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第八十九話 ゆめうつつ

 ふぅわりと身体を包み込む暖かい湯気の中で、マコトは目蓋を押し上げた。見慣れた天井のタイルが視界に映り、ああ家だ、と思い出す。


「こら、マコト眠っちゃ駄目よ」


 背中から優しい声がして、マコトは上半身を揺らして振り向く。その拍子に湯船一杯に張られた湯が少し溢れて――勿体無い、と心のどこかで思った。


「お母さん」


 理由の無い焦燥感が胸を焼いて、マコトはそのまま母親に向き直って名前を呼ぶ。狭い浴槽にまたお湯が少し零れた。今度は気にならなかった。


「どうしたの」


 あのね、今日。

 そう話掛けて、また違和感に首を傾げた。


 違う……? ううん。今日、で合ってる。お母さんがお仕事休みで、保育園から帰った後、公園で思いきり遊んで、久しぶりに一緒にお風呂に入った。だから、保育園であった嫌な事ちょっとの間、忘れられたんだ。


「あのね」

「うん?」


 小首を傾げるお母さんは、可愛い。

 いつも忙しいけど、保育園では一番若くて、時々怖いけどやっぱり優しい自慢のお母さんだ。


「孝史くんがね、お前の名前男みたいだって言ったの」


 そう、だから嫌な気持ちになったの。前にも誰かに言われたから。


「孝史くんねぇ。年少さんの時は仲良しだったのにね」


 お母さんは、ちょっと困った様に笑って、マコトを膝に乗せたまま、うーん、と身体を伸ばした。


「最近すぐ意地悪言うの」


 本気で取り合ってくれていない様な気がして、マコトは尚も言い募った。目が合った母の目がやんわりと細められ、頭に白い手が乗せられる。


「――マコトの名前はね、お父さんから貰ったのよ」

「お父さん?」

「うん、すごく優しくて、可愛い人なの」


 どこか得意そうに母はそう言って、口の端を吊り上げた。


「可愛いって変だよ。男の人はかっこいいだよ」


 マコトの言葉におかしそうに笑った。


「そうね……かっこよくもあったかしら?」


 母の口から父親の話題が出たのは随分久しぶりでマコトは嬉しくなって、続きをせがむ。しかし母は、火照ったマコトの顔を軽くつついた後、「もう、出ましょう」と切り上げてしまった。


 もう少し聞きたかったな……。

 母親の背中が、靄が掛かった様に白く遠ざかる。


「おかあさ……」


 必死で伸ばした手は、確かに母の手を掴まえた。

 しかし、その瞬間目まぐるし周囲の風景が変わり始め、驚きと気持ち悪さにマコトは咄嗟に目を瞑る。




 再び目蓋を開けたそこは静かな病室だった。


「……私は、マコトを生めて幸せだったわ」


 ふいに、耳に届いた声。舌にまで転移した癌は、母親から声を奪った。しかし、何故かそれだけははっきりとマコトの耳に届いた。


「私もお母さんの子供で幸せだよ」


 もう照れなんて必要無く。

 ああ、今は『どこ』で『いつ』なのか、正確に知った。手を握る自分の手は幼い子供のものでは無い。



 笑え。


 ただ安らかに、見送って。


 日に日に幼くなっていく母の、もう苦しむ姿は見たく無かった。







 初めて入った火葬場は、黒い大理石が敷き詰められた、立派な建物だった。大きな焼却炉が点々と並ぶその中の一つに入れられるのだと知って罪悪感が沸いた。


(……きっと熱いよ。お母さんあんな場所にいれたら、死んじゃうよ)


 心の中で無機質な炉の扉を見てそう思う。視界の端に映った隣の焼却炉には煌々と赤いランプが警鐘の様に光っていた。


 何を今更――と思う。

 とっくに母親は息を引き取り、身体の周囲には冷たい花が敷き詰められたと言うのに、心のどこかは未だにに信じられないと納得していなかったのだ。


 ――駄目だよ。きっと熱いよ。可哀想だよ。


 自分の呟きは誰にも届かず、黒い棺がレールを走る。緑のランプは隣と同じ血の様な赤に変わった。



 拾った遺骨は、人の形を残しておらず、現実味の無いまま小さな箱に押し込められた。



 閉じた瞼から涙が頬を伝う。


 目を開けた時には、マコトはアパートの部屋にいた。

 もうそろそろと客も引き、マコトは借り物の湯飲みを洗っていた。軽く水を切り、割らない様に布巾で拭く。誰かに呼ばれた気がして、最後の湯飲みはそのままに、後ろを振り返った。


 部屋の一角に備え付けられた白い祭壇。掛けられた黒いリボンの下で微笑む母を見つめ、マコトは目を眇める。


 もう、病院に行く必要は無い。

 もう、お帰り、と言ってくれる人はいない。

 もう、私は一人で。



 ――もう、消えてしまいたい。


 



 だってもう、誰も、いないから。

 私がいなくなっても悲しんでくれる人はいない。


 私一人いなくたって、この世界は何も変わらない。


 必要の無い存在なら、いっそ。



「……っぅ……ふっ……」


 いなくなってしまえばいい。


 唇を噛み締め、マコトはその場に崩れ落ちた。

 心が砕けてばらばらになっていく感覚に、今まで堪えていたものを吐き出す。



「っあさん……っおかあさん……ッ! なんでっ……」



 一人にするの。

 



 寂しい。悲しい。


 一人にしないで。
















 ――いで。


 瞼を閉じた赤い世界で、誰かの声が聞こえた。

 遠いようで近いような掠れた声に、マコトはゆっくりと顔を上げる。


 ――『一人で泣かないで下さい』


 今度ははっきりと、耳の側で聞こえる。


「だれ……?」


 違う。知っている。これは。この優しい声は。


『辛い時は辛いと甘えて下さい」


 ――消えてしまいたい。


 ……いや、いや、消えたくなんてない。

 


 死にたい。



 ――たく……ない。

 


 死にたくなんてない、消えたくなんてない。

 だってまだ何も伝えていない。いつも迷惑を掛けてばかりで、何も返せなくて。


 彼はきっと自分が死んだら悲しむ。




 だから。






 ――私は生きる。



 彼のいるあのやさしい世界で。






 遺影も、祭壇も、狭い部屋も、

 黄砂の様な砂壁が遠ざかって、硝子の様にばらばらと砕け散っていく。

 


 砂に様に細かく砕かれたその欠片と欠片の間に、誰かの顔を見た気がした。


 ただひたすらに優しい、慈愛に満ちた笑顔。



「お母さん……?」


 掠れた声で呟いて、けれど、すぐに首を振る。





 違う。あれは。






 ――イール?









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