第八十八話 終焉 1(タイスィール視点)
王の私室へと通じる白亜の廊下を、タイスィールはナスルと共に、足早に進んでいた。
普段は白一色故に目を引く親衛隊の制服も、色の存在を許さないとでも言うようなこの場所では周囲に溶け込み、存在感を薄めるのに一役買っている。
後ろに続くナスルは、いっそ倒れてもおかしくない顔色で、ただ真っ直ぐに前を見つめ機械的に足を動かしている。しかしその張り詰めた雰囲気は、殺気と間違うほどの危うさがあり、タイスィールは、微かに視線を動かすとナスルと並ぶ為に少し歩調を緩めた。
「――ナスル」
低く抑えた声に、いつにない鈍さでナスルが顔を上げる。
元上司として、おそらく何か言うべき場面なのだろうが、タイスィールは一切慰めを口にせず、またカイスが触れた責任問題に関しても触れようとは思わなかった。ただ。
「マコトの父親に関して、王にはまだ伏せておくようにね」
前を向いたまま抑えた声で呟くと、ピクリとナスルのこめかみが動く。ややあってからくぐもった声が返って来た。
「何故ですか」
こちらに向けられた眼差しは、困惑で占められ、いつにない無防備さで問い掛けて来たナスルに、タイスィールは、ふ、と身体の力を抜いて苦笑した。
……王を護る盾として、時にその容赦の無さに冷酷だと称されるナスルは、自分が思っていたよりも純粋なのかもしれない。もしくは王に向けた崇拝と絶対の信頼の延長線上にある感情故か。どちらにせよ、王を唯一と敬愛するナスルにとって、長い間慕って仕えて来た王が、禁忌を犯しそれを黙殺していた事実は、耐え難い事だろう。王が全てを語っていれば、間違い無く彼の兄であるザキの名誉と地位は守られ、彼は王都を離れる事無く、兄弟二人で変わらぬ生活を続けて いたのかもしれないのだから。
混乱しているのであろうナスルに、追い討ちをかける様な真似はしたくないが、それでも言っておかねばならない事はある。 タイスィールは感情を排除した平坦な声で続けた。
「王がラナディア様を利用し、口封じにマコトを狙ったとも考えられる」
「……っな!」
殊更声を潜めると、色を失っていたナスルの顔色が、みるみる怒りに赤く染まっていく。物言いた気に口を開いたナスルより先回りし、タイスィールは静かに、 と、わざと眉を寄せて言葉を付け足した。
「可能性の一つとしてだよ」
王が何らかの方法でマコトの母親の存在を知っていたとしたら、禁忌を犯した自分の保身の為の一つの手段として、彼女を殺したとしてもおかしくは無い。
言葉を続ければ、ナスルは憤りを堪える様に拳をきつく握り締め、顔を正面に戻した。
(……まぁ、可能性は低いけどね)
東屋で話していた二人の様子を見れば分かる。王は始終和やかであったし、最後には笑顔を見せて楽しそうに話をしていた。
それでもタイスィールが敢えてナスルに言ったのは、彼の立ち位置を知る為だ。王都育ちで、集落に滅多に戻る事の無いナスルは、元々一族よりは王側の人間である。
カイスやサハルからマコトに対する態度が軟化したと聞いてはいたが、タイスィールが実際に見た訳では無く、少し前のナスルならば、 イブキの言葉も恐らくスェの言葉も――頑なに信じなかっただろう。故に、先程のタイスィールの言葉も、剣さえ抜きかけ無い程の形相で撤回を求めていた筈だ。 納得がいかない顔をしながらも押し黙ると言うのは、ナスルの王への絶対の忠誠心が揺らいでると見て間違いない。
(もしくは――)
マコトの存在がそれに成り代わるのか。
アクラムと目を覚ましたイブキがマコトの処置をしている間、呆然と立ち尽くしていたナスルを見て、タイスィールはそんな予感を覚えた。
タイスィールは、汗で張り付いた髪をかき上げ、一つに纏めながら、ナスルを盗み見る。張り詰めた横顔は、帰る家を見失った幼子の様に 不安そうに張り詰めている。
――恐らく、彼は王に言わないだろう。
そう結論付けて、タイスィールは心の中だけで胸を撫で下ろす。この状況でナスルの説得など手の掛かる事をする気力は湧いて来ない。納得しなければ、 殴って昏倒させ、事態が落ち着くまで部屋に押し込む以外の事はするつもりは無かった。
(手が掛からずにすんで良かったよ。カイスもナスルも大人になったものだね)
固い表情ながらも、淡々と自分に指示を下したカイスを思い出し、苦笑する。
今回の事は、情が厚い故に感情に流されやすいカイスの成長の良いきっかけにはなったかもしれない。それだけが不幸中の幸いか。
「もし王が何も知らないとして――」
護衛が途切れたその間に、タイスィールは殊更ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「王に、真実を告げる権利があるのは、マコトだけだと思わないかい?」
私でも、君でも無く。
タイスィールの言葉に、ナスルの拳が一層強く握り込まれた。
(――さて、王はどんな判断を下すのか)
沈黙したナスルから目を戻し、タイスィールは足を進める。点在していた守衛の数が増え始めるが、通常通りの配置だった。王も出来るなら事を大きくしたくは無いのだろう。
王がマコトと内密で話したい事があると伝言を頼まれた時、王が特別に目を掛けているナスルの事だろうと察しはついていた。
マコトと初めて顔を合わせた時、東屋の中でマコトと話す王の懐かしそうな惜しむ様な複雑な表情を見て、マコトに会ったばかりの自分の様に、その似通った顔立ちに、前の『イール・ダール』を重ねているのだと思った。
マコトはマコトで、イブキはイブキだと、タイスィールはすぐに重ねる事の無意味さに気付いた故に王も、マコトに会えばそう思うだろうと考えていたのだが――。
……十年前顔も見る事無く存在も知らない親子が、一目見て血の繋がりを感じるなんて現実はそれほど甘くない。恐らくマコトは王を『王』としてしか認識していない。それでも王には何か思う所があったのだろう。また、折を見ては話す機会を取ってみたいと口にしたのを意外な気持ちで聞いたのはつい先日の事だった。
王が恐らく愛した女性――マコトの母親を思い浮かべる。
十年前、タイスィールは西の村から離れ近衛の一人として王都で生活していた。
マコトの母親であった『イール・ダール』は、ザキの花嫁になるために王都から 西の村へ入る事となったその時、見送りの護衛として遠目から一度だけ見た事があった。
(……確かに言われてみれば、似てるかもしれない)
ただ纏う空気があまりにも違い過ぎて、その繋がりに一切気付けなかった。明るい無邪気な前の『イール・ダール』と、落ち着いた雰囲気のマコト。タイスィールは 頭の中で二人を並べて溜め息をついた。
……サハルは恐らく気付いていたと言うのに、その違いは何だったのだろう。
スェに向けられたサハルの静かな視線。一体いつからだったのか。マコトの側に一番に駆け付けたと言う彼に、タイスィールは、嫉妬や苛立ちよりも別の何かを感じた。
マコトの側は居心地が良い。愛し愛される幸せとは真逆の刹那的な快楽しか得た事の無い自分はきっと 彼女の傍らにいれば、満たされる。それはきっと夢見る様に幸せだろう。しかし、自分よりもそれ以上に。
(……マコトに幸せになってもらいたい)
肉欲よりも情欲よりも強い感情で、強く想う。
だからこそ、その隣に相応しいのが自分では無いような気がして。
変わらない表情の下で、タイスィールは女神の名を呼ぶ。
――女神よ。
世界をまた越えようとしている貴女の末娘を、どうか再び我等の元に。




