第八十四話 再会 3
「えっと……こんなものでいいかな、と」
そう呟くと、マコトは机の上に置いた皮鞄のファスナーを閉めて、両手に抱え込む。中には、マコトがこの世界に持ち込んだ、手帳、ハンカチ……小物の数々が入っていた。
イブキとの約束は朝食後――昨日の内にサラは予定を確かめ、いつでもいいとの返事を持ってきてくれた。マコトはその言葉に甘えてマコトは早速訪ねる事にしたのだった。
(昨日夜更かししすぎちゃったなぁ……)
たっぷりと星を見た後ナスルに促され戻ったのだが、閉じた瞼の裏にも焼き付いた様に星が瞬いて、暫く眠る事が出来なかった。
二日続けての夜更かしに、マコトは小さく欠伸を噛み殺す。
ちなみにサラは昨日に引き続き、衣装の打ち合わせ中で部屋にはいない。朝食で聞いた話によると、他の『イール・ダール』の一人とデザインが被ってしまったらしい。そうなると、当然ながら新参者であるマコトが引かなくてはならず、衣装を一手に引き受けていたサラは、一から作り直すべく朝から生地や針子の手配に忙しく、朝に顔を合わせたきり、ずっと外出していた。
サラには手間を掛けさせる分、可哀想な事になったと思うが、イブキと二人きりで話す為に、どう言えばサラは傷付く事無く席を外してくれるだろうと悩んでいたので、まさに渡りに船の展開だった。
心の中でサラに謝りつつマコトは、そっと扉を開ける。いつもと同じ位置にいるナスルを見上げると、笑顔を作った。
「おはようございます。昨日はどうも有難うございました」
ぺこりと頭を下げたマコトに、すっとナスルな目が細くなる。暫くしてから、「……いえ」と低く掠れた声が返って来た。少し待ってみるが、やはり会話をこれで終了の様だ。
――おあいこにするとお互い決めたのだ。もう負い目も貸しも借りも無い。
しかし、ナスルの固い返事に、マコトはほんの少しだけ肩を落とした。
(……昨日の今日ですぐ仲良くなれる訳無いし……それに、前に比べれば睨まれずにちゃんと返事してくれてるだけマシだよね)
ナスルとの溝を埋める為のた時間は、恐らく短い。
誰に言われた訳でも無いが、何となく祭りが終わればマコトは、西の一族の村に戻るのだろうと思っていた。
「お持ち致します」
マコトが抱えた鞄を見て、ナスルは手を差し出す。入っているのは小物だけで、重い訳でも無いので、マコトは首を振って大丈夫です、と断った。
(……今年は無理でも、きっと来年もあるし)
前向きに前向きに、とマコトは心の中で唱えて気持ちを切り替えると、しっかりと鞄を抱え込み、イブキの部屋へと向かったのだった。
部屋を訪ねたマコトにイブキは笑顔で歓迎してくれた。
以前と比べると血色も良く、マコトはほっとして挨拶を返す。
自然と見渡してしまった部屋は、マコトの部屋と同じ造りだった。部屋の一角には、贈り物と思わしき子供の玩具や肌着、縫いぐるみまで高々と積まれていて、マコトは村で似たような光景を見たなぁ、と思う。イブキはそんなマコトの視線を追うと、小さく肩を竦めて舌を出した。
「いくらなんでも気が早いわよねぇ。贈り物ですって」
木馬や小さな玩具を指さして、どこか照れくさそうなイブキが、とても可愛く思えてマコトは小さく笑う。勧められるままソファに腰掛け、そこでようやくいつもイブキの側にいるラーダがいない事に気付いた。
「ラーダさんはお出かけですか?」
「そうよ。ここ一応元職場じゃない? 挨拶回りとか色々回ってるのよ」
少しぽっちゃりした女官がお茶を用意し、静かに部屋から退室する。それを見計らってイブキは、ソファの足元に置いたマコトの鞄を指さした。
「もしかして、それ持って来てくれたの?」
特に相談がある、と言ってあった訳では無い。話の合間にサハルの事を少しだけ相談出来ればいいと思っていたマコトは頷いてから、鞄の取っ手を持ち上げ、膝の上に置いた。
ファスナーを引っ張り卒業証書に、スケジュール帳と生徒手帳、筆記用具を取り出す。
「うわ……予想してたけど、女子高生らしさの欠片も無いわね」
「どういう意味ですか」
大袈裟なイブキの言葉にマコトは苦笑して答える。確かに友人は鞄にじゃらじゃらキーホルダーと縫いぐるみを付け、筆箱は派手に装飾されていたが、自分はシンプルなのが好きなので 友人からお土産に貰った小さな人形が一つ着いているだけだ。他は何の飾り気も無い布の筆箱には、シャーペンと消ゴム、蛍光ペン。一通り揃っている。ふと思い付き、シャーペンを摘み上げたイブキに声を掛ける。
「イブキさん。ボールペンとかシャーペンとか筆記用具いりますか?」
患者のカルテや何かに使うだろうかと考えて、尋ねると懐かしそうにシャーペンの芯をカチカチ伸ばしながら、首を振った。
「うーん。こっちの紙って荒いじゃない? 引っ掛かって字書けないと思うのよね。衛生的だし便利なんだけどな~」
そう言いながらも、芯を引っ込めては出す、の作業を繰り返すイブキに、じゃあ、記念にそれだけ貰って下さい、とマコトは笑う。同じ様なシャーペンはまだ二、三本残っているし、この世界では使えないなら記念品代わりに一本あれば問題無い。
「あと他には……」
何か面白い物はあったか、とマコトが机の上の手帳を手に取ろうとした時、コンコン、と控え目なノックが部屋に響いた。奥の部屋に控えていた女官が、素早く移動し扉を開ける。そこにいたのは、今日サラの代わりに部屋に詰めてくれていた女官だった。
「『イール・ダール』様。ご歓談中に申し訳ありません」
二人の『イール・ダール』に緊張しているのか、硬い表情で深々と首を下げた女官に、マコトはソファから立ち上がり扉まで駆け寄った。
「どうかされたんですか?」
「あの、ラナディア様の女官が参られて、王の事で大事な話があるから、すぐ南の花園に来て頂けないかとの仰いまして。私、返事を待って下さる様に頼んだんですけど、すぐに行ってしまわれて……」
「王の……?」
突然の事にマコトは、首を傾げて問い返す。女官も伝えたものの困った様にマコトを見つめるだけだった。この様子では一方的に伝言を頼まれたのだろう。
しかし、あの『王』の事。気になる事は確かだ。
(もしかしてまた抜け出したとかなのかな?)
大事な話――しかも緊急の、と言われればそれ以外に思い当たらず、マコトは首を捻る。
(まぁいいか。行けば分るよね……)
サラがいなくても、きっとナスルは着いて来てくれるだろうし、相手が王の后であるラナディアなら何の問題も無いだろう。むしろ勝手に断って不興を買う事になるよりは素直に行った方がいいだろう。
しかし今日の本来の目的であるイブキへの相談は、またの機会になりそうだ。マコトは女官にショールを持って来る様に頼んで、元いたソファに戻った。
「またお客さん?」
お茶を啜っていたイブキに上目遣いに伺われ、マコトは曖昧に頷く。イブキが王の事を嫌っているのは知っている。わざわざ名前を出して嫌な気分にさせる事は無いだろう。
「せっかく約束して貰ったのにすみません。南の庭園に行って来ますね」
ラナディアの花園には触れず、マコトは曖昧にぼかす。あの辺一帯は、まとめて南の庭園と呼ばれているので嘘では無い。
「ああ、あそこ? あの辺涼しいもんね」
確かにあの辺りは、転々と東屋や椅子があり、散歩するにはいい場所で、マコトも幾つかの会談はそこで行なっている。
「イブキさん。じゃあ、これ預かっててくれますか? 適当に見て貰って構いませんし。話が早く終わったらまた戻って来たいし、いいですか?」
「あたしは大歓迎よ。でもいいの~? 日記とか見ちゃうわよ?」
猫の様ににやっと笑って、イブキは手帳を持ち上げる。
「あはは。無いですよ。スケジュール帳はアルバイトのシフト書く為に、買った様なものですから」
マコトは、扉近くに控えていた女官にお茶の礼を言うと、少し急ぎ足で出ていった。
「――あ、バルコニーから出た方が近いって教えてあげたら良かった」
足音が遠ざかって暫くしてから、残ったイブキは、バルコニーの外を見て一人ごちた。
遠目に見えるのは、一際目に眩しい護衛の赤い髪。きっと、その後ろにいるだろう少女は、生い茂った緑のせいで見えなかった。
視線を戻し、机の上の手帳に触れる。この世界には存在しないゴム製のビニールカバーの感触が、嫌に懐かしい。
(妊娠中って、いちいち感傷的になるのよね~……)
どこか切なくなった気持ちを振り払うべく、ページを捲る。マコトらしい几帳面な綺麗な文字でバイトのシフトが書かれており、時々友人との約束や誕生日が書き込まれていた。
「……ちゃんと高校生してるじゃない」
どこかほっとしたようにイブキは呟き、膝元に手帳を置く。
高校生……イブキにしてみれば二十年以上前の事だ。元々開業医の娘であったイブキは、家の後を継ぐべく、早い段階から医学部を目指していた。それでも受験勉強の傍ら、友人やその当時付き合っていた彼氏と息抜きと称してバカ騒ぎしていた。
――もう会えなくなった友人は元気だろうか。イブキの時代から比べると明らかに画質の良いプリクラのページを見つめてそう思う。
膝に置いた手帳を持ち上げ、次のページを捲ると、ひらり、と何か紙の様なものが落ちる。それが写真だと気付いたイブキは慌てて絨毯に落ちたそれを慌てて掬い上げた。
友人と撮った写真だろうか――何気なくそう思って表を返す。
造花で飾られた入学式の白い看板。
写真の隅には当然の様に桜の枝が掛かっていて、絵に描いた様な綺麗な一コマだった。
そこには真新しい制服の身を包み今よりも幼い顔で微笑む、マコトと――。
「……え?」
戸惑いが口をついた。
――イブキさん。
控え目な笑顔が鮮やかに蘇る。
――私、一人っ子だったから、イブキさんがお姉さんみたいで嬉しい。
この世界の誰よりも近い存在だった。頼って慕って甘えてくれる彼女がいるから――彼女がいたから、プライドの高い自分は、『自分らしく』立っていられた。
彼女の『自殺』は、イブキの自尊心も医者としての矜持も何もかもを壊した。苦くひたすらに哀しい過去が、蓋を開けて蘇る。
「……なんで……」
イブキは手にしていた手帳を机に戻すと、その隣に置かれた生徒手帳を慎重に捲る。視線を滑らせ、目的のページを凝視する。
心臓が痛いほど早鐘を打って、辿り着いた保護者欄のそこには。
『佐々木 香奈』
――懐かしい、癖のある丸い文字で、そう書かれていた。




