第九十一話 交わる想い(ニム視点)3
(……ばーか。あんな顔で見てんじゃないわよ)
心の中で悪態を付きながら、ニムは苛立ちをそのまま足音に現し、離宮の廊下を歩いていた。足に纏わりつく長い丈のスカートも苛立ちを増加させ、むっと唇を引き結ぶ。
脳裏に焼き付いているのは、マコトと対面した時の、カイスの安堵と歓喜。その奥に秘められた、恋しい、とでも言うような潤んだ目だった。 ――それは、決して自分に向けられた事の無いもので。
あんな、あんな優しい顔をするなんて。
自分はあの時、苛立ちを顔に出さずにいられただろうか。
ニムがカイスを意識しはじめたのは、十歳を過ぎた頃だった。
今でこそ兄であるサハルの後を追い掛けていたニムの面倒を、悪態をつきながらも見てくれていた。あの口の悪さに隠れているが、カイスはの本質は面倒見が良く、困っている者を放っておけない優しさがある。
(……せめてマコトがもうちょっと嫌な女だったら良かったのに)
どうしようも無い事を思って溜め息をつく。
散々嫌味を言い続けた自分を、マコトはそれこそ命を掛けて庇ったのだ。偽善だとか自己満足だとか、罵る言葉は出そうと思えば口に出来た。けれどそれよりも、裏切りを知り遠ざかっていった背中の小ささが胸に痛かった。まるでこの広い世界に彼女をたった一人で立たせているような居心地の悪さを感じて、どうしようも無い罪悪感に駆られた。
――笑えばいいのに。
最後の嫌味の様に零れた言葉は、じくじくと自分の身体を苛んで、次の日には仲直りを申し出ていた。それもまた自分でも呆れる位可愛らしさの欠片も無い方法だったけれども、それでも彼女は意図を察し、許してくれた。
「……っえ、あの、困りますっ」
ふと耳に飛び込んだ馴染みのある声に、ニムは、収まりの付かない自分の気持ちから逃げる様に顔を上げ周囲を見渡した。 白い塀の向こうから眩しい金髪が見え隠れする。頭を掻き毟ったその手の色を見て、ニムは再び溜め息をついた。
(まぁた捕まってんのね。あの馬鹿は)
ニムの考えを肯定するような、はしゃいだ甲高い声が聞こえてくる。
王宮の女官は元々行儀見習いに貴族や各部族の地位の高い家から出された娘が多く、その年齢に関わらず恋愛には積極的である。 花が咲き誇るその間に、王宮に出入りしているような出世株に目を掛けて貰えば、その奥方の地位に納まる事が出来る。 故にまだ幼いながらも将来はいずれかの部署の長官に収まるであろうハッシュは彼女達にとって絶好の獲物だ。
十年振りに現れた『イール・ダール』の婚約者候補の一人ではあるが、女官から見てもハッシュが選ばれる可能性が低いと思われているのだろう。それがまた拍車を掛けて 王宮に足を踏み入れた時からハッシュはこんな状態だった。
(本当に手間が掛かるわね……!)
すぅっと息を吸い込み口許に手を添える。
いくら気の強いニムと言えども、王宮の女官全員を敵に回したい訳では無いのだ。
「ハッシュ! タイスィール様が呼んでるわよ!」
実際マコトの名前を出した方が、効果は覿面であるが、そうなればマコトに少なからず悪い影響が出るだろう。 実際嘘では無いのだし、女ウケの良いタイスィールの名前にしておいた方が良い。無論 自分がのこのこと顔を出すなんて論外だ。特に集団になった女の嫉妬は怖い。
弾けるような賑やかな声が上がって次第に遠ざかり足音と共に消えていく。くるりと振り返ったハッシュはすぐにニムを見つけて、 塀を飛び越えニムの元へ駆け寄って来た。そこそこ高い塀を楽々乗り越えたその足取りの軽さに微かに違和感を覚えて、ニムはまじまじと近づいてくる彼を凝視した。
「……っニムっ有難う!」
息を弾ませてハッシュはニムに軽く頭を下げる。
改めて並ぶとハッシュの目線が、以前と比べて高い事に気付く。
「ハッシュ。あんた身長伸びた?」
ニムの訝しげな言葉に、ハッシュは、え、と戸惑った様な声を出してから、ニムの目を見る。そして微かに視線を持ち上げ、それを繰り返すと、顔を輝かせた。
「わっ本当だ! 僕伸びてますよね!」
「……あたしが縮んでなければね」
なんだかその笑顔が妙に面白く無い。八つ当たりだと思いながらぶっきらぼう言い捨てたが、ハッシュは気にした様子も無く照れたように後ろ頭を掻いていた。
(馬鹿みたい……)
今度は自分自身に呟き、小さく溜息をついた。
「もうカイス達先行ってるわよ。まだ本調子じゃ無さそうだし早く行った方がいいわ」
そこまで言ってニムは迷う。……もうこのまま兄の部屋に戻ってしまおうか。
第一の目的であるマコトの顔を見れたし、安心した。
けれどあの部屋に戻れば、マコトの回復を喜んだこの気持ちが薄れてしまいそうな気がして、自分を嫌いになりそうだ。
「もうあたしはマコトの顔見たし、ここで部屋に戻るわ。どうせ東の『イール・ダール』が来たら席を外すように言われてるしね」
ニムはマコトが誰に刺されたのかすら知らない。関わる事を許されていないからだ。 それを寂しいと思うには『イール・ダール』の生死は、この世界の人間にとっては重すぎた。
「え? そっか、……わざわざ呼びに来てくれて有難う」
じゃあね、と背中を返すと、あ、とハッシュが何か思い出したように声を掛けた。
「あ、そうだ。ニムにお礼を言おうと思ってたんだ」
「なんの」
首を傾げて再び向き直る。
「ほら、マコトさんが……倒れた時に、僕にも知らせるように言ってくれたって聞いて」
どこか言いにくそうに言うハッシュにニムは、砂の地面に視線を落とした。乾いた唇を舐める。
「……別に」
それはニムにとっても苦い一幕だった。
マコトが刺されたあの日、約束はしていなかったが、マコトに会いに王宮に入っていた。
皆が集まった応接間にいたニムは、ハッシュには知らせないと言ったカイスに噛み付いた。
『なんでハッシュにも知らせないのよ。あの子だってマコトの候補者でしょう!?』
『あいつは今大事な時期だろう。ここで単位落としたらこの一年で学んだ事が無駄になる。それにまだガキだし、落ち着いて対処出来るとは思えない』
『……っ!』
別に一人蚊帳の外だったハッシュに同情した訳ではない。
確固とした恋心を幼いと言うだけでカイスが軽んじたから。
(じゃあそれより一つだけ上のあたしはどうなるのよ!)
『もしマコトがこのまま目を覚まさなかったら、最後を見送る事も出来ないじゃない!』
ニムの言葉に、カイスの眉が釣り上がった。恐ろしささえ感じる目でニムを睨みつけ怒鳴る。
『馬鹿な事言うなよ! あいつは絶対に目を覚ます!』
――何の根拠があって?
残酷な事を言っているのは分かっている。
ニムだってマコトは助かると信じている。けれど、それでも、最悪の事態を考えれば、あまりにもハッシュが不憫だった。好きな人の最後の瞬間を 知らないまま過ごすなんて、どれほど残酷な事なのかきっといつも人の中心にいるカイスには分からない。自分なら絶対に嫌だ。何があったって知らせて欲しい。
惨めなほど自分とハッシュが被り、おもわずケンカ越しにカイスを睨み付けていた。
それを取り成したのはタイスィールで、結局彼はニムの肩を持ち、学院に向けて早馬を送った。
「あんたもさ、もうちょっと頑張りなさいよ」
マコトが誰を選ぶのか、しばらく王宮から遠ざかっていたニムには分からない。
けれど、もしハッシュがマコトに選ばれたとしたら、きっと自分だって勇気が持てる様な気がする。
(自分の恋すら人任せにするなんて、あたしも落ちたもんよね)
「じゃあね」
自嘲めいた笑みを零し、ニムは今度こそ踵を返してサハルの部屋へと向かった。




