最終楽章 「日常に残った悪夢」
最終楽章の時間軸は、N0790GM「音楽室に光る眼」の第3章「残されたモノ」と同時期を想定しています。
何とか日常に帰還出来た私だけど、気掛かりな事が残っている。
あの男は鏡面世界で長く過ごした結果、鏡面世界の環境に適応した体質に、いつの間にやら変化していた。
お風呂にもロクに入っていなさそうだったのに、男から体臭が全くしなかったのも、新陳代謝が著しく低下してたためなんだろうね。
特異体質の一症状として。
そして、その特異体質のため、現実世界の環境に拒絶反応を起こして消滅した。
だとしたら、短期間とはいえ鏡面世界を通り抜けた私の身体もまた、何らかの影響を受けているのではないだろうか?
その事に思い至ってから、私は暇さえあれば鏡で自分の姿を確認せずにはいられなくなってしまったの。
音大を卒業してからも、プロのヴァイオリン奏者としてオーケストラに所属してからも、結婚して1児の母となってからも、この習慣は変わらなかった…
そして、あの地下練習室での事件から10年程の歳月が過ぎて…
音大時代からの友達と一緒に弥生文化博物館で開催した、「ピアノ&ヴァイオリン デュオ・コンサート」の帰り。
打ち上げとママ友会も兼ねて入店した和泉市の喫茶店で、オーダーを決めた私は早速コンパクトを手に取り、まだ自分の顔が無事である事を鏡で確認した。
「音大の時からそうだけど…浪切さんって身嗜みチェックに余念がないよね。」
先のコンサートの共演者である笛荷千恵子さんが、半ば呆れたような微笑を私に向けて投げかけている。
千恵子さんはピアニストとして、私はヴァイオリニストとして。
同じ堺県トリ・コンフィネ交響楽団に所属する私達は、学生時代からの友達という縁もあり、よく共演する機会に恵まれているの。
「そうかな、ママ?私は良い事だと思うよ!ママも茉莉さんも奏者としてステージに立つんだから、お洒落やお化粧は大切じゃない。」
私の肩を持ってくれたのは、千恵子さんの娘である興奈ちゃんだった。
娘同士が同い年という事もあって、私と千恵子さんの関係には「ママ友」という意味合いも含まれているんだ。
「ネットや雑誌でママが『美人ピアニスト』って紹介されると、私だって嬉しくなっちゃうもん。マドカちゃんだって、そう思うでしょ?今日のコンサートでは、美しくおめかししたお母さんがヴァイオリンを巧みに演奏する姿を、最前列の特等席で堪能出来たんだもの。」
「うん!水色のドレスを着たお母さん、とっても綺麗だった!まるで『不可思議少女オレルヤ・ジャンヌ』みたい!」
私の娘であるマドカに興奈ちゃんは優しく接してくれるし、そんな興奈ちゃんにマドカもすっかり懐いてくれているし。
良好な友達関係が築けているのは何よりだけど、興奈ちゃんは娘と同い年の友達というより、年上のお姉さんのように思えてしまう。
それは興奈ちゃんが、幼稚園年中組にしては妙に大人びた落ち着きを身に着けているからなのだろう。
今日のコンサートにしても、マドカは落ち着きなく視線を彷徨わせていたのに、興奈ちゃんは一音たりとも聞き漏らすまいという真摯な姿勢で、私と千恵子さんが奏でるサン・サーンスの「白鳥」に聞き入っていた。
-淀みない清流のような透明感と、儚げな気高さ。そして何より、それらを成し遂げる息の合った調和。この美しい2重奏は、音大時代からの親友である母と茉莉さんだからこそ成し得た、友情の芸術だと思います。
先の感想など、娘のマドカでは逆立ちしても出せないだろう。
子供向け番組を例えに出す娘の方が年相応の反応なのだと、頭では分かっているのだけれど…
そんな私の平和な物思いは、儚くも一瞬で崩されてしまう事になる。
「あっ!お母さんの顔、ひび割れてるよ!」
愛娘であるマドカの、何気ない一言で。
「えっ、嘘っ!何処に…」
パニックに陥った私は、コンパクトの鏡で必死になって自分の顔を確認した。
「そんなっ…顔が…私の顔が!」
私も顔面に亀裂が走り、粉々に砕け散ってしまうのだろうか。
あの男のように…
「落ち着いて、浪切さん。ファンデーションがひび割れただけだから。」
「ダメだよ、マドカちゃん。自分のお母さんをビックリさせるなんて…」
千恵子さんと興奈ちゃんの取り成しで、何とか落ち着きは取り戻せたものの、私の心の曇りは完全には晴れてくれなかった。
私はいつになったら、この不安から解放されるのだろう。
あの男の無残な末路が瞳に焼き付いている限り、その時は訪れないのだろうか?




