レティシア:谷、谷、谷。その果てに——(後編)
組織は大きくなっていき、指示を出すことにも慣れてきた。
教会は相変わらずで、剣闘奴隷の名前も剣闘士と表面を変えたところで相変わらず。
魔峡谷の肉盾には、私よりも酷い紋付きの女がいるらしい。
私の先輩を蹂躙した戦士は、魔物相手にはまるで動かないとか。
人間相手でないと強く出られないのなら、何のための女神の職業なんだか。
そんな中、私を訪ねてきた人物がいるという。
……もう自分の名前を覚えている人なんて、『不可視』のメンバーしかいないはず。
教会の人間なら……いや、今更だし、あいつは私が【アサシン】であること自体を知らない。
会ってみたいと思った。
そこで私は、求めていた再会を果たす。
「ヴィッキー!」
最後に別れた時から更に柔らかくなったヴィッキーは、なんと母親になっていた。
びっくりだ。そりゃあ人気剣闘士様も丸くなるよね。
一方、依頼内容はとんでもないものだった。
「アタシが望んでいるのはね――帝国最高権力者の完全失墜よ」
王国から来た凄い美人で豪胆な人は、とんでもないことを言った。
最初は、皇帝陛下への反逆かと思った。違った。
教会を完全にひっくり返す気だ。
あの『カジノ・グランドバート』も、この人達がやったらしい。
心の中で、浮き足立つ自分がいる。
同時に――あの全てが無くなった荒れ地が頭をよぎる。
私は結局、依頼を断った。意外にも女性はすぐに引き下がった。
ただ、一人。気になる質問をした者がいた。
「なれるとしたら、こうなりたいみたいなのって、あったりしますか?」
私は、嫌味な言葉で返してしまった。
自分で言い聞かせるように、仕方ないことと言った。
でも、自分が今から何かになれるのなら――。
一瞬ヴィクトリアが娘の話をした時の嬉しそうな表情を思い出す。
見たことがない顔。本当に本人かと思ってしまうぐらい、優しい顔になっていた。
何より……奴隷紋がなくなっていたのだ。
彼女は完全に、何の後ろ暗さもなく光の中を歩ける、セントゴダート王国の母親へと変貌していた。
言われてしまい、強く意識してしまった。やりたいこと、なりたい自分。
男女二人組。ヴィッキーの幸せそうな顔。
突如、眼帯に走る幻痛が私を現実に引き戻す。
鏡を見た時の衝撃を忘れたのか。
全身の生傷、体を見られ、失望でもされたら――。
考えをやめた私は、ジェロームに指示を出す。
「教会の周りを徹底調査。良くも悪くも事態が動くかもしれない、その時に成功率を上げたい――」
――もう二度と失わないために。
変化は、思わぬ方向から襲ってくる。
つい最近起こった魔峡谷の魔物氾濫、それがまた起こるとは。
そう呑気に聞いていられたのも、そこまでだった。
入口付近で、悲鳴に似た声が聞こえてくる。
何事かと待っていると……そこには片腕を失ったジェロームがいた。
「……ヘマ、しましたね」
「ジェローム!? 待って、【神官】を何とか連れて……!」
「ああ、お待ちを――」
ジェロームが止める声も聞かずに、私は急いで出た。
ずっと支えてくれた、自分の半身のように大切な人の変わり果てた姿に、完全に頭に血が上っていた。
馬鹿な話だ。せっかく教会から隠れるために地下アジトに籠もっているのに。
それに、教会の人間が我々のような者の願いを聞いてくれるはずがない。
ジェロームが、断られてきたことぐらい予想できたはずだった。
――ただ。
今から思えば、この瞬間だったのだろう。
私の人生が、谷から完全に抜けたのは。
結論から言うと、ジェロームは回復した。
私としては、命さえ助かればという感じだったのだけど……腕ごと戻ってきていた。
それもそのはず。まさかのこの黒っぽいローブを着た剣士が【聖者】だったんだから。
聖者。
帝国では未だ一人も出たことがない【聖女】の、更に珍しい男版。
あまりにも少ないため、文献自体がほぼ無いに等しい幻の存在。
その能力は未知数だったけど、そんなの目の前の現実を見れば分かる。
あんな教会の地位ばかり高い連中にいくら大金を積んでも不可能だった『欠損の回復』というとんでもないものをやってのけた。
人生で最大の喪失の瞬間まで、ほぼ確定だった。
それが、非現実的なほど回復した。
私は……もう、なんていうか、急に緩んでぐしゃぐしゃに決壊しちゃった。
年長なのに、一番下の子よりも泣いたと思う。
普段偉そうに命令している皆にも見られちゃったなあ。
一方、これが本来帝国ならジェロームの全財産に私の全財産を上乗せしても足りないぐらいの大奇跡であることは分かる。
交渉担当として現れた美女は、再び私に条件を提示した。
「うっし、交渉成立ね!」
こちらに手を差し出す、どこか勝ち気な美人の笑顔を見ながら思った。
――ぶっちゃけこの人、私が独自調査するように仕向けたわよね……。
『宵闇の誓約』の面々は基本的にお人好しの善人集団って感じだけど、何かこのシビラって人だけは『一番優しくて、一番怖い』という感覚がある。
……こういう手合いは、敵にしないに限る。
私も『不可視』に入って二十年目のベテラン、それぐらいの直感は働く。
そう思いながら握手を返した。
それに――この人達なら『やってくれる』と思ったのだ。
翌日、皆が帰った後に気付いたことがある。
「あ、れ……?」
ジェロームのはだけた腹部を見て、違和感に気付く。
彼も私の視線に気付いたようで、自分の服をめくり目を瞠った。
「……消えて、いるだと……!? いつだ、いつの間に!? あの悪魔の焼きごての印が、簡単に消えるはずが……簡単、に……。……!」
ジェロームが独り言を詰まらせ、絶句した瞬間に私も思い当たった。
【聖者】だ。
「ヴィッキーも……私の旧友も、奴隷紋がなくなっていたの」
「まさか『魔法の微調整が下手』って……!」
「奴隷紋を消すほどの魔力を抑えるのが難しいから、それを治すことを含めて勝手に発動するって意味なの……!?」
ジェロームから、あの焼き印が消えたことは自分のことのように嬉しい。
嬉しいのだけど……また、失った目の奥が、チリチリと痛みを訴える。
嫉妬?
違う。これは、ただでさえ隣に相応しくない私が、更にジェロームが遠くなってしまったことで……。
「良かった、じゃない」
「レティシア様……」
「様なんていいよ、もうあなたは紋なしの民になったのだし――」
そう呟いた、正にその瞬間。
話題にしていた人物が、一人で個人的に訪ねてきた。
私達は、ちょうど一緒にジェロームの腹部を見ていた状態だった。
「確認に来たんだが、遅かったか。お前もヴィクトリアと同じ焼き印があったんだろう。断りなく外してしまった、もし必要なら付け直してくれ」
「どこまでズレてるんだよ、二度と要らねえよ。ああもう、どういう顔をすればいいか分からない。何と礼を言ったらいいか……」
「やっぱそれ、ない方がいいか。ふむ――それじゃあ交渉もし易いな」
黒いローブの男は扉を閉めると、やはりどこか【聖者】らしからぬ雰囲気のまま、淡々と話し始めた。
「追加依頼だ。六日以内……いや、恐らく六日後の昼以降、教会からの襲撃がある。そこでお前達には、ここに置く俺の仲間を護ってほしい」
教会からの、襲撃。
心臓が掴まれるような感覚。だが同時に、依頼内容の特異性も気になった。
「襲撃者を『不可視』が撃退する、という依頼ではないのね?」
「そんな危険なことさせられねえよ。俺も人の死は見慣れてないし、まして殺し合いなんて王国じゃ縁がない。敵味方全員生きて、敵は全員縛ってくれ。……もし殺したいなら、それを止める権利は俺にはないが」
少し甘いなと思うぐらい、条件は緩かった。
というか襲撃してくることを考えると、どう考えてもこちらが一方的にクライアントからサポートしてもらう形だった。
「分かったわ。その二つを含めてジェロームの治療費ね」
「シビラ抜きでそんな交渉できるか。これは俺個人の依頼だぞ、俺が支払わないとあいつにタダ乗りしたみたいでムカつくだろーが」
私の提案に、呆れ気味に聖者は手を振った。
それから――この【聖者】はとんでもないことを言ってのけた。
「あんた、相当強いよな。その力でマーデリンを護ってほしいんだが、目が見えないと戦いづらいだろ。回復魔法を使っていいか?」
「え?」
「ああ安心しろ、依頼の金は別で払う。成功率を上げたいだけなんだ。これは依頼料とは関係のない、無料のおまけみたいなものだと思ってくれ」
言われた意味が、一瞬分からなくて。
「……ただなあ、やっぱ調整は下手なんだよ。細かいリクエストは全く受けられないが、それでいいか?」
ただ、何一つ悪い条件じゃないので、自然と頷いた。
次の瞬間、目の前が眩しく光り……立ちくらみとともに片眼が妙に暗く感じられるようになる。
「あと、これ前払いな。残り半分は後で」
近くに来た男はタグを私のそれに軽く当てる。
一瞬呆けていたので慌てて確認すると、そこにはなかなか見ない額の報酬が入っていた。
お礼を言おうと前を向くと、【聖者】はもう部屋を出ていた。
「……」
何も言えない中、眼帯を外す。
急に光が入ってきたことによる僅かな痛みとともに、世界が立体を主張した。
そうだ、世界は元々こうだった。
大きな調度品、僅かに浮き上がるカーペット、部屋を広く感じさせる天井の高さ。
それと……背の高い、隣の人。
「レティシア様は、元々そんな目だったのですか。……綺麗、ですね……」
その言葉は、私の目が完全に治ったことを理解させた。頬が熱くなる。
――私を苦しめた二十年来の欠損は、古傷と、焼き印ごと、全部『無料のおまけ』で治ってしまった。






