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第九十話 目覚め(サラ視点)


 目の前の柔らかな曲線を描く頬に未だ色は戻らず、サラは失礼を承知ながら、横たわったままのマコトの頬にそっと手を伸ばした。


 ……自分の体温が少しでも移れば良いのに。

 そう思って、小さく溜め息をつく。


 普段の、眠りの浅い彼女ならきっと目を覚ますなり、顔を背けるなり何らかの反応がある筈なのに、マコトは睫毛を震わせる事すら無く静かに眠り続けていた。


 寝台の横から降り注ぐ陽光は明るく部屋の隅々まで照らしていると言うのに、部屋の雰囲気は暗くどこか息苦しい。



 マコトが刺された日から既に三日。毒は抜けて危険な峠は過ぎたはずだが、マコトは、その間一度も目を覚ます事は無かった。このままでは衰弱死する可能性もあると言ったイブキの言葉を思い出し、再びサラの目蓋が熱くなる。


(マコト様、早く起きて下さい……)


 この三日間繰り返した言葉を心の中で呟き、ゆっくりと瞼を押し上げると、マコトを挟んで反対側にいるサハルから声が掛かった。


「サラ、ここはいいから君は少し休みなさい」


 顔を上げたサラはゆるゆると首を振り、その最後でサハルの労る様な深い眼差しにぶつかった。

 ――マコト様は、大丈夫ですよね?


 安心したいだけの、喉まで出かかったその言葉を飲み下し、サラは唇をぐっと噛み締めた。既にその問いは何度も彼に投げ、その度に望む通りの答えを貰っていた。


(サハル様もお辛いはずなのに、……)


 気遣って優しくして貰う度に、それで良いのかと思う。


 普段通りの生活を送ると決めた故に、外せない用事を持つ他の候補者が去っても、サハルは、部屋から出ようとしなかった。枕元に座り、時々マコトの腕を取りその脈を確かめている。必要最低限の事以外は、少しの時間も離れがたいとでも言う様なサハルの行動と態度は、眠り続けるマコトの世話をするサラにとって心強いものだった。


 もし、――もし、この部屋にサラしかおらず、マコトが息を引き取るような事があれば……考えるだけで恐ろしく、取り乱さない自信も無い。


「――サラ」


 奥歯を噛み締め最悪な未来を頭から追い出していると、ふいにサハルが名前を呼んだ。


「マコトさんは、大丈夫です」


 淡々としながらも、強い意思を感じるサハルの言葉に、何かが胸に込み上げる。上手く表情が作れず俯いたサラは胸元をかきむしる様に掴んだ。サハルは優しい。サラが何も言わずとも一番欲しい言葉を、くれる。


 あの時――自分がもし、女官に代わりを頼まず、マコトの側にいれば、こんな事は起こらなかったかもしれない。

 サハルの言葉は、確かにサラの胸の奥に燻る罪悪感を軽くしてくれる。今もまた。


「目が覚めて貴方が体調を崩して伏せていたら、マコトさんはきっと、とても心配します」


 食事すらこの部屋で取っているサハルは、寝室に移動させた長椅子で仮眠を取っており、夜は自分の部屋に下がっているサラよりも疲労は濃い筈だった。


「サハル様は……大丈夫ですか……?」

「ええ。ちゃんと眠っていますし、ハスィーブの繁忙期はこんなものでは無いですから」


 穏やかな笑みさえ浮かべて、そう言ったサハルの表情には確かに疲労は見えない。

 ……きっと彼はサラに弱音を吐く事は無いだろう。恐らく誰にも。

 そしてそんな彼の心の奥を知る事が出来るのは、きっと目の前の少女だけだ。


(……マコト様、早く起きて下さいませ)


 すん、と、鼻を鳴らし、サラはそろそろ水差しの水を取り替えようと席を立つ。 

 目が覚めたらきっと水が飲みたいはずだ。イブキの指示通り少しずつ飲ませて、イブキとアクラムを呼びに行くのだ。……目が覚めないなんて事は有り得ない。あり得て欲しくない。


 指示を浚って水を取りに行こうと背中を向けたその時、ふいに掠れた声がサラの耳を擽った。

 勢いよく振り返ったサラの足元に水差しから水が零れ落ちる。



「……ール……」


 身を屈ませたサハルが、マコトの顔を食い入る様に覗き込んでいた。サハル握り込まれた白い手の指先が微かに動いている。


「マコト様……ッ!」


 駆け寄ったサラは放り出す様に水差しを机に置き、サハルと同じ様に覗き込む。サハルはそばにあった手拭いを軽く濡らし乾いた唇を拭った。その冷たさに反応したのか、マコトの瞼がピクリと動き、そのままゆっくりと押し上げられる。


 何も映していないぼんやりとした瞳は、一度眩しそうに眇られた。



「――マコトさん」


 囁く様な柔らかい声が、サハルから発せられる。

 目覚めに相応しい、泣きたくなる程、優しい声だった。


(サハル様)


 サラは思わず大きな声を出してしまった自分を恥じた。

 そして、ただひたすらにマコトを、マコトの事だけを想う目の前の彼の優しさに尊敬すら覚えた。三日三晩、側にあり続けたサハルを知っているからこそ、サラには彼が今押し殺している感情の大きさが分かる。


 ――サラが尊敬する彼女が、彼を選んだ理由を思い知った。


 姿形、地位や将来性では無く、それよりももっと大事なものが、きっとマコトには見えていたのだろう。


 サラとサハルが見守る中、ぼんやりしていたマコトの焦点がゆっくりと結ばれ、深い夜色の瞳がはっきりと目の前の人物を写した。


「サハルさ、ん……?」


 繋がった手から視線を滑らせ、マコトはサハルを見つめた。


「――もう、大丈夫ですから」


 囁く様に発せられた穏やかなサハルの言葉に、安堵したのはマコトよりもサラの方だったかもしれない。


「はい……」


 ゆっくりと瞬いた目が一度閉じられ、雫の様な涙が溢れ落ちた。そして母親に抱かれた幼子 の様な安心しきったような微笑みを浮かべたマコトの呼吸は、 やや早いものも落ち着いている。



「サラ、すみませんが、イブキさんかアクラムを呼んで来てくれませんか」

「わ、分かりました……!」


 滲む視界の中、頷くと、視線を巡らせたマコトと目が合った。吸い込まれそうな黒い瞳には、しっかりと自分の姿が映っている。もうそれだけで、身を投げ出して女神に感謝を捧げたいと思った。


 何度も何度も頷いて後ろ髪引かれる気持ちながら、サラは扉へと向かった。


「早く元気になって下さいね。……しっかり抱き締める事も出来ませんから」


 扉を閉じるその瞬間、微かに耳に届いたのサハルの本音に、サラは眦を下げ目元を拭うと、イブキの元へと急ぎ足で向かった。




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