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第九十一話 交わる想い 2


 サハルが去りマコトの食事も終わって最初に部屋に訪れたのは、サハルの部屋に泊まり込んでいたニムだった。


「マコト……っ」


 荒い息のまま、部屋に足を踏み入れたニムの目がマコトを捉え、瞬時に潤む。

 喘ぐ様にマコトの名前を呼んだニムは、彼女にしては珍しい長い丈のスカートの裾を翻し、出迎えたマコトに抱き着いた。


「……っ心配した!」


 何かを誤魔化す様なぶっきらぼうな言葉がマコトの耳元で弾ける。しかし、背中に回った手は傷を気遣ったのか優しく、重ねられただけだった。


「ニムさん……」


 宥める様にマコトはニムと同じように背中に手を回し、存外小さな背中を撫でる。

 唸る様な小さな声は、泣くのを堪えている幼い子供の様だった。少し意地っ張りなそのニムらしさに 顔が自然と緩む。自分の為に泣いてくれる人がいる、それは、夢の中の自分を掬い上げてくれたサハルの温もりと同じもので、胸が温かいもので満たされていく。


「我々も入らせて貰うよ」


 ニムが入って来た扉からまた別の声が掛かり、マコトはニムに釣られる様に潤み始めた視界のまま顔を上げた。


 この特徴のある声は顔を見なくとも分かる。一週間程なのに彼とも随分久し振りに顔を合わせた様な懐かしさを感じた。


「タイスィールさん」

「やぁ。『おはよう』マコト」


 艶やかな声は慈しむ様な音を響かせ、タイスィールは部屋の入り口近くで立ち止まった。その眼差しは、ただただ優しくマコトを落ち着かない心地にさせる。


「タイスィールさんも……心配お掛けました。もう大丈夫です」


 微笑みを浮かべて頭を下げたマコトに、タイスィールが何か言う前に新たな声が掛かった。


「……おー、俺も入るぜ?」


 続いて入って来たのは、どこかバツが悪そうに首に手を回したカイスだった。


「病み上がりに大勢で悪ぃな。小出しにして時間を取らせる位なら、全員で行く方が良いかってさ」


 言い訳の様にしどろもどろに言葉を重ねマコトと目が合うと、はっとしたように手を下ろし居ずまいを正す。彼には珍しい神妙な顔を作った後、短い髪をくしゃりとかきあげた。


「……元気になって良かったよ」


 染々と噛み締める様に呟いたカイスに、申し訳なさと嬉しさが入り交じり、また目頭が熱くなる。


「本当にね。イールに感謝しなくては」


 カイスの為に脇に寄ったタイスィールは、ニムとの身長差故に抱き込まれている形になっているマコトの側まで歩み寄る。


「戻って来てくれて有難う。マコト」


 下ろしたままの髪を一房掬い上げて、口付けた。


「……ッ」


 突然の事に、マコトは驚いて身体を引き目の前のニムに身体を寄せる。流れて離れた髪をタイスィールが微かに切なさを帯びた瞳で追っていたが、避けたマコトはそれどころでは無く、気付かなかった。


(髪とか……っ)


 長い間お風呂に入っていないのに。

 簡単に身体を拭いたものの、髪は手付かずのままだ。汗でべったりしているだろうそれに触れられるのは、流石に恥ずかしい。


 ニムに助けを求める如く背中に回した手に力を込めると、理由を察したらしいニムは少し呆れた様に溜め息をつき、反射的に抱えたマコトの身体をくるりと反転させた。……何故かタイスィールに突き出す様に。


「ケチケチしないで、ちょっと位触らせなさいよ。みんなホントに心配したんだから」


 しっかり確かめたいと思うでしょ、ときっぱりと言い切られれば、あからさまに嫌がるのも憚れてマコトは動きを止める。そっと伺う様にタイスィールを見上げれば、彼は珍しく少し困った様な顔をしていた。


「……ニムに見透かされるなんて、私もまだまだだね」


 眉を寄せ顎に手を置き、苦く笑う。


「それも結構な失言だわ。タイスィール様」


 いいですけど、と頬を膨らませたニムに、タイスィールはくすりと喉の奥で笑い、柔らかな表情で答えた。


「ああ。本当だ。すまないねニム」


 素直に謝罪の言葉を口にしたタイスィールに、ニムは幾分機嫌を直し頷く。

 その真ん中に挟まれ、困惑したままタイスィールを見上げていたマコトは、はっとして取りあえずそこから抜け出そうと片足を上げた所で、 完全に無防備だった腰を掴まれた。そのままひょいっと持ち上げられ、その状態のままタイスィールに抱き締められる。子供を片手で抱くような態勢に、バランスを崩し たマコトはタイスィールの頭にしがみついた。


 ……王に初めて会った時に、体験した体勢であり、マコトは、自分の学習能力の低さを思い知った。しかし何にせよ、彼は自分を子供扱いし過ぎである。


「……どうして抱き上げるんですか……」


 しかし三度目ともなると、嫌がおうにも慣れるものだ。溜め息混じりに呟いて、胸が当たらない様にバランスを取り、少し身体を離してタイスィールを見下ろす。その一連の動きも、じっと見ていたらしい彼はにっこりと微笑んで、胸の下……薄くなったお腹に猫の様な動きですりっと頬を寄せた。


「きゃっ」

「つーかやり過ぎだろうがっ」


 むっとした顔をしつつもカイスにしては珍しく、タイスィールからマコトを取り上げようとはしなかった。苦虫を噛み潰した様な顔で、ただ二人を見ているカイスに、ニムは微かに目を眇めてから静かに声を掛けた。


「……ハッシュはまだ?」

「え? 来てらっしゃるんですか?」


 タイスィールから身体を離そうと苦心しているマコトが、思わず口を挟む。

 学院で勉強に励んでいるらしいハッシュが、何故今ここにいるのか――目を丸めて尋ねると、マコトが意識を取り戻し朦朧としている間に、とっくに女神祭は始まりお披露目も終わっているのだと、タイスィールが丁寧に説明してくれた。

 ……何故か抱き上げたままで。


(もう六日も経ってるなんて……)


 なかなか意識が戻らなかった事は、サラやサハルの話から察していたが、それほど経過しているとは思わなかった。

 ついでに、祭りのメインであるバルコニーでのお披露目はマコトとイブキのみ体調を崩したという事で延期となったらしい。きっと各方面に迷惑を掛けたのだろう。女神祭に向けて忙しく走り回っていた周囲を思い出し、タイスィールやカイスも大変だったに違いない、と改めて思う。


「そういや遅いよな。もしかして迷ってんのかなアイツ」


 ちょっとそこまで見てくる、と扉に向かおうとしたカイスの腕を掴んだのは、ニムだった。


「あたしが行くわよ。ここ女の方が行き来しやすいしね。じゃ、マコトまた後でね」


 カイスの返事を待たずに、慌ただしく扉に向かったニムの背中にマコトは声を掛ける。ニムは、ヒラヒラと背中越しに手を振りそのまま部屋を出ていった。



「……本当にニムは大人になったね」


 マコトと同じように扉を見ていたタイスィールは、染々とした口調でそう呟いた。首を傾げたマコトに、何でも無いよ、と軽く首を振る。そこで、はた、と気付きマコトは眉を寄せる。


「……タイスィールさん。あの、そろそろ」


 至近距離にあるタイスィールにそう言うと、タイスィールは、にっこりと微笑みそうだね、とマコトを抱いたままカイスに向き合った。


「ほら、どうぞ」

「え?」

「は?」


 マコトとカイスの声が見事に揃った。差し出されのたのは間違いなく自分の身体。

 何故。


 困惑したままタイスィールを見上げれば、目があった彼はにこやかに微笑んでいた。一つに束ねた飾り紐から溢れた長い髪がマコトの腕を擽る。


「タイスィールさん、一体何を」

「いや、ニムの言う通りだからね。私だけでは不公平だろう。まぁカイスが良いならその分、私がずっと独り占めするけれど」


 最後はカイスに向けて、タイスィールは再びマコトを抱き寄せる。それを見たカイスは、むっと眉間に皺を寄せて、噛み付く様にタイスィールを睨んだ。


「貸せ!」


 奪う様に手を伸ばされ、カイスの左腕が膝の裏に回って危な気無く身体が移動した。改めて自分の体勢を思い返し絶句する。……これは世に言うお姫様抱っこだろうか。


「おや、珍しく素直だね」


 歌うような口調でタイスィールは、カイスをからかい、マコトも釣られるように自然と顔を伏せた。

 ……これは結構、いやかなり恥ずかしい体勢である。何にせよ、ニムがいなくて良かった――いや、むしろこの体勢はそれを除いても色々問題がある。


 ちょうどカイスの胸元に耳が当たり、早い鼓動を間近に聞き、マコトは少し驚く。見上げた尖った顎の先はかなり赤く、カイスも好きでマコトを抱いている訳ではないだろうに、何故下ろさないのだろうか。


 しかもこれの何が不公平なのか。安心に繋がる実感を感じたいと言うなら他に幾らでも手はあるように思える。寧ろこれはカイスやタイスィールが重たいだけでは。


 それにいつもならマコトをからかうタイスィールはともかく、こういう悪ふざけは止める側に回るカイスまで一体どうしたのだろう。


 そんな事を考えていると、ふいに微かな吐息が落ちて来た。鼓動もだんだん緩やかなものになり、再び顔を上げると、自分を見下ろしていたらしいカイスと目が合った。


「……お前軽い。もうちょっと太れよ」


 身を屈ませ下がってきたマコトの態勢を危な気無く変えると、ぐいっと頭を胸に押し付けられ、ほんの少しだけその拘束も少し強まった。抱き締められていると思う程に。




「――貴方達は何をしてらっしゃるんですか」


 妙に静まり返った部屋に、訝しげな声が響いた。

 言葉の終わりにひょいっ真横から手が伸び、身体ごと引き取られる。


「サハルさんっ」


 思わず自然に手を首に伸ばしていた。

 しっかりと腰に回された手は、ここずっと身近にあった匂いだ。自然と緩むマコトの表情にタイスィールが気付き、微かに眉尻を下げて瞼を伏せた。


「もう来てらっしゃったんですね」


 マコトを奪われたカイスは、空っぽになった手とサハルを交互に見て、むっと眉を顰めつつも頷いた。

 そうですか、と頷いたサハルは胸の中のマコトを抱え直すと、耳元で囁いた。


「マコトさん。スェ殿は少し遅れる様です」

「お忙しそうですか?」


 くすぐったたさに身を竦めたマコトは、慌てて顔を上げて尋ねる。

 自分の都合で呼び出してしまったが、スェの都合を考えていなかった事に今になって気付いた。

 表情を曇らせたマコトにサハルは、首を振って否定する。


「いえ、大した用事じゃないので終わり次第すぐ向かうと仰ってました。ただお昼は回るだろうとの事です。 イブキさんにもその位で訪ねて下さいとお願いして来ましたが、良かったですか?」

「そうですか。有難うございます」


 頷いたマコトの顔を覗き込んだサハルの表情が微かに曇る。


「マコトさん、朝と比べて少し顔色が悪いですね。スェ殿とイブキさんが来るまで少し横になっては如何ですか」


「でも……」


 せっかく来て貰ったばかりなのに。

 それに気だるさは感じてはいるが、それほど疲れている訳では無い。


「では、私達は一旦席を外そう」

「あ……! いえ、お昼まであと一時間位ですよね。ちょっと位賑やかでも眠れるので、良かったら皆さんここで待っていて下さい。……あの勿論忙しいならこのまま行って下さっても構いませんが」


 皆で一緒にお昼を取るのもいいかもしれない。これだけ大人数ならマコトの姿さえ見なければ他の女官も出入り出来るだろう。マコトがいる離宮は客舎からも宿舎からも遠く、場所によっては戻ってくるのに三十分以上掛かる。それならばここにいる方がいいはずだ。


「では少しお休みなさい」


 いつもならそのまま寝室まで行くのだろうが、サハルにしては珍しく寝室の前の扉でマコトを降ろした。 他の候補者の手前もあるのだろうが、離れたぬくもりに微かな寂しさを感じた自分に羞恥心が募る。


(駄目だ……。なんかものすごく甘えてる……)


「じゃあ、お言葉に甘えて待たせて貰うよ」

「俺も。……悪いな」


 居残ると言ってくれた二人に、こちらこそお礼を言いた気持ちだった。


 寝室に戻って横になる。

 彼等がいるからこそ、自分は逃げ出さず安らかな気持ちのまま、スェを待つことが出来るのだろう。自分を気遣う抑えた声は、まるで子守唄の様に優しい。マコトは小さく微笑むと、ゆっくりと瞼を閉じた。




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