レティシア:谷、谷、谷。その果てに——(前編)
『良い事があれば、悪い事もある。人生山あり谷あり』
そんな話をした相手。
私にとっては――人生を全て谷にした相手だった。
何度も夢に見るような激痛と、腹部の焼き印。
それから私は、相当に高い値段で引き取られた。
主である団長は、怖い。感情が見えない。
隣の女の子は、ちょっと目が怖い。
でもナイフのジャグリングは一番上手い。
私は……とにかく下手。器用じゃなかった。
でも、刃物を投げて受け止めるのは、やっぱり怖い。
「これ、近い感覚だから」
隣の目つきが鋭い子は、私に代わりの練習道具を渡した。
木の棒はちょうどいい重さで、指を怪我せずに済む。
手先自体は、ちゃんと器用になった。
だけど……本番の本物のナイフはやっぱり怖かった。
結局私は、失敗してしまった。
引き渡し先は……教会。
庭にいた子供達と同じかな、なんて思っていた。
昨日までが谷なら、私もそろそろ山が来るかも……なんて。
なんて、愚かな。
私は司祭のうちの一人、異様な雰囲気の男に引き取られた。
そこであったことは……とても話せたようなものではない。
全身にも跡が残る古傷をつけられながら、私の片眼は光を失った。
――小さな山は、その後だった。
私は三度目、誰かに買われた。
「これは、惨いな……もう大丈夫だ」
そこは『不可視』という、帝国から居ない者扱いされた者が集まる場所。
裏稼業をやる秘密の団体であり、私の他にも何らかの訳ありの者ばかりだった。
見た目は厳つい人達だったけど、温かかった……。
能力のない私にも知識を与えられ、生きていくための基礎能力を鍛えられた。
三度目の私を買った人は、優しい【賢者】だった。
凄く綺麗な夫人もいたのをよく覚えている。
二人は、『不可視』の協力者で、本拠地を隠すための工事もしていた。
その方には、目のことを気に掛けられた。
「目は距離感に影響する。君は鈍くさくはない。怪我が怖いだけで、本来の君はとても才能がある。……私に、治す力があれば」
申し訳なさそうな顔をする、三人目の主様。
その負い目を否定するように。
欠点の穴を埋めるように、必死に自分を鍛えた。
十六歳。私の得た職業は、【アサシン】だった。
これが……女神が私に与えた力。
魔物に気付かれず狩る、技術と速度に特化した強力な職業。
「ダンジョンで魔物を倒せば、必ず強くなる」
その言葉を信じ、ずっとダンジョンに入り込んでいった。
片眼を隠していた私の顔を見たがる者はいた。
見せろと言われていざ顔を見せても、目を見た瞬間に嫌そうに顔を背ける。
失礼にも程がある。
視界の隅で、仲の良さそうな男冒険者が、女の代わりに討伐部位を持ちながら帰還する。
笑いながら談笑する二人は、私の視線に気付くことなく通り過ぎた。
……目の奥が、少し痛い。
不可視。見えない者。見られない者。避けられる者。
この街で、私は透明だった。
その頃、『不可視』の情報収集班によって、私を助けた【賢者】が教会に追放されたと知った。
あれほど優しく強い人でも、悪意に晒されれば私の目を奪った悪党に負ける。
力が欲しいと、そう思った。
力を付けながら自分の金も得た私は、次第に趣味も探すようになった。
これは、『不可視』の年配の先輩から薦められたから。
兄貴分の先輩には、自分の趣味を教えてもらった。
――『帝国闘技会』。
そこで私は、衝撃的な再会を果たすことになる。
紫の髪と、鋭い瞳。踊り子のような服を着て男を圧倒する女。
『大紫の剣士』ヴィクトリア。
現在勝率一位というか、ここ数ヶ月は負けなしらしい。
かつてお世話になった友人は、遙か高みに行ってしまっていた。
元々超絶技巧のジャグラーだった彼女が、あの剣技とアクロバットスタイルを手に入れた。
それは同じ紋持ちながら、憧れる姿だった。
お礼もお別れも言えないままだった。
――私のことなんて、覚えてないだろうなあ。
心の中で友人の活躍を応援しながら、最初で最後の闘技会観戦が終わった。
それから間もなく、初仕事の依頼が来た。
先輩にはやらなくてもいいと言われたし、私もそのつもりがなかった。
けれどその名前を見て、やると決めた。
始末対象は、私を売った主の名前だった。
依頼に来た理由は、教会に子供を売っていること。
その条件が、あまりに非人道的なやり取りだったということ。
……まだ、やってるのか。
きっとその瞬間、私の第二の人生は始まったのだろう。
カチリと、頭の中で自分が【アサシン】のレティシアに切り替わった。
もう、鳥籠の雛じゃない。可哀想なレティちゃんではない。
――私を生まないための、私になるのだ。
屋敷には可燃性の、無臭の油を撒いておいた。
中の人が逃げられるように、ドアの付近は開けておく。私の元同僚だから。
だけど、入口から一番遠いあの男の部屋は、私しか逃げられないように入念に燃やした。
私が思ったよりも私の技術は上がっていたようで、気付かれることなくその肉を削り取るようにナイフの刃が走った。
鮮血が舞う。刃の毒が回り、主が倒れる。
「結局あなたは、変わらなかったのね」
フードを取り、自分の顔を見せつける。
壊死した目は何も見えないが、こいつには睨み付けられているように見えたことだろう。
「……!」
麻痺して何も喋れなくなった男の胸に、ナイフが刺さる。
胸の中を何度も、刃が往復する感触。
これは因果応報。あなたがやったことの結果。
放火の瞬間を見られないよう部屋から着火したタイミングで、扉が開いた。
そこには、最近見た顔。鋭い目、紫の髪、手には剣。
現闘技会の暫定一位、『大紫の剣士』ヴィクトリアその人だった。
入った瞬間に全身を襲った、『死』のイメージ。
一歩動けば、首が飛ぶ。
それを対峙した瞬間に理解した。
ところが、その殺気は一瞬で消えた。
「昔のように名前で呼んでよ、レティ」
ヴィッキーは、私のことを覚えてくれていた。
それだけではなく、見逃してもくれたのだ。
先輩によると、こういう人はまずいないらしい。
部屋の奥から、他の足音の気配が聞こえてくる。
ろくに礼も言えないまま、私は屋敷から出た。
ヴィッキーのことは、何度か調べていた。
素敵な相手も見つかったようで、雰囲気も少しずつ柔らかくなっていった。
あの睨み付けるような糸目が、そのまま笑う顔になっていた。
右目に触れる。私に相手ができることはない。
せめて友人の恋は応援したい。
一人の時に、お礼でも言えないかな……。
旦那さんには、怖がらせるだろうし私の顔は見せたくない。
――そんな悠長な考えだから、駄目だったのだろう。
ヴィクトリアの夫マリウスは、殺されてしまった。
馬車は破壊され、ヴィクトリアは行方不明。
調査しても調査しても、その痕跡は掴めなかった。
ヴィッキーのいない喪失感から立ち直り、仕事が何とか回り出してきた時。
緊張した様子の先輩とともに、全員に招集がかかった。
――人生の山場など許さないと言わんばかりに、悪いことが起こる。
「襲撃の計画を聞いた。教会の連中、ローレンス様と繋がりのあった我々を、掃討するつもりらしい。反逆者の暗部であるという理由でな」
初老のリーダーが言い放った内容を、最初は理解できなかった。
やがてじわじわとそれが事実であることを頭が理解する。
「レティシア。次のリーダーはお前がやれ」
また頭が真っ白になる。何故私に……。
「表に顔が割れている者を、今回わざと捕まらせる。皆は地下に隠れる。お前が年長だ」
気が付くと、私は年長側になっていた。
そうだ、私が助ける側になるんだ。
ヴィッキーだって、あの屋敷で既にそうなっていたじゃない。
「ま、抵抗してみせるさ。そう簡単に俺らだってやられやしねーよ」
空元気だと分かったけど、それが今は何より頼もしく見えた。
覚悟を決めて、私は若い世代を連れて天窓を全て閉じた地下へと籠もる。
――数日耐えた後に待っていたものは、何もない地上だった。
表の窓口としていた『不可視』のアジトは。
皆で育った建物は、教会お抱えの鎮圧部隊によって跡形もなく消されてしまっていた。
つけた力は、恩を返す前に振るわれることなく私から全てを奪った。
『良い事があれば、悪い事もある。人生山あり谷あり』
私を棄てることで金貨の山を得たあいつに問いたい。
――この地底の断崖絶壁に、上り坂は本当にあるの?






