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第八十七話 眠りの淵の真実(カイス視点)


 その一報がカイスの耳に届いたのは、ようやく祭りの準備も終わりを見せ、西の職人達の慰労に連れ立って酒場に向かう途中での事だった。


 何の、悪い冗談だと使者を怒鳴ろうとし、目の前の男の色さえ失せた顔色に気付き、カイスの全身から血の気が引いた。何が冗談だ。『イール・ダール』のその身に関わる嘘の罪深さなど女神の怒りに触れたこの十年、幼い子供ですらも分かっているのに!


 父親の護衛の一人に後の仕切りを任せ、ただひたすらに無事を祈りながら、護衛全てを取り残し早馬を駆けつけたカイスが見たのは、神妙な面持ちで部屋に集うサハル、タイスィール、ナスル、サラ。そしてイブキとラーダだった。


 その中央にある寝台に駆け寄ったカイスは、勢いよくその中を覗き込んで、息を飲む。


「……どう、なってんだよ……っ!」


 そっと触れた色の失せた頬は、苦し気な呼吸を繰り返し、時々カイスを捉えては困惑させた深い夜色の瞳は、固く閉ざされている。その枕元で顔を覆い泣きじゃくるサラに尋ねれば、サラは微かに顔を上げただ首を振った。


「――煩い」


 マコトの足元にいたアクラムが、苛立ちを含ませた口調で詰る。短気なカイスが咄嗟に怒鳴り返さなかったのは、一度もこちらを見ないその表情が固く張り詰めていたせいだろう。その眼差しは動く事なくただひたすらにマコトに注がれ、どんな些細な変化も見逃さないとでも言う様な必死さが伝わる。


 つまりはその通り、アクラムは治療師として薬師としてマコトを診ている状態なのだ。

 苛立ちを抑え、堪える様に胸をかきむしる。確かにマコトの容態も去るものながら、マコトが刺された事を公にする訳には行かない。


「……悪かった」


 ――場をわきまえていないのは自分だ。 カイスは、マコトから一歩下がる。

触れられる程、近くにいて狼狽しない自信が無かった。それでも微かに耳に届く苦し気な吐息に胸が痛むが、息があると言う事はつまり生きていると言う事だ。

しかし、この張り詰めた空気は、予断を許さない状況なのだろう。


「誰か説明を」


 マコトが刺された――カイスが聞いた伝言は、それだけであった。一体、誰が、何の為に、いや、それよりもまずは。


「マコトは大丈夫なのか」


 カイスは首を回し、部屋の隅の椅子にラーダと共に座っているイブキを見た。

 彼女がマコトと過ごす事は聞いていたし、優秀な医者でもある。しかし、今まで気づかなかったが声を掛けたのを後悔する程彼女の顔色は悪かった。 隣のラーダに支えられてようやく身を起こしている風にも見える。そんな彼女とカイスの間に入ったのはタイスィールだった。


「傷はアクラムが塞いだが刃に塗られていた毒が抜けきらない。出血も多かった。……まだ意識は戻っていない」


 嫌に端的に語られるのが、逆に血が昇りやすい自分への配慮だと分かった。


「……助かるんだよな?」


 沈黙が落ち、タイスィールは一呼吸置いて「まだ分からない」と、首を振った。その目がマコトに注がれ、痛まし気に細められる。カイスが幾ら待っても否定の言葉は続かなかった。


「――っナスル」


 普段のカイスから想像出来ない程、低く唸る様な呼び掛けが部屋に響いた。扉近くで控えていたナスルが顔を上げたと同時に、カイスの手が伸びる。胸倉を掴んで壁に叩き付けたカイスは、堪える様な掠れた声でナスルを睨みつけた。


「お前の役目は何だった。言ってみろ……!」

「……っ『イール・ダール』の」


 護衛、締められた喉は最後の言葉を途切れさせた。ナスルの表情は硬く強張り、目の前のカイスより、何か違うものを恐る様にその視線が虚空に向けられている。深い悔恨の色をその右目の中に見たカイスは、奥歯を噛み締め、ナスルを下ろそうとしたその時、


「待って! 違うの! ナスルがマコトを助けられなかったのは、あたしの、……せいなの! あたしが倒れて、こっちに来てくれたから」


 悲鳴の様な叫びが二人の間を割った。舌打ちしたい心地でイブキに視線を投げようとした自分に気付き、ぐっと腹に力を入れそれを堪える。


 ――何らかの理由でイブキが倒れ、ナスルはそれを介護しに行った。マコト同様イブキもその腹の子供も、この世界にとって大事な存在である。おそらく側にいたのはナスルだけで、もしかすると、マコトがイブキを助ける様にナスルに頼んだかもしれない。


 しかし、もし――護衛が二人いたならば、状況は違っていた筈だろう。自分の采配の甘さと不甲斐なさに苛立ち、その責任を転嫁してナスルに八つ当たりをしたのだと認め、カイスはナスルから、目を逸らした。


「……悪かった」


 囁く様な小さな謝罪に、ナスルは一瞬顔を歪ませた。俯いた拍子に流れた長い前髪が、その表情を覆い隠す。


「……っいっそ……」


 血を吐くような苦さで吐き捨てられた言葉は、途中で途切れた。けれど、その続きはここにいた全員が分かった。彼もまた悔いているのだ、と。


 カイスは、ナスルから離れ、沸騰するように熱い頭を切り替えるべく、きつく瞼を閉じる。自分が今、しなければならないのは、ナスルを責める事では無く、現状を把握し、対処する事だ。マコトが目覚めた時、――大丈夫、信じている。


 むしろ助かる以外の選択肢など認めない――安心して笑える様に、憂いを全て取り除いて安全なその場所を用意するのだ。


 何か集中していないと、見えない背後から、地面が崩れ落ちていく不安が身体中を蝕みそうで。


「犯人は」

「ラ、ラナディア様ですっ」


 カイスの問い掛けに答えたのは、か細いサラの声だった。よほど泣いたのか、目は真っ赤に充血し、声も低く掠れていた。


「王の第二王妃が――」


 そう繰り返し、カイス込み上げた苦い物を飲み下す。


 馬鹿な。タイスィールから聞いていたのに、王側の干渉を恐れ、護衛を増やすどころかサラにすら何も言わなかった。第二王妃の世俗離れした幼さ故に、子供染みた嫉妬はあってもマコトに対して実害を加える事はしてないだろうと、高を括っていた。


(俺は、馬鹿だ)


 どうしてあの時、もっと真面目にタイスィールの話を聞かなかったのだろう。



「ラナディアが自分の手を汚してまで害そうとするほど、マコトが憎かったのか?」


 地位や世界の均衡が分からない程幼かったのか、それら全てを捨ても良いほどマコトを排除したかったのか。 

 マコトは人の恨みを買う様な性格では無いし、そもそもラナディアとの接点など謁見の時以外にあったのだろうか。


「最初に会ったのは、マコト様が迷子になった時ですわ。それから謁見の時も、退室したマコト様をわざわざ追い掛けていらして、その時は軽い挨拶をされただけでしたけど……」


 何か思い当たったように言葉を途切れさせた、サラにカイスは頷いて続きを促した。


「嫌な予感がしたんです。マコト様は気付いておられなかった様ですが、その時の、ラナディア様の雰囲気が、こう……不自然な位、妙に機嫌が良くて」


 ぴったりな言葉が見つからない様に、サラは迷いながらもゆっくりと言葉を紡ぎ、言葉足らずで終わったその続きを、タイスィールが引き受けた。


「ラナディア様が、マコトを刺したのは、前の『イール・ダール』との確執のせいだ。カイス、ナスルを責めるなら、私の方が罪深い。彼女が何かしら企んでいるのは分かっていたからね」


 タイスィールの言葉が、同じ立場であるカイスの心臓に突き刺さった。きっと事情を知っていたサハルも、同じ位、悔いている。

 

「前の」


 イブキの声は零れ落ち、ラーダに肩を抱かれたまま手にしていた何かを固く握り締めた。微かに見覚えのあるそれに、カイスは眉をひそめたが、それよりもタイスィールの言葉が気に掛かる。


 第二とはいえ、正妃が王と噂のあった女――例え、世界を潤わせる『イール・ダール』だとしても面白く無いのは、分かる。タイスィールに聞いた時も、女の世界のよくある話だと、軽い気持ちで流していたが、同じ『イール・ダール』と言うだけで、なぜそんな凶行に出たのか。


 カイスが口を開こうとした時、勢いよく扉が開かれた。


 反射的に腰の剣に手を伸ばしていたナスルは、その人物を見とめると、微かに驚きを見せ、後ろに下がった。


 スェは大股で部屋を横切ると、カイスの脇を通り抜けマコトの元へと歩み寄る。その進路をカイスとタイスィールが素早く移動し、立ち塞がった。


「どけ。顔を見たいだけだ」


 スェの表情には、いつもの気障な笑みは無い。真っ直ぐに寝台に注がれた視線を見れば、マコトが刺された事も既に知ってここまでやって来たのだろう。 そしてそれを教え、ここまで案内したであろう人物を、カイスは鋭い目で睨む。スェの後から少し遅れて入って来たのは、王の親衛隊長でもあるスィナーンだった。



* * *




「ぇ……ザキ……? なんで……っ」


 突然のスェの登場に、静まり返った部屋の中、最初に声を発したのはイブキだった。隣にいたラーダも驚いた様に目を見開いて彼を凝視する。彼らに取っては、十年振りとなる再会に、カイスはスェの前に立ち塞がったままだったが、開きかけた口を閉じた。


「――ああイブキか。久しぶり。変わってねぇな」


 スェは、懐かしそうに目を眇めて、イブキを見た。


「ザキ……っザキ、今まで、何して……ッ」


 時が止まった様に、スェを凝視していたイブキが、ソファから立ち上がる。ふらりと傾いたイブキの身体をラーダが支えた。


「連絡しなくて悪かったな。それなりに楽しくやってたよ」


 安心させる様に、スェは口の端を吊り上げる。カイスにとっては、気障ったらしい嫌な笑みだが、イブキやラーダにとってはそうでは無いらしい。


 微かに困った様な嬉しそうな複雑な表情で黙り込んだイブキは、少し間を置いて口を開く。


「でも、どうしてここに……?」


 他に聞きたい事はあるだろうに、その問いはカイス達の為のものだった。カイスやタイスィールが尋ねたとしてもきっとスェは素直に 応えないだろう。そしてスェはマコトへと再び視線を戻した。


「嬢ちゃんが刺されたって聞いて、な。……まだ、危ない状態みたいだな」


 部屋の雰囲気とマコトの顔色の悪さで察したのだろう。スェは最後は呟く様に漏らすと、眉間に深い皺を刻む。


「まさか……知ってたの」


 目を見開いたイブキは手の中の手帳から一枚の紙を差し出した。それを見たスェは、泣くような懐かしむ様な複雑な表情で笑い少し緊張した手付きで、そっと受け取った。


 ああ、と吐息の様に漏れた声は、写真の中で微笑む彼女へと落ちた。

 その様子に側にいたタイスィールが、了承を得る様にイブキを見ると、スェは静かにそれを返しカイスとタイスィールの目の前に掲げた。


「マコトと……隣の、は」


 それほど似てはいないが、年回りと、マコトの肩に添えられた手の親しさから察するに、親子に違い無いだろう。マコトの持ち物は最初に全て目を通していたし、北のイルヨル兄弟が持ち込んだものも然りだったが、カイスには見覚えが無かった。


 しかし母が持ち込んだ中に同じものがあったので、カイスはそれが何であるのか知っていた。精巧な過去の画……『シャシン』と呼ばれるものだ。


「母親……?」


 その言葉にマコトの側から立ち上がったサラが、写真を覗き込み遠慮がちに口を開いた。


「マコト様のお母様ですわ。北の方々が帰った時に、見せて頂きましたもの……亡くなったと仰ってましたけど」


 予想は当たったらしい。

 しかしこれがどうしたのかと、顔を上げれば、横にいたタイスィールが食い入る様にそれを見ている事に気付く。


「……カナ、さん」


 溢れ落ちた呟きに、カイスは眉を顰める。


 カナ?


 どこかで聞いた――、と記憶を探る前に、スェが静かに口を開いた。



「前の『イール・ダール』だ」


 思いがけない言葉に、カイスは目の前のシャシンを凝視した。

 確かに黒髪で、小柄。伝え聞いた容貌と一致するが、向こうの世界ではそう珍しくないはずだ。


 それに、彼女はオアシスに身を投げて死んだはず。


「……どういう事だよ。確か子供がいるような年でも無かったはずだ。時間がおかしいだろ……っ」

「女神の御手は時空を裂く。時間の流れはこの世界と同一では無い」


 カイスが疑問をそのまま口に出せば、アクラムが静かに口を挟んだ。


 それは、女神に呼ばれた『イール・ダール』を、元の世界に戻る事を諦めさせ、この世界に馴染ませる為の常套句だった。

 故にカイスも知ってはいたが、確かめ様の無い事実にどこか話半分に聞いていた。


「カナはあの時、妊娠していた。向こうとこちらの時差を考えれば、おそらくマコトはその時の子供だろう」


 突然の情報に、カイスは混乱する。

 ……マコトが前の『イール・ダール』の子供?


「イブキは、カナが妊娠してた事知ってたんだな? お前が、あれだけ慕ってた西の長老を避け始めたのはそれが原因か?」


 どこか確信を込めた言い方でそう聞いたのは、隣でイブキを支えていたラーダだった。

 西の長老と言えば、カイスの祖父である。なぜここでその名前が、と疑問に思えば、すぐにイブキから答えが返ってきた。


「……あの時はまだ何も知らなくて。カナが消えてザキが消えて、不自然すぎでしょ?  だから長老を問い詰めたのよ。じゃあカナは妊娠していて、それがバレたら王も責任を取らされる事になるって、それをカナに伝えたって言ったのよ。だからあたしは」


 その言葉にカイスは眉を顰める。

 王も責任を――今、イブキはそう言った。『イール・ダール』の子供の父親は。


「自殺じゃない。還ったんだ」

「長老は、元の世界に還れるなんて言わなかったわ!」


「神話に記述があるだけの一か八かの可能性だったからな。お前に後を追われても困ると思ったのだろう。カナは微かな可能性に縋って身を投げた。腹の子供を処分されないように」


「……ではマコトの父親は」


 タイスィールは、ゆっくりと尋ねる。カイスは、その答えを予感し、肌が粟立つのを感じた。


「俺じゃねぇよ。そうだったら良かったけどな」


 汗で張り付いたマコトの前髪を掻き分けて、愛おし気に撫でるその仕草は、父親そのものだ。しかし、彼はそうでは無く。


「……髪見れば分かるだろ」


 全員の視線が、マコトの髪に集まる。スェの赤い髪は、カイスの銀髪と同様必ず遺伝する。そして同時に理解した。


 なぜ母親が命を掛けて飛び込んだのか。なぜスェが姿を消したのか。


「――王、ですか」


 それまで黙っていたナスルは、青褪めた顔で呟いた。

 王族が『イール・ダール』と結ばれるのはその血の濃さからも禁忌とされている。それは初代の『イール・ダール』を王が娶った時からの四族との間との約定であり、世界の理だった。


「……カナ一人に全てを押し付けて! あいつだけがのうのうと傅かれて。だから嫌いだった! 顔なんて見たく無かった、王都なんて来たく無かった!」


「でもカナは死んで無かった」


 激昂するイブキを宥める様に、ラーダが呟くと、イブキは目に涙を溜めて夫に噛み付いた。


「同じよ! まだ十七歳だったのに。向こうの世界じゃまだ成人すらしてないの! まだ高校生だったカナが大きなお腹を抱えてどれだけ苦労したと思うの。カナだってマコトだってきっと苦労して……っ可哀想だわ!」


 同じ世界を知るイブキの言葉は、カイスにとって重かった。しかし。


「イブキ。待て」


 頬に流れた涙を乱暴に腕で拭い、イブキは睨む様にスェを見た。


「なんでコイツが可哀想なんだよ。マコトは謙虚だが卑屈じゃないだろ」

「……え?」


 イブキが戸惑い全員の視線がスェに集まった。


「ちゃんと愛情掛けて手間隙かけて育てられた娘だ。だから、早く死んだのは心残りだったはずだが、死ぬまでは幸せだったのだろう。じゃなきゃ嬢ちゃんがあんなに優しい訳ない」


 ……確かに彼女の優しさは本物だ。この二月近くで見ていた自分がよく知っている。



「それに、この『シャシン』見てみろよ。二人とも良い顔してるだろ」


 手元に戻し、スェは大事な宝物を扱うように、そっと愛し気に撫でた。


 いつものスェからは、想像出来ないその慈愛に満ちた行為に、カイスは違和感を覚える。

 イブキの言葉を聞き長老に憤りマコトに同情した自分。これではスェの方がマコトの事を分かっている様で、微かな嫉妬が胸を焼いた。


「なんで、アンタがマコトを気にするんだよ。どっちかって言うと……」


 言葉にしたのは反抗心からだったが、意識が無いとは言え、その続きをマコトがいる前で聞くのは憚れた。


「……複雑なんだよなぁ。それは」


 スェは苦笑し、肩をそびやかす。


「――私もそれを聞きたいです。そこだけが分からない」


 誤魔化される、と予感したカイスが口を開くよりも前に、それまで黙っていたサハルが口を開いた。

 そこで初めてカイスは気付いた。一族に関わる緊急事態が起きた場合、いつもカイスの問いに答えてくれるのは、サハルの役目だったのに彼はこれまで一切口を挟まなかったのだ。


 しかし思えば――カイスが、いやこの場にいたイブキ以外の全員が驚いた過去の事実に、サハルは声すら上げず、動じていなかったようにも思える。


(まさか……気付いてたのか?)


 そこだけが分からない、と、確かにサハルは言った。つまりはそれ以外は分かっていた、と言う事なのだろうか。


 マコトが前の『イール・ダール』カナの娘で、王の血を引いている事を。


 ……一体、いつから。


 サハルに問おうとして口を開きかけたカイスだったが、重たそうに話し出したスェに、一旦口を閉じた。


「俺が、今でもカナを愛してるからだよ。面影のある彼女を守りたいと思うのは当然だろ。カナと俺はあの日に婚姻を結んだ。マコトは義理とは言え俺の娘になるだろうが」


(義理の娘……?)


 意外な言葉に、カイスは目を瞬いた。


「分かりました」


 あっさりと頷いたサハルにカイスは驚く。自分には不自然としか思えないスェの行動の意味が、サハルには分かると言うのだろうか。


 愛しているから、自分の子供でも無い、しかも引き裂かれる原因となった子供を守る?

 しかし微かにスェの目に滲んだのは確かな親愛の情――それを確かめ、カイスはますます眉を寄せた。


(……わっかんねぇ。普通は憎いんじゃないのか? 引き裂かれる原因になった子供なんて)


 けれど、以前にハスィーブの庭で会った時の、スェの意味深な発言の意味が分かった。マコトの婚約者候補なら、義理の父親を敬え、と言う事なのだろう。微かな後悔が芽生えかけるが、今はそんな場合では無い。


「あともう一つ。貴方はラナディア様が心配で王城に戻って来たんですね?」


 続けられたサハルの言葉に、スェはくしゃりと前髪を掻き上げる。ややってから、苦虫を潰した様な顔で頷いた。


「ああ、ラナディアは昔からアドルに執着している。カナの気持ちを周囲に漏らしたのはラナディアだ。それに、腹の子の父親に一番初めに気付いたのもラナディアで、西の長老に進言したのもそうだ。徹底的に排除したかったのだろうな」


 でも、間に合わなかった。


「けど、言い訳になるが普段表に出ないラナディアが、マコトに危害を加えるとは思わなかった。あんまり似てねぇし、黒髪、小柄は民族的な特徴で、他にもいる。父親である王だって、気付かなかったからな。念の為って気持ちの方が強かった」


 スェが最初の段階で言ってくれれば――、一瞬そう思ってカイスは頭の中で否定する。本人すらも知らない秘密を他人に漏らすのは得策では無い。


 ……思えば、彼の存在、言動全てが、十年前の出来事を示す欠片だったのだろう。自分はただそれを年寄りのたわ言だと片付け、サハルは恐らく――一つずつ紐解いていたのだろう。


 何度目かの自嘲めいた溜め息をつく。過去は過去。どんな事情があるにしろ、目の前にいる男がマコトに危害を加える事は無いだろう。それだけは確かだ。


 ちらりと伺い見たサハルは、真っ直ぐにスェを見つめていた。しばらくしてから分かったと言う様に、軽く頭を下げると、再びマコトへと視線を戻す。それを追い掛けて 、マコトの苦し気な横顔を再び見る事になったカイスは顔を歪めた。


 ――戻って来い。


 要領も悪くて、気遣いも出来ない自分だけど、出来る事なら何でもする。だから――。



「――タイスィール。王に事情を説明して来てくれ。目撃者はどれ位か調べて可能なら親父の名前で箝口令を引いて極秘にする。俺は頭領に伝えに行く。ナスルは、タイスィールに付いて行け」


 本当は、離れたくなどない。

 けれど、ここにいても自分の出来る事は無い。



 淡々と指示を飛ばしたカイスに、タイスィールは微かに目を瞠り、頷いた。


「分かった。……ハッシュとサーディンはどうする」

「……ハッシュは今、大事な時期だろ。サーディンにも伝えない方が良い。まだ事情も聞いてないラナディアに何しでかすか分からないからな――今、ラナディアはどこに?」


「本宮の一室に身柄は拘束済だが、会話にならない程、興奮していたから、王から許可を得て薬を盛った。部屋の中に親衛隊を置いている」

「ラナディアの処罰は王の管轄だ。任せる、と伝えてくれ」


「――サハル」


 ふと、サハルはどうするのかと思い、カイスはいつも頼りになる幼馴染の名前を呼んだ。しかし彼は何も答えず、反対側にいるアクラムと同じく、じっとマコトを見下ろしている。彼は、動かないつもりなのだろうか。


「サハルがマコトをここまで連れて来た。それ以来全く喋らずあの調子だ」


 やはり最初に駆け付けたのは、サハルだったのか。

 どこかで予想していた現実にカイスは唇を噛む。


 今まで寝台の影になって分からなかったが、それを証明するように、サハルの胸から腹に掛けて血で染まって既に黒く変色している。マコトの血――その出血量に目眩を感じた。


(あんなに――)


 出血して。

 マコトはどんなに痛かっただろう。

 カイスは胃の中の物がせり上がってくるのを感じ、顔を歪めて目を逸らした。



「サハルは、ちょうどハスィーブに長期休暇を取った所だったらしい。我々は他の部族に知られ無いように、普段通りにふるまう必要がある。看病はサハルとサラに任せよう」


「……分かった」

「私も看るわよ」


 彼女もまた貴重な『イール・ダール』で、身重である。あまり面識が無い故に無碍に断れないカイスは救いを求めるようにタイスィールに視線を流した。心得たように頷いたタイスィールは、カイスに向かって軽く頷く。


「……イブキさんは、無理の無い範囲でね。何かあったらマコトが悲しみますから」


 その言葉に、イブキはやや不満そうながらも、お腹を摩り頷いた。


 カイスは目に焼き付けるようにマコトの顔を見下ろし、タイスィールと共に踵を返して扉から出て行く。いつのまにかスィナーンの姿が無い事に気付いたが、彼は何となくマコトが刺された事は漏らさないと分かっていた。


 その途中で立ち止まると、カイスは呼びかけるような少し大きな声でサハルの名を呼んだ。


「服着替えとけよ。マコトが――起きたら、きっと驚く」


 サハルは、ゆっくりと顔を上げた。

 きっと起きる、目を覚ます。当然の様にカイスはそう言った。


 そして、そんなカイスの意図を察したのだろう。サハルは苦笑めいた笑みを浮かべ、小さく頷いた。



 

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