ヴィクトリアが見せた、変化の手掛かり
部屋の重い扉は、誰も持たなければ自動的に閉まるようになっていた。
分厚い二重扉は音を遮断し、中の声を外に通さない。
黒いローブを纏った男が出て行き、二人の旧友が部屋に残った。
「『不可視』にいる私が言えたことじゃないけど、くれぐれも無茶はしないでね。娘だって残しているんでしょ?」
「そっちも手配してるから大丈夫よ。昔から心配性ね、レティは」
久々の会話を楽しんだ元帝国の剣闘士は、年齢を感じさせない軽やかな微笑みで楽しそうに笑う。
それは、剣闘士として現役時代に頂点を極めた鋭い目とは比ぶべくもない。
「ほんと、いい顔になっちゃって。私もねー、顔がマシなら男の一人二人ぐらいねー」
「眼帯つけたレティも格好良いし、きっとメンバーの子もレティのこと好きよ」
「どうかなー、その手の本も学んだけど、格好良い女ってウケないのよー」
「まあ、学んじゃったの?」
「学んじゃったの。そーしたら本通り! うちの情報屋でも頭悪いフリするコばっかりみんなデレデレ集まっちゃって。ああいうの見るとやんなっちゃうよー、もぅ」
子供っぽくふて腐れて片肘をつくリーダーの姿に、昔を思い出したのかヴィクトリアは笑みを深くする。
眼帯をした旧友の芯が変わっていないのか、それとも片眼の光を失ってからの時間が、表向きの部分だけでも気持ちの整理をつけさせてくれたのか。
ただ、過去のことを話せないと言ったということは、完全に乗り越えられてはいない。
それでも、こうして今は昔のように話せることが、ヴィクトリアの気持ちを楽にさせた。
――自分は、乗り越えられた。
まだカジノがあるうちは、愛娘のお陰で『耐えられていた』だけだった。
今は、自信を持って『乗り越えた』と彼女は言い切れる。
「でも」
旧友の声が、思考の海に潜っていたヴィクトリアの意識を掴む。
「同じ紋付きだもの、何かあった時は大変よ。もしも困ったら、頼りに来て」
久々に会い、組織の中で力を付けた旧友から救いの手を差し伸べられる。
柔らかな糸目の奥で、彼女は相当な努力をしたのだろうと実感できた。
それ故に言わなければならないと、既に王国民となった元剣闘士の母親は思った。
――もしかすると、ここまで含めてあの女神は考えていたのかしら。
ふとそう思い、僅かに口角を上げた。
「同じ紋持ちとして、ね。レティ、その気持ちは嬉しく思うわ。でもね」
そこで初めて、糸目の主婦はすっと目を開き、自らの肌を見せた。
それは、帝国に住む者にとって転落の証。
不可逆の、人生を捻じ曲げる悪しき特性。
死ぬまでその印から逃れた者はいない。
そのはず、だった。
「う……そ…………有り得ないって……」
魔力でつけられた焼き印は、法外な金を教会に支払ったとしても、誰にも取り除けない。
皮膚を切り取ってしまえば、それだけで逆に怪しまれる跡になる。
「これは先払い報酬だったわ。もしかしたら――」
そこまで言ったところで、重い扉がガチャリと開く。
「どうした、やっぱり話し足りないか?」
黒いローブの男が入って来たことで、会話は打ち切られた。
その言葉の続きは何なのか。
問いかけようとして、旧友はすぐに服を着直してしまった。
「ふふっ、ごめんなさいね。ちょうど終わったところよ。それと……改めてお礼を言うわ。ありがとう、ラセル君」
「うわ怖っ、あんたのお礼はマジで何か重いんだよ、そういうのはシビラにたらふく食わせとけ」
「アタシはいつでも大歓迎よ! 太陽の女神より偉い美少女だもの! 存在するだけで宇宙の感謝を全て集めても足りないわね!」
「やっぱお前は遠慮を覚えろ」
そんな軽い会話をしながら、十年ぶりの旧友はまるでそこが元からの居場所だったかのようにリラックスした様子で、振り返ることなく部屋から出て行った。
呆然とその姿を見送ってしまったレティシアの部屋に、入れ替わりで男が入ってくる。
閉まる扉に視線を向けながらも、自らのリーダーへと向き直った。
「その……大丈夫、ですか?」
「……旧友と話をしただけ。依頼も断ったし、問題ないわ」
引き出しの中には、敗北の記録がある。
もうあんな犠牲を出すわけにはいかない。
再び『不可視』の暫定リーダーという環境に戻ったことで、幾分か威厳を取り戻して声に硬さが入る。
それでも、先ほど見たものの衝撃は抜けなかった。
(声も、記憶も、間違いなくヴィッキー。偽物じゃない。それに、偽物なら当然、印のない腹部を見せたりしない……詐欺の可能性? いや、低い)
頭の中で、最後の光景を反芻する。
何度思い出しても、あの綺麗な肌の位置に、奴隷紋があったのだ。
一緒に体を拭いた時に、見せ合った。
あの印があるから、闘技会にもいたのだ。
紋を見せる踊り子のような服で、鋭い目をした寡黙な蝶は、闘技会で頂点に立った。
私だけじゃない、客席全員であの焼き印を目に焼き付けたのだ。
(治、る……? 治せる? 魔力で焼かれ、変形したまま成長した体が、完全に『なかったこと』として成長した姿に……本来の姿になる?)
嘘のような、夢のような話。
それこそ、神官を囲っている帝国の教会では絶対に不可能だ。
そんな能力を持つ者はいない。
レティシアは、帝国の教会をよく知っている。
(絶対にない。あったら、絶対にその力を金にしている。あいつらはそういうヤツら)
レティシアは組織の頭として常に情報を集めている。
非合法な取り決め、貴族の弱み。
エーベルハルトのように決定打までいかないものも多いが、多くの情報を握っている。
情報屋から奴隷紋に関する治療の話がない以上、誰にも不可能なのだろうと考えた。
特に、ただでさえ職業の授与式で【神官】と表示された時点で教会の囲い込みになる。
そこから介護されてレベルを上げるまで、徹底的に忖度される。
治療魔法のキュアを習得した頃には、立派な『帝国神官様』の完成だ。
(あいつらは、だからあの時も……)
当然こんな国だから、無私の慈愛を持つ【聖女】誕生なんて夢のまた夢。
太陽の女神が人の本質を見抜いて職業を与える。
故に、帝国で過去に出た最上位職は、基本攻撃系のものばかり。
でも、もしも。
(王国に、全てを治す【聖女】がいるのなら?)
――レティシアの眼帯の奥が、あるはずのない痛みを訴えた。






