれたのだろう。昇りきった太陽は、熱線を降り注ぐので、眠る時は明るすぎるのだ。


 さっと手櫛で髪を整え、寝台から降りる。

 急ぎ足で扉を開ければ、マコトの予想通り新しくスェとイブキ、そしてハッシュ、アクラムの姿があった。他の候補者達も思い思いの位置に腰掛け、談笑をしたり持ち込んだらしい書類を捲っている。


 その中でいち早くマコトの存在に気付いたスェは、ソファから勢いを付けて立ち上がり、少し駆け足でマコトの前へと歩み寄った。


「よぉ嬢ちゃん! 大分元気になったみたいだな」


 そう口を開き、脇に手を差し入れると幼い子供の様にふわりと自然にマコトを持ち上げた。


「きゃ……っ」


 見下ろしたスェの顔はただ嬉しそうで、それ以外の感情は見えない。

 何故か逆にそれがマコトの胸を突く。


(スェさんは、本当はお母さんの……)


 どうしようもない事を思って心の中で首を振る。心配してくれていた、とサハルも言っていた。向けられる好意は本物だと思っている癖に、勘繰るのはスェに対してとても失礼な事だ。


「つーか……かっるいなぁ」


 すぐ近くにある黄色がかった赤い目が驚いた様に丸くなり、落ちないように反射的に肩に置いた手に向けられる。


「そう、ですか……?」


 確かに意識が無かった間に、体重が落ちたとは思うが、骨が浮くレベルでは無い。

 ……しかし何故この世界の人達は、自分を抱き上げたがるのか。


「っとと、暴れんなよ」


 持ち上げられたままの状態故に、子供の様にぶらりと足が揺れる。振り子時計みたいだなぁ、と思いながら離してくれないかと身を捩れば、スェは笑みを深めてマコトの意図とは真逆にゆっくりと自分の胸へと抱き寄せた。


 その拍子につん、と薬の匂いが鼻に付き、マコトは一瞬息を詰めた。それは記憶にこびりついたラナディアのあの匂いにとても良く似ているものだ。


(……ああ、スェさんも染めてるから……)


 そう心の中で呟き甦りかけた記憶を否定する。ここにいるのはスェであってラナディアでは無い。それにあの時と、違ってサハルがタイスィールが、みんながいる。


 自分にそう言い聞かせながら、マコトはゆっくりと視線を落としていく。

 目の前の茶色の髪はこの大陸でも多く、目立たない事を第一に染められたものだろう。けれど親しみの湧く慣れた髪色だと思うのは、恐らくサハルによく似ているからだ。


(……もしかして、スェさんがわざわざ髪を染めてまでやって来たのは、私の為だったり、するのかな……?)


 根元から微かに見える赤銅色を見下ろして、そう思う。


 ぱこん、と派手な音がすぐ近くで響き、スェの肩越しに視線を向けると、そこには薄い本を丸めたイブキが仁王立ちしていた。


「まだ安静中よ! さっさと下ろしなさい」

「……へぇへぇ。……な、嬢ちゃんは、もっと食って育てよ」


 軽口を叩きながら、それでも抱き上げた時と同じ丁寧さで、スェは逆らう事無くマコトを絨毯の上へと下ろした。マコトはスェに改めて向き直り、少し考えてから口を開いた。


「……えっと……頑張ります。すみません。あの、いつからいらしてたんですか?」


 同じ事をカイスにも言われたな、と思いながら曖昧に頷き尋ねる。

 部屋を見渡せばいつもいるサラの姿が無く、起こしてくれるように頼んだのだが、手が離せない用事でもあったのだろうか。マコトの視線で気付いたらしいイブキは、ああ、と心得た様に頷いた。


「あたしが起こさなくて良いって言ったの。今マコトに睡眠は大事だし、眠れるなら眠った方が良いわ。あたしは久しぶりにザキと色々喋ってたから退屈はしなかったわよ」

「ザキ……」


 一瞬、首を傾げかけたがすぐに思い出す。そう確か……スェの前の名前がザキだったはずだ。


「ああ今はスェだったっけ? 統一した方が良いわよね、スェ、スェ、スェ……」


 どちらでも、と言う様に軽く肩を竦めたスェに視線を戻し、イブキは口の中で何度も繰り返す。


(え、あれ……そう言えばいつの間に……)


 確か少し前までイブキはスェの存在を知らなかった筈だったが、一体いつの間に顔を合わせたのだろう。遠慮の無いやりとりに不自然な様子は無く、そこに十年間のブランクも感じられない。


(あ、そういえば心配して様子見に来てくれてたって言ってたっけ?)


 イブキは、ずっと自分の事を診てくれていたし、その時に顔を合わせたのだろうか。

 イブキが新しくお茶を淹れようとするので、慌てて自分がやります、と言えば、「あんたは座ってなさい」と医者の顔で返された。


「顔色が戻りましたね。こちらにどうぞ」


 いつのまにか後ろに来ていたサハルが、マコトの顔を覗き込み、手を差し伸べる。反射の様に手を乗せたマコトは促されるまま、一番大きな三人掛けのソファに腰を下ろした。その隣に自然に腰掛けたサハルに、言葉を掛けるタイミングを探していたらしく、ずっとマコトを見つめていたカイスとハッシュの眉間に皺が寄る。


 顔を上げた拍子にソファの向こうにいたハッシュと目が合い、マコトはふっと表情を和らげた。


「お久しぶりです」

「え、あ……マコトさんも。お久しぶりです」

「今日はわざわざ来て頂いて有難うございました」


 微笑んだマコトにハッシュは、微かに緊張し凝り固まっていた表情を動かした。机の上に置いていたパステルカラーの小さな花束をやや乱暴に掴む。


「あのっこれ!」


 やや固く真っ直ぐに差し出された、と言うよりは突き出された花束は、こじんまりとまとめられ、淡く優しい色彩を放っていた。


「乾燥させれば、慈養の付くお茶にもなるんです。良かったら貰って下さい」


 レースの様な小さな花は愛らしいだけでは無いらしい。

 真面目な彼らしいお見舞いに、お礼を言ってマコトは大事に受け取った。


「可愛いですね」


 気持ちを和ませてくれるような可愛い花だった。根元に染み込ませた水が乾燥してきたのか、ほんの少しだけ元気が無い。花瓶に挿そうと腰を上げれば、タイミング良くサラが戻って来た。運んできたワゴンの上には料理の他に、小振りな花瓶が置かれていて、その気遣いに感謝する。


「目を覚まされたんですね」

「はい。すっかり眠っちゃいました。その花瓶貸して貰っていいですか?」

「私がやりますわ」


 サラの申し出に少し迷って頷く。後ろに続いた給仕の下働きの人間の手前こうしておいた方が良いだろう。

 手にしていた花束ををサラに預け生けて貰う。香りもそれほど強くないのでソファの前のテーブルの中央に花瓶を置いて貰った。


「マ~コ~ト~?」


 軽食の皿を並べるサラを手伝おうとしたマコトは、おどろおどろしいイブキの低い声にはっとし、ソファから浮かせた腰を戻した。


(もう大丈夫なんだけどな……)


 じっとしているのが心苦しく、料理を運ぶサラを見つめていたら、横にいたサハルが苦笑して、マコトに程よく冷やされた水を差し出した。


「どうぞ」

「あ……有難うございます」


 確かに寝起きのせいか、喉が渇いていた。手持ち無沙汰も解消され、マコトは両手で握りこんだコップの中身を見下ろしてから、ちらりとサハルを見た。彼は穏やかに微笑んでいる。


(……見透かされてる……)


 少しの照れくささを感じながらマコトはゆっくりと水を口に含む。

 これもまた柑橘系の匂いがして、ずっと鼻孔へと抜ける。少しぼんやりしていた寝起きの頭がすっきりした気がした。


 その間にてきぱきと女官が動き、食事の支度が整う。並べられたのは軽い食事ばかりで、自分に合わせられたのだろうかと、少し気になったが量はそれなりに用意されていた。


 特にアクラムの前には大量のパンとそれに乗せるジャムらしき果物を煮詰めたものが、こんもりと添えられており、相変わらずの甘党ぶりにどこかほっとし、笑いが込み上げた。


 思わず目を奪われれば、こちらを見たアクラムと目が合う。脈略も無く、こくり、と頷かれてマコトは首を傾げながら、とりあえずお久し振りです、と気持ちを込めて会釈した。


(……あ)


 口の端がゆるゆると吊り上がる。微かな変化だったが、マコトにはアクラムが微笑んでいる事がわかった。


(アクラムさんにも改めてお礼をしなきゃいけないなぁ……)


 イブキの指示で、薬を処方してくれているらしい。少し苦いものの三日程でここまで回復出来た事を考えれば、とてもよく効いたと言う事だろう。


 イブキの一声で食事が始まり、誰一人としてラナディアの事も、マコトが刺されたことも話題にしなかった。ただ食事をし、マコトが眠っていた間にあった女神祭の事を中心に会話は始まり、終始和やかな雰囲気のまま昼食を終えた。






 サラが淹れたお茶を飲み、ほっと息を吐き出したマコトを中心にそれぞれがソファへと 歩み寄る。視線を感じたマコトは顔を上げて、改めてそれぞれの顔を見渡した。


 イブキにスェ、タイスィール、カイス、ハッシュ、アクラム、そしてすぐ隣にはサハル。

 順に候補者達を見て、そういえば、と、今更ながらナスルの姿が無い事に気付く。


(……ナスルさん……にも迷惑かけたのかもしれない)


 思えば彼は自分の護衛なのだ。

 自分がラナディアに刺された事で、何か罰則を受けていないだろうか。ふと、不安に駆られサハルに尋ねると、彼は苦笑し、タイスィールに視線を向けた。


 二人の会話を聞いていたらしいタイスィールは、安心させる様にマコトに頷いて見せる。


「ナスルは王の護衛に戻っているよ。マコトの手前言いにくいが、彼は身分的にラナディア様には逆らえないからね。マコトの傍を離れたのは仕方の無い事だったとうちの頭領と王との話し合いの中で特に処分は無かった。マコトもその方が良いだろう?」

「もちろんです」


 タイスィールの言葉に偽りを含んだ淀みは無い。


 ほっとしてそう頷くと、タイスィールはああ、と何か思い出した様に唇を端を吊り上げた。


「彼もとても心配していたよ」

「……ナスルさんが、ですか?」


 意外な思いで問い返せば、それまで黙っていたスェが苦笑し口を挟んだ。


「あいつは不器用で、それが顔に出ないだけなんだよ」


 分かってやってくれ、と弟を庇う兄の顔でスェはそう付け足した。


「……そうですね」


 マコトが静かに頷くと、スェは凭れていた壁から身を起こし、マコトが座るソファへと歩み寄る。

 そしておもむろに咳払いした後、口の端を吊り上げて、一同を見渡した。


「よし! じゃ、ま、始めようぜ」


 部屋の中に一気に緊張が走り、マコトの心臓も一瞬跳ねる。しかしハッシュが持ち込んだ花の爽やかな匂いが、鼓動を落ち着かせてくれた。



 マコトが口を開くよりも先に、隣に座ったイブキが、ソファの横に置いていた鞄の中から一枚の紙切れ……いや、写真を取り出した。


「これずっと預かってたの」


 テーブルの上に置かれたそれを見下ろし、マコトは小さな吐息を吐き出す。

 ああ、そうだ。『これ』があったのだと、今更ながらに気付いた。

 恐らくこれがただ一つの証拠であり、決定打。


 十数年の時は、流れているが、この時、まだ母は病魔に侵される前でまだ若々しく面影は残っているだろう。そう言えば刺されたあの日にイブキにこの写真を含めた向こうの物を預けたのだった。


 それは偶然なのか、必然なのか――不思議な力が……ここで言うなら『イール』の力が働いたのだと言って良いほどの奇跡なのかもしれない。


 マコトは写真を手に取り、膝の上で見下ろす。


 笑顔で微笑む母と自分の姿。三年前の高校の入学式がもう遠い過去の様だった。


 あまり似ていないと思っていたけれども、それは、家族の親密さが如実に出ている写真だった。それにラナディアに刺される前からサラやニムにこれが母だと知らせている。


 何も言わないという事は恐らく彼ら全員が、ここに映っているのがマコトの母親だと分かっているのだろう。


「母の写真なんです」


 今更だろう、と思いながらもマコトは敢えて口にした。

 正面に座ったイブキの目が微かに伏せられる。膝の上に置かれた手が、何かを堪えるようにぎゅっと握り締められた。


「……そう。サハルから聞いてるわ。もう大体の事は察してるのよね」

「全部が全部分かった訳じゃないですけど、……前の『イール・ダール』ってカナって言う名前だったんですよね」


 イブキに頷いて一つずつ、言葉にする。

 俯いたイブキの代わりにその隣、ソファの肘掛に腰を下ろしたスェが「ああ」と頷いて肯定した。


 長い沈黙が横たわる。

 誰も口を開こうとしないのは、これが自分の為だけの話だからだろう。

 ならば自分が口を開かない限り、話は進まない。


「ラナディアさんに『カナによく似てる』って言われたんです。……母が前の『イール・ダール』で間違いありませんか」


 一番縁が深いであろうスェに視線を向ける。彼は静かに頷いた。


「カナは何も言ってなかったのかしら? ……この世界の事とか」


 微かに交じったイブキの期待を感じながら、マコトは静かに首を振る。そうならばどんなに良かったか。母親から別の世界の話などお伽噺としても聞いた事は無かった。


 けれど母が敢えて話さなかったのも分かる。そもそも異世界など現実離れしすぎでいて、マコトですらこの世界に来る前であれば信じられなかっただろう。

 けれど、もし夢物語としてでも。


(……教えて貰いたかったな)


 母の口から、父の事や、この世界の話を。


「父親については……」


 イブキが少し言い辛そうに口にした単語に、自然に身体が強張った。

 それが全ての原因で元凶。自分の想像が確かなら、彼をスェの潔白をずっと黙っていた事になる。


 スェとイブキはこの事を知っているのだろうか。王と『イール・ダール』が結ばれるのは禁忌と言われている。……自分さえ黙っていれば、彼らは心安らかにいられるかもしれない。


 そう思っていたのだが、しかしイブキは敢えてこの場でその問いを口にした。

それは彼ら全員がその事実を知っているという事なのだろう。


「……夢の中で思い出しました。小さいころに母に教えて貰ったんです。自分の名前は、お父さんから貰ったって」


 王の真名はアドル。ダールと同じように古い名で真実と言う意味なのだと教えてくれたのは、北の兄弟だったか。


「……そう」


 どこか辛そうにイブキは声を落とした。 知らずにいるならばそれが幸せだと思ったのかもしれない。


 ――自分は前の『イール・ダール』の娘で、禁忌とされる王との子供。

 予想した答えは全て真実で。


 皆がいるこの世界から弾き飛ばされるような不安が胸の奥の深い場所から少しずつ溢れ出してくるのを感じる。

 心を落ち着かせる為に、すっかり冷めた紅茶を口に含む。久しぶりの紅茶は舌に苦く、マコトは一口でカップをテーブルの置くと、もう一つ気になっていた事を聞いた。


「あの……ラナディア様はどうなったんですか」


 その場にいた全員が、複雑な顔でマコトに注目する。

 少し迷うような間を置いた後、サハルが静かに口を開いた。


「既に王都にはいらっしゃいません」


 どこへ、と思ったのが顔に出たらしく、サハルは穏やかに説明を始めた。


「大陸の端にある神殿で、これからを過ごして頂くつもりです。『イール・ダール』を傷付けるなど、本来なら極刑も免れませんがこの件は一部のものしか知りません。ラナディア様は表向き病に倒れた事になっていますので療養という形で神殿に送りました」


 そうですか、と強張った表情を微かに緩めてマコトは頷いた。物理的に開いた距離にも安堵したが、それよりも、ラナディアが死刑にならずに済んだ事にほっとした。


 例え自分を刺した人間だとしても、その事でラナディアが死ぬ事になれば、きっと自分は一生拭いきれぬ罪悪感を持つ事になっただろう。

 『イール・ダール』の希少性を考えれば、それが一番怖かった。



「……ラナディア様は、王に横恋慕した母親が憎かったんですよね……?」


 娘である自分を殺してしまおうかと思う程に。


「横恋慕なんかじゃないわよ。確かにカナの好意は分かりやすかったけど、王にそれを押し付けた事なんて一度も無かった」


 マコトの言葉に、イブキは自分の事の様に眉を吊り上げて否定する。


「え……そうなんですか?」


 それは意外な言葉だった。ナスルから聞いた話では、付きまとっていたのは『イール・ダール』の方だと聞いていたから。ただ二人の間に作られた子供に思い当たった時点で、王も少なからず『イール・ダール』を想っていたのだと分かったが。


「時期が悪かったのもあったのだろう。もうすぐ婚礼という時期に現れ、王の心を奪ったカナさんをラナディア様は許せなかった。彼女は王とカナさんの関係を周囲に吹聴し仲を引き裂いた。西の村に送られたカナさんは、スェ殿と夫婦になる事になったが、そのすぐ後に妊娠してる事に気付いたのだろうね」


(結婚してから気付いたって事なんだ……)


 ナスルから話を聞いた時から、なぜ『イール・ダール』は、王と離されわざわざ結婚してからオアシスに飛び込んだのか、と疑問に思っていた。


 あの時は……そう、婚姻を結びたくさんの人に迷惑を掛けるのならば、結婚を拒否すれば良かったのに、とナスルの兄であるスェや、王に同情さえした。


(それが、お母さんだなんて……)


「髪の遺伝の話は知ってるか?」


 ふいに、思い出した様にスェが口に挟む。


「……はい。赤や銀はどんな髪色と合わせても必ず遺伝するって聞きました」


 ちらりと教えてくれたアクラムを見れば、相変わらずの無表情だったが、深く何かを考えれている様で、目の前のお菓子も未だ山盛りのままだった。


「そう。十月十日を経て生まれてくるのは、黒髪だ。カナと王が仲が良かったのは一部では有名だった。その父親が誰かなんて一目瞭然だ。このままでは子供を取り上げられるか、流されるか」


 淡々と感情を交えず話すのは、マコトへの気遣いなのだろう。それは効を奏して、マコト自身も自分の事ながら、少し距離を置いて聞く事が出来ている。


「……あと一つ。カナさんにオアシスの事を伝えたのは、ずっと長老だと思っていたのだが、真実はラナディアの息が掛かった世話係の女だと王が言っていた。

ラナディア様の取り調べの後、調べたが残念ながら、と言っていいものか、数年前に病で亡くなっている」


 ああ、そうだ。この世界の人間ではない母は、大昔の神話など知る筈も無い。

 誰かそれを教えた人間がいる筈なのだ。


「王は今もカナさんはオアシスに身を投げたと、思っているからね。それを許す事が出来ず彼女を避け続けた。十年間。その間にラナディア様の恨みは消える事無く、降り積もっていたのだろう」


(十年も……)


 ラナディアが王を深く愛している事は、あの一瞬だけでも分かった。それなのに十年間、すぐ近くで無視され続けた。それは酷く残酷な事では無いのだろうか。


 

「ラナディア様が髪を染めていたのは……、母の姿を真似ていたんですか?」

「……ああ……。そうか、そうかもしれないね」


 マコトの言葉にタイスィールは、はっとした様に顔を上げ、酷く納得したような溜め息と共に、同意した。

 どんな想いで、彼女は髪を染め、自分を映さない王を見ていたのか。

 ラナディアもそれに従ったと言う女官にも、不思議と怒りは湧かなかった。ただやるせなく悲しい思いが胸を塞ぐ。


 それに女官が母の耳に入れたからこそ、自分はこうして生きているのだから。


「長老がラナディアを庇った理由については分からない。まぁ、ただその方が物事がすぐ収まると思ったのかもしれないけれどね。明日に長老が王都に来るそうだから、君になら話してくれるかもしれない」 


 ふと、脳裏に長い髭を撫でる長老が思い浮かぶ。


「長老様は、この事を?」

「ああ、当時の頭領でもあるし、事情を知っている人だからね。頭領から話がいっている」


 そうですか、と静かに頷き、マコトは黙り込む。

 ややあってから。



「私、来ない方が良かったでしょうか」


 喘ぐ様に吐き出して気付いた。


 ……自分は一体何を。こんな自虐めいた言葉なんて口にして、優しい彼らが否定してくれるのなんて分かっているのに。


 けれど、それは目覚めてから、……いや、本当はこの世界に来てから、ずっと不安に思っていた事だった。

 ラナディアを傷つけて色んな人を巻き込んで。少なくとも自分が来なければラナディアは、今も後宮で第二妃として暮らしていたはずだ。思えば、候補者達にも迷惑を掛け通しで何も返せていない。


「王も、ラナディア様も、本当なら……」


 他人の運命を捻じ曲げてしまった罪悪感に、マコトは胸の奥に溜まった重いものを吐き出すように掠れた声で呟いた。



「……んな訳ねぇだろ」


 怒りを含んだカイスの言葉が耳に入り、マコトは怯えた様にそろりと顔を上げる。


「マコト。私達は君がこの世界に来てくれて嬉しいと思っているよ」


 タイスィールに言葉に、ハッシュは唇を引き結びマコトを見つめてしっかりと頷く。ふと繋がれた手に視線を向ければ、サハルは穏やかに少し悲しそうな表情で微笑んでいた。


 ただ無条件で注がれる優しさに、鼻の奥がつんと痛んだ。


 ――馬鹿な事を言ってしまった。


 正面に座ったスェが小さく溜息をつく、マコトと目が合うと、困ったように笑って囁く様な小さな声で呟いた。


「俺は十年前、誰よりも先に真実を知った。どんな事があってもカナを受け入れない――と、約束を破ったアイツが、憎くて仕方無かった。立場やナスルの事も考えられない程に、この手で殺してしまいたかった」

「スェさん……」


 吐露された内容は、マコトの知らないものだった。

 いつも飄々としているスェの隠された想いに、胸が締め付けられる。


「十年間その想いに囚われていた。生まれなかった子供と死んじまったカナが可哀想で仕方無かった。……けどお前が『イール・ダール』としてここに来て。……憎しみなんてとっくに昇華して、存在しない事を俺に知らしめてくれた」


 背もたれに両手を置き、スェは、真っ直ぐにマコトを見下ろす。


「――俺は、きっと、ずっとお前を待ってた」


 嘘の無い真摯な言葉に、ぐ、と何かが込み上げた。


 十年前の悲劇。この世界で一番被害を受けたのはきっとこの人だ。他の男に想いを残した花嫁を愛し、その人も地位も仲間も捨てなければならなくなった。


 その隣でスェを見上げていたイブキは、きゅっと唇を噛み締めた。両手を膝の上で組み、祈るような体勢でゆっくりと口を開いた


「マコト、あたしもマコトに感謝してる」

「イブキさん……?」


 戸惑うマコトに、固い表情を幾らか崩し安心させるようにイブキは小さく微笑む。


「カナがオアシスに飛び込んでから、ずっとずっと後悔してた。どうしてあの時、私は何も出来なかったんだろうって」


 医者として、同郷人として、たった一人の友人として。


「女神がカナの事を許して、あたしが妊娠して新しい『イール・ダール』が現れて、この子を生む事でみんなが、……ううん、あたしが、カナの事を忘れそうで怖かった」


 ……ああ、この人は。


 母はイブキとも面識があったのだろう。三ヶ月違うだけでこの世界にやって来た同郷の人間。仲良くならない訳が無い。きっと母も自分の様にイブキを慕ったはずだ。


 そしてイブキはその優しさの分、傷を負った。


「マコトが来てくれたおかげで、あたしは……この子を生む事が出来る」


 優しく腹を撫でたイブキの姿は、慈愛に満ちて母を思い出させる。


「だから……この世界に来てくれて有難う」


 奥歯を噛み締めて涙を堪える。

 スェの、イブキの、母の想いが交錯する。


 ありがとう。ありがとう。

 自分を認めて、受け入れてくれて。


 感謝を言葉にしたいのに、うまく言葉に出来ない。


 暫く沈黙が続き、スェはマコトの側まで歩み寄ると、子供にするように頭を撫でた。それからおもむろに話し出す。


「王にカナの事を話すか話さないかはマコトが決めろ。俺達は何も言わない」

「え?」

「ただ、アドルはどっちに転んでもお前に危害を加える事は無い。それだけは安心しろ」


 王は何も知らない、と言う事だろうか。

 十年前の悲劇の中心人物だと言うのに、報告していない……?


 意外に思ってサハルを見れば、マコトの疑問に答える様に頷いてみせる。


「王は貴女が娘だとは気付いていません」

「……そう、なんですか……」


 戸惑ったままそれでも頷いたスェは、よし、と歯を見せて笑った。


「……少し位一人で考えたいよな。……んじゃ、俺達は行く」


 スェの言葉にそれぞれ思い思いの顔をしてマコトを見つめた後、別れの挨拶を口にし立ち上がった。


 最後にサハルが腰を上げた時、急に冷えた右側に自然とマコトの手が伸び、遠ざかっていく服の裾を掴んだ。


「……あ……」


 マコトが声を漏らしたと同時に、サハルがそれに気付きマコトの手へと視線が落ちる。それを追って大きな手のひらがマコトの手を掬い上げ、サハルは再びソファに腰を落ち着けた。サハルの膝元で自然に握り合って絡まる。戻ったその温かさにマコトはほっとした様に微かな吐息を零した。


 カイスは物言いた気な表情をしてそれを見ていたが、唇を噛み締めると背中を向け部屋の扉へと向かった。その後にハッシュも続く。


 静かになった部屋で扉が閉じる音と共に、マコトの頬から涙が零れ落ち、サハルは何も言わずにマコトを抱き寄せた。




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