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第八十八話 終焉 2 (ナスル視点)


 少しでも良い。

 頭を整理して考える時間が欲しかった。


 久し振りになる、けれども慣れた道を辿り、ナスルとタイスィールは王の部屋の扉の前で足を止めた。両隣に立つ護衛に軽く顎を下げ、タイスィールは軽く扉を叩く。ナスルはその背中をただじっと見つめていた。

 身体の深い場所から今も込み上げる感情は出口を失い、もういっそ全て切り捨てたくなるほどの熱さで思考を鈍らせる。


 マコトは、ナスルが最も憎んだ、前の『イール・ダール』の娘で、その父親は、唯一の庇護者であり、最も許されない人物だった。それは、王が少なくとも一度は『カナ』を受け入れたと言う事実であり、子供を守る為にオアシスに身を投げたカナの行動とザキの失踪へと繋がる。 そして結果的にナスルは、王以外の全てを失ったのだ。


 十年前の真実は、王だけを慕い崇拝してきたナスルに取って残酷だった。



 入室を許す、王の声にナスルの胸が酷く騒ぐ。出来うるならもういっそ逃げ出したくなる程に、今、聞きたく無い声だった。


 一体、どんな顔をすれば良いのか。何か言わなければならない気がするのに、胸の渦巻く何かが蓋の様に邪魔をして音にならない。いや、一度吐き出してしまえば、自分でも耳を塞ぎたくなる程の醜い罵詈雑言を吐き出してしまいそうで恐ろしい。


 ただ一人、差し伸べてくれた手は、温かかった。その優しさが無ければナスルは、とっくに王都からも一族からも逃げ出しどこかで野垂れ死んでいた。


 それが、それが――。


 身体は思考とは離れた場所で動き、タイスィールの後に続いてナスルは部屋に入る。


 王は窓辺の椅子に腰掛け、厳しい表情のまま顔の前で手を組んでいた。ひざまずいた二人に首を振って立ち上がる様促すと、顔を上げて二人を見る。


「……お前達のその表情から察するに、『イール・ダール』は、まだ危険な状態なのだな」


 問いよりは確信に近い呟きだった。状況よりも先に、『イール・ダール』の容態を聞かれた事をナスルは意外に思ったが、――昨日の東屋での王の様子を思い出し、納得する。


 王は表情を和ませ、マコトと楽しそうに話をしていた。星空の下のあの光景を思い出したナスルの胸の奥につっかえるものが重さを増して、息苦しくなる。


「まだ予断を許さぬ状態です」


 タイスィールが静かに肯定し、暫くの沈黙の後、王は再び口を開いた。


「ラナディアが『イール・ダール』を、刺したのは間違いの無い事なのだな?」


 王にはラナディアの身柄を拘束する為の許可を得る為に、タイスィールが信頼する親衛隊の一人を使い、簡単に伝えたのみだった。


「ええ。ラナディア様が、女官を使いマコトを呼び出しました。そのまま二人は暫く話していた様ですが、突然ラナディア様が激昂されまして、マコトを刺した様です」


 ナスルとイブキから聞いた状況を、タイスィールは感情を交えぬ様に、淡々となぞる。それでもナスルの頭には、 先程見たばかりの光景が、恐ろしい程の鮮やかで蘇った。 一度強く目を閉じ、深い悔恨で鋭さを増したその衝撃をやり過ごす。


「凶器は短剣です。毒が塗ってあったので、最初からそのつもりだったと思われます」

「……愚かな」


 掠れた呟きの後、王の口から細く長い溜め息が溢れる。疲れた様に眉間を指先で撫でた王は、ゆっくりと視線を巡らせた。


「いつから『イール・ダール』とラナディアは、交流を?」


 それは明らかにナスルに向けた問いだった。普段マコトの護衛をしていたのはナスルであり、王が尋ねるのも当然だった。反射的に上げたナスルの顔に浮かんでいたのは、焦燥と不安、そして言葉には出来ない複雑な感情だった。


 王は、微かに驚いた様に、目を一度瞬いた。が、すぐに表情を戻し、タイスィールに視線を向けた。それを受け、タイスィールは頷く。


「二週間ほど前に王宮内で迷われた時に初めて会ったと聞いております。二度目はおそらく酒宴。その間に交流は無かった様です」


 カイスが戻る前に、サラから聞いた言葉をタイスィールは反芻した。ラナディアが母に似ている、と嬉しそうに言っていたと付け足したサラは、顔を覆って子供の様に泣き出した。普段は注意深いマコトが簡単にラナディアに付いていた理由も、ナスルはその時、初めて理解し、同時にマコトが前の世界でも天涯孤独なのだと知った。ナスルの胸に、苦いものが込み上げる。


 苦しみなど何も知らず、何不自由無く幸せに大事に育てられた娘なのだと思っていた。だからこそ彼女の優しさは偽善だと決め付けていた。自分の思い込みの強さにいっそ笑い出したくなる。


 王の気を引く為に、『イール・ダール』の姿を真似るラナディアが、似ているのは当たり前だ。――母に似た人間に殺されかけるなんて、あまりに憐れだった。


 恐らくラナディアも、会話している内にきっと確信に触れたのだろう。

 ラナディアは、恐らくかつての自分よりも深く『イール・ダール』を憎んでいる。ナスルが初めて会った時に感じたのは、同胞を喜ぶ暗い喜び。彼女は、自分が吐き出した答えに十二分に満足しただろう。


「……詳しい事は本人に聞かねば分からぬか。これからラナディアの元へ行く。ついて参れ」


 王はそう言い、立ち上がる。タイスィールすら反応が遅れる程、意外な言葉だった。


「お待ち下さい。尋問なら私が致しましょう」


 ラナディアに、マコトの母親を口にされては困るからだろう、タイスィールがそう申し出ると、王は静かに首を振った。


「良い。私が全てを終わらせよう」


 静かに吐き出したその言葉にナスルが違和感を覚える前に、王は扉へ向かった。






* * *





 本宮の一番奥のその部屋は、その隣から入り口へと並ぶ客室と同じ造りながらも、窓が一つも無く、人通りも少ない事から、貴人や要人の有事の際の一時避難場所、もしくは――隔離場所としてよく使われている場所だった。


 扉の前には、親衛隊二人が両隣を固めており、王の姿を見とめると頭を垂れる。王の前を先導する形で歩いていたタイスィールが、扉を叩き抑えた声で王の来訪を告げた。


 少しの間を置いた後、扉が静かに開かれる。扉を開けたのは先回りしていたらしい隊長で、王の登場に微かな戸惑いを見せたが、それも一瞬の事。タイスィールと目配せし合い、身体を引いて壁際に移動した。


 目の前の応接室のソファの側には、ラナディアが輿入れの際に実家から連れてきた女官が血の気の失せた顔で、王やタイスィール、ナスルの顔を忙しなく巡り最後には項垂れる様に俯いた。前で組み合わせた両手は微かに震えており、既にラナディアが犯した大罪を知っているのだろう。しかしそれとは対照的にゆったりとソファに身体を預けてカップを傾けていたラナディアは、王に視線を向けるや否や、嬉しそうに顔を綻ばせた。



「王」


 歌う様に名を紡いだラナディアに、後悔も憂いも無く、ナスルは頭から冷たい水を掛けられた様な心地がした。人を刺したばかりとは思えないその無邪気さは、異様さを際立たせ、殺傷沙汰に慣れたナスルの肌ですら粟立たせる。衣装の裾に模様の様に散っている変色したマコトの血が無ければ、夢だったかもしれないと思える程、ラナディアは普段通りであった。


 しかし、狂気を含んだ甲高い笑い声は、鼓膜にこびりついている。


 王に向けられるラナディアの動かない微笑みに、気味の悪さと同時に憎悪が込み上げた。ラナディアはソファから立ち上がると長い裾を少女の様に両手で持ち上げ、王に駆け寄った。ふわりと長い衣が翻り、飛び立つような軽さで王の首元に腕を回そうとした。瞬間、


「きゃあっ……何をするの!」


 部屋の隅に控えていた親衛隊の一人がラナディアの腕を押さえつけた。


「無礼者! お離しなさい!」


 喚いたラナディアに、女官は駆け寄りかけたが、もう一人の見張りが阻む様に片手を上げ、それを止めた。男は表情も動かさず、ラナディアの手を背中側に捻ると、その華奢な身体を有無を言わせぬ力でソファへと戻した。その主への粗暴な扱いにますます顔を白くさせたのは、やはり女官の方で、当の本人は訳が分からないとばかりに大きく目を見開き、すぐ目の前の王に視線を向ける。


 溢れそうに揺れた藍色の瞳に、王はいつもの彼からは想像出来ない冷めた眼差しを向け、ラナディアとの距離を保ったまま薄い唇を開いた。


「お前達はもう良い。部屋から出る様に」


 隊長が顔を上げて、王を見つめる。


 ナスルからはどちらの表情も見えなかったが、暫くしてから隊長は、溜め息にも似た吐息を吐き出した。


「タイスィール殿とナスルは残して頂けるのですか」


 名前を呼ばれて、はっとする。


 マコトを刺したラナディアと王を、二人っきりにさせる訳にはいかない。付いてこいと言われた以上、この場にいても良いと言う事だろう。


「ああ、もとよりそのつもりだ。異論はあるまい。女官も連れて行け」

「分かりました」


 王が人払いしたのは、これからラナディアを尋問するのに、十年前の真実に触れなければならないからか。

 皮肉交じりにそう思った自分に気付き、理性が警鐘を鳴らす。

 しかしそれには気付かない振りをし、ナスルは固く唇を引き結んだ。


 マコトの部屋にスェと共にやって来た隊長は、イブキの話もスェの話も聞いていた。

 ある程度の事情なら察しているのだろう隊長は静かに頷き、ラナディアの近くにいた二人に向かって顎を動かして合図すると、共に部屋から出て行った。


 扉が静かに閉まると、タイスィールがラナディアと王との間に入る様に場所を変えた。王にラナディアと少し距離を空けた場所の椅子を勧めるが、王はそれを拒否し、その場から動こうとしなかった。


 そこまで来て、ナスルは自分の立ち位置に惑う。タイスィールは、確かに親衛隊の元隊長であり、指南役として度々指導を求めるが、彼は厳密的に言えば親衛隊の人間では無い。今は祭りの最中手薄となる王の側に臨時で詰めているだけである。本来ならばまず第一にナスルが動き、ラナディアと王との間に立たねばならなかったはずだ。


 凍りついた様に動けない――動こうとしない自分は、そのまま自分の曖昧な立ち位置を示しているようだった。


「何故西の『イール・ダール』を刺した」


 静かに問う王に、ラナディアの眼差しがまた揺れる。顔を上げた拍子に長い黒髪がさらりと揺れて、そのまま胸元へと落ちた。ラナディアと王のよく似て非なる瞳が絡み合う。先に逸らしたのはラナディアだったが、耐えかねたと言う様なわざとらしさがあった。その肩が小刻みに揺れ始める。


「……っふふ……」


 くぐもって溢れた掠れた声に、笑っているのだ、と、気付いたのは、 ナスルだけでは無かった。タイスィールの静かな瞳も軽く伏せられ、見えないその表情は恐らく自分とよく似たものだろう。


 ラナディアはおそらく、今の王の一言で気付いたのだ。王は未だにマコトの母親を、そして真実を知らない事を。


「何がおかしい」


 静かに問う王の声に、苛立ちは感じられ無い。王はラナディアの微笑みの意味を深くは取らずに、問いを変えた。


「お前は自分のした事の恐ろしさを分かっているのか」


 最初の女神の怒りは、十年の『イール・ダール』の消失。二度目は一体どうなるのか想像すら出来ない。 唯一の神である女神に見放されれば、この乾いた大地はオアシスを失いあっという間に 大地は枯渇し死んでいく。


 ラナディアは王の第二妃として後宮に入った時から王族の一員となった。大陸の繁栄を願う調停者に与すると言う事は、率先して『イール・ダール』を守らなければならない地位にある。どんな理由があるにしろ祝福を繁栄をもたらす『イール・ダール』を害するなどあってはならない。


「そうよ。同じ『イール・ダール』だもの。またあの女の様に貴方に近付いたから」


 楽しそうに、本当に楽しそうにラナディアは笑った。ラナディアは、王にマコトの事を告げるつもりは無いのだろう。――何故、と思い、答えはすぐに分かった。


 ラナディアは恐らく王の関心を自分一人に留めて置きたいのだ。向けられるのが愛情や関心では無く、憎悪だとしても。そんな中でカナの娘であるマコトの存在など知らせたくもないのだろう。皮肉にも タイスィールとラナディアの思惑が、ぴたりと当て嵌まる。


(……なんて愚かな独り善がりな想いなのか)


 自分に想いを返さないのならば、相手の大事なものを消し、姿をそっくり写して成り代わろうとしたラナディア。 純粋ゆえに残酷で凶暴なその感情がどこか分かる様な気がして、ナスルは疼く胸を 堪える様に唇を噛み締めた。


 だから刺したのか。


 予想していたのだろうラナディアの言葉に王は静かに呟いた。


「お前はどこまでも子供だ」

「だって王が一度しかわたくしをお抱きにならないのですもの。子供を授からないのですから女では無いでしょう」


 そこで王は初めて、表情に感情を出した。悔いる様に寄せられた眉間を軽く撫でる。疼痛を堪える様な仕草だった。


「……十年前も、お前は都から離れたカナに付き纏い、人を使って嫌がらせを続けていたな」


 ラナディアは否定も肯定もしなかった。ただ微笑み、王を熱っぽい目で見つめていた。それはただ王を会話できるだけでも嬉しいと言う様な盲目的な目だった。


「カナに、私の子なら処分され、私も地位を追われて処罰されると伝えたのもお前だな」


 問うと言うよりは、一つ一つ確かめる様な口調だった。王の言葉を拐い、ナスルは疑問に思う。


「何が悪いの? 本当の事でしょう。アドル様。感謝して頂きたい位だわ」


 ラナディアは、尖らせた口元に指を置き、小首を傾げて見せる。


「……それは西の長老が『イール・ダール』に教えたのでは?」


 同じ疑問を持ったのか、遠慮がちにタイスィールは口を挟んだ。


「違う。伝えたのはカナの世話係だった女だ。元はラナディアの女官でもあった。身を投げれば元の世界に還れると、何の確信も無く嘯いた。その後にカナは西の長老を訪ねている」


 王とイブキの話に奇妙なずれが生じる。イブキの話では、オアシスに身を投げれば還れるかもしれない、と長老がカナにそれを話したはずだ。


 イブキに問い詰められ、全て自分が言った事だと断言したらしい長老の思惑が分からない。単純に考えれば、世話係の女を、引いてはラナディアを庇ったと言う事だ。……しかし何故?


 王はタイスィールの問いに答えた後、この部屋に来て初めて足を動かした。

 真っ直ぐにラナディアの前に立ち、枯れかけたオアシスの様な静謐さを黒い瞳に浮かべて、ゆっくりと口を開いた。


「お前は私がいれば良いのだろう。――良い。私が殺してやる」

「王」


 驚くナスルと、諫める様に名を呼んだタイスィール。ラナディアは、きょとんとした無邪気な仕草で王を見上げていた。


「お前も私も女神イールの元へは行けぬだろうが、深い闇の底でも二人きりなら本望だろう」


 真意を探ろうと凝視した、王の横顔は柔らかい。しかしどこか疲れた様にも見えた。いつも年齢を感じさせない若々しい王が、始めて年相応に見える。故に発せられた言葉が悪い冗談 では無く、本気なのだと分かった。


「カナを殺したお前の命でだけでは女神イールも納得しないだろう。私も共に死のう」


「……っ」


 その言葉に、ナスルは絶句し、タイスィールもくぐもった声を吐き出した。その中でただ一人、王を見つめていたラナディアの表情が、歓喜に輝いた。


「素敵だわ」


 夢見る様にうっとりと呟いたラナディアは、両手を胸の前で組み、掠れた吐息を入り混ぜてそう呟く。


 ――私も死のう――。

 聞いたばかりの王の声が、ナスルの閉じられた世界でこだまする。


 今、何と――。


「王!」


 先程より鋭さを増すタイスィールの声。それを受けて 王は諭す様な響きでゆっくりと言葉を紡ぐ。


「王子は若いが私と違い才もある。中継ぎとしては十分な期間王座に座っていたと思わないか?」

「何を仰って……」


 掠れた声はきちんと言葉にならなかった。

 真意を探るように王に向けられたタイスィールの目が、眇められる。


(――王が死ぬ? それも自ら命を絶って?)


 色んな感情で飽和した頭の中が、すっと冷めていく。


 何を言っているのか、と凝視した王の瞳はいつのまにか自分に向いており、ナスルは掛けるべき言葉を捜しながら、ただ、振り子の様に首を振った。


「ナスル。お前は私がどれ程卑怯だったか知ったのだろう。引き取り手の無かったお前に優しくしたのは、罪の呵責からだ。ザキとカナに全てを押し付けたのは私。 何もかも私が原因で一番卑怯なのだよ」


 淡々とした告白に、ナスルは言葉に詰まる。


 いつ分かったのか。……考えるまでも無い。王の部屋に入った時にその問いに答えられなかった自分は、明らかに挙動不審だった。


 唯一で絶対の存在であった王を、剣となり盾となって身を守れる 事が誇りだった。傷つける人間など存在すら許せなかった。


 守って、守って、常に後ろにある事で安堵していたその存在が消える?


(――嫌だ)


「王、王……ッ俺はっ」


 真っ白になった頭の中に、血で染まったマコトと王の姿が重なって、自分の手を擦り抜ける。

 同時に、王が何も無くなった家から救い出してくれた日の事が蘇って来た。


『ナスル。私をお前のもう一人の兄だと思ってくれぬか……?』


 今、思えば、伺う様な乞うような瞳は、ナスル以上に怯えていた。だからかもしれない、既に猜疑心に凝り固まっていた自分が簡単にその手を取ったのは。


 自分は、目の前の王に死んで欲しく無い。


 思い悩んで突き詰めて出した答えは、単純だった。


 王は袂から出した短刀から、鞘を落とす。

 からん、と冷たい床に落ちる音がした。タイスィールは動かない。


 彼は恐らく王がラナディアを殺すのを許している。生き恥を晒し世界から疎まれ続ける方がラナディアにとっては不幸であるし、また愛する王の手に掛かる事を本人が強く望んでいるからだ。王がラナディアを殺し、自分に刃を向ける前に止めに入るのだろうが、ここで止められたとしても、王はきっと近い将来に自ら命を絶つに違いない。ずっと側にいたからこそ、それが分かる。


 ――止めたい。



「……それでも……っ」 


 それまで黙っていたせいか、声が掠れる。


「それでもッ、貴方が原因だとしても、手を差し伸べて貰えて俺は嬉しかった。あの優しさは罪の呵責からだったとしても、俺には本物でした……!」


 優しくて、弱い王。

 自分が護りたいと思ったのは当然だったのかもしれない。


「だから! 死ぬなんて言わないで下さい! 貴方がラナディアを殺す前に俺が殺します!」


 痛みを堪えるような目でナスルを見た王が、小さく頭を振る。


 王がラナディアを殺すのと、親衛隊と言えども家臣であるナスルがラナディアを殺すのとでは、大きく解釈が異なる。おそらくラナディアが大罪を犯したと言えども、ナスルも刑を免れない。





 痛いほどの沈黙が続き、ナスルを見つめていた、王の表情が、ふ、と和らいだ。  王が未練の残る目で短剣を見下ろす。


「お前にそんな事をさせる訳にはいかない」


 困ったように眉間に皺を寄せ、王は苦く笑う。

 痛みを堪えるような仕草で、高い天井を仰いだ後、ぽつり、と独り言 のように呟いた。


「お前が自分の事を『俺』なんて言うのを久しぶりに聞いたな」


 くっと喉の奥で笑う王の表情は、いつもと同じものだった。その事に 心の底から安堵する。




「――ラナディアを病気療養とし、王都から離す」


 王の朗々とした声は、さほど広く無い部屋に響いた。

 それを聞いたラナディアは、王に縋り付き、先程までとはうって変わった形相で詰め寄る。


「アドル様……! 酷いわ! 一緒に死んでくれるって言ったじゃない!」

「ラナディア」


 短刀を握り締めた王は、衝動を堪えるように、それをナスルに投げた。


「王! アドル様……! わたくしを見て! わたくしを!」


 暴れだしたラナディアの背後に回り、タイスィールはいつのまにか手にしていた布で口元に置く。

 眠り薬の類だったらしく、すぐに弛緩した身体を注意深くソファに横たえた。


 部屋は、またしんと静まり返り、その中で王はラナディアに背中を向けた。


「――私はカナを失ったが、代わりにお前を得たのだな」


 王は立ちつくしたままのナスルの肩に手を置いた。王より少し高い位置にあるナスルの頭がぐいっと引き寄せられる。


「ナスル、有難う」


 囁くように呟かれた声に、胸の奥が熱くなる。

 その感情を言葉にするには、まだ時間が必要だった。


 ただ。一つだけ。

 

「王……」


 本当は言いたい事がある。


 それほど貴方が愛していた女は生きて異世界に戻り、娘を産んだ。貴方が殺した訳では無く、すぐそこに、今。

 

「前の『イール・ダール』が身を投げた時、王は『イール・ダール』が妊娠していた事を知らなかったのですね」


 二人の様子を見ていたタイスィールは、何か思う所があるのか注意深くそう尋ねた。


「――好きだった。愛していた。あれ以上の存在は今も昔も未来も無い。愛しくて仕方が無かった。彼女だけがただの『アドル』として私を見てくれた。ひたむきに想いを伝えられて、もう堪らなかった。肌を重ねる度に死にたい程幸せな気持ちになった。けれど二人の関係は誰にも知られる訳にはいかなかった」


 十年間の想いを吐露するように、王は一息でそう言い、ナスルから離れる。


「彼女と私に未来は無い。だから手放した。ザキが彼女を少なからず想っていた事を知っていたから、きっと彼女を幸せにしてくれると思った。私の子供を身籠っているなんて思い付きもしなかった。私が知ったのは、カナが身を投げてからだ。偶然ラナディアと――女官の会話を聞き、全てを知った」


 疲れた様に椅子に寄りかかる。その目はどこか遠くを見るように眇められた。


「全てがどうでもよくなった。女神も世界もどうにでもなれば良い。何度も今は亡き宰相にも自分の罪深さを訴えたが、取り合ってもらえなかった。世界を混乱させるつもりかと、せめて次の王が育つまでは、と、西の長老にも諭された。言われるままにカナとザキを貶めたままにした」

 

 ああ、この人は――。

 十年間罪の意識を抱え、それでも、否応なく自分の罪の象徴でもあるナスルを側に置いてくれたのだ。


「最低な男だろう?」


 肯定しか許さないような断定した問いに、ナスルはうまく言葉が見つからず、それでも否定すべく首を振った。


 強く弱い人だと思う。


 ずっとずっと苦しんで、終焉を待ち望んでいたのは、ラナディアでは無く王だったのかもしれない。


 ナスルの言葉で踏み止まってくれた王。しかしもし真実を明かした上で、マコトが死ねば恐らく今度こそ全てを捨ててしまうだろう。



(自分がちゃんと守ってさえいれば……っ)


 砂に倒れたマコトの華奢な身体を思い出し、奥歯をきつく噛み締めたその拍子に、頭に大きな手が乗せられる。いつのまにか側に立っていたのは、タイスィールだった。


「王を止めたのは君だよ。……よくやった」


 暖かな手は、あの時の王の手とよく似ていて。


 労る様な慈愛に満ちた声は、ナスルの心を柔らかくし、そこから込み上げた何かを必死で飲み下した。





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