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過去の自分を飛び越えて

 ここ、ハモンドのダンジョンに入る際には、必ず注意をされることがある。


 ——上層と中層は、全く違うダンジョンだと思え。


 ハモンドの上層は非常にシンプルで、数あるダンジョンの中でも特に簡単なことで有名だ。

 一人で行く時には注意されることもあるが、基本二人以上なら先ほどの第一層で会ったような初心者でも全く問題なく無事に帰ることができる。

 この難易度のぬるさが、フロアボスまで続いているのだ。油断もするというものだろう。


 そして、迂闊にも『フロアボスをあんなに簡単に倒せるのなら』と中層に降りたヤツは、このハモンドのダンジョンが中層から下は全く違う世界であることを思い知らされることとなる。


 ブラッドタウロス。姿形は先ほどのフロアボスと大して差はない。

 大きさが違う。色が違う。その程度のものだ。

 だが、こいつの最大の違いは、その中身である。


「……よし」


 俺は右手の剣の重さと、自分の最上位職二つのレベルが乗った肉体感覚を再確認し、剣を構える。


「《エンチャント・ダーク》」


 黒い剣身が更に深い黒に、闇の色を放ち始めた。

 ヴィンスより大きい背丈のブラッドタウロスが、腰を屈める。来る——!


 ブラッドタウロスは、溜めていた力を解放するように、両手に握る小型のハルバードをこちらに向けて一気に踏み込んできた!


「フッ!」


 小さく気合いを入れて、ブラッドタウロスの攻撃を横に避けつつこちらも踏み込み、その腕を切り落とす。

 返す剣で、武器を持てなくなった魔物を袈裟斬りにする。

 闇の魔力を纏った剣は、赤黒い魔物の身体を一刀両断する。


 俺は、物言わぬ骸となった魔物の肉体を、どこか他人事のように眺める。


(……倒せたんだよな)


 かつての勇者パーティーが中層に降りるようになったのは、すぐのことだった。

 ヴィンスが『俺達はこの程度の場所で満足してはいけない』と言い、ジャネットが頷いた。

 あの時はエミーも俺もその通りだと思ったし、何より魔物のことを多少侮っていた部分があった。

 もしかすると、ジャネットだけは理解していたのかもしれない。


 見ての通り、ブラッドタウロス最大の違いは、その動きの豊富さと機敏さにある。

 人間ほどの反射神経はないが、先ほどまでのレッサータウロスのような『動き出してから避ける』というような舐めた戦い方は、もう中層からはできない。


 そのため、最初に探索に来た冒険者は、ここで命を落としたらしい。

 そいつの死体を回収して、ようやくギルドも中層が全く違う場所であると認識した。

 以来、ここはハモンドの冒険者にとって、必ず警告される場所となったのだ。


 ご多分に漏れず、俺達も最初は困惑した。

 だが、あのブラッドタウロスの攻撃をエミーが防いで、ヴィンスが倒した。

 それで、いけるという判断をしたのだ。


 俺は、ここら辺りから活躍できるようになるものだと思っていた。

 それからは、ジャネットがヒールを覚えて、俺は戦いに参加できないまま……そのまま何の変化もなく、俺が追い出される日を迎える。


「……」


 俺は、再びブラッドタウロスの顔を見る。

 何度も夢に見た、中層の強敵。初心者殺しのハモンド最大の壁。


「子供の頃って、どんなものでも大きいのよね」


 突然、シビラが話を始める。


「順調に行ってる時ほど、一回の挫折が大きく感じちゃうのよ。それが絶対に越えられない、途方もない高さの壁に感じちゃって」


 そしてシビラは、小さく突き出た角を切り落とす。


「でも、あんたは越えた。かつて自分を阻む高い城壁だったブラッドタウロスは、ファイアドラゴンを倒したあんたにとって大股で歩けば飛び越えられる木の根っこぐらいの大きさになった」


 そして最後に……討伐報酬であるはずのそれを、後ろに放り投げた。

 シビラは腰に手を当て、俺に向かって勝ち気に笑う。


「こんなショボい物、もう回収する意味ないわ。かつて勇者パーティーが苦戦したダンジョンも、今のラセルには通過点に過ぎないもの。あんたは子供から大人になったのよ」


 俺はその言葉に、あの時の孤児院の部屋を思い出す。

 そうだ。俺はずっと、あの部屋でヴィンスと剣を打ち合わせてきた。

 いつからだっただろう。身体が大きくなり、あの部屋をとても小さな場所だと感じるようになったのは。


 子供から大人に——俺の力は、それぐらい変化していたのだ。

 大きな壁は、一歩二歩で踏み越えられるような小さな障害物にまで小さくなった。


「それじゃ、こんな大したことない場所通り抜けて、さっさと下層目指すわよ!」


「……ああ!」


 俺はシビラに対して力強く返事すると、その背を追って歩き出した。




 ふと、後ろを振り返る。


 白いローブを着込んで、杖を持ちながら苦しそうに眉根を寄せた黒髪の男。


「大丈夫だ」


 俺はその青年に、声を掛ける。


「こういう時、ちょうどいい言葉があったんだよな。ジャネットは何と言ってたか。……ああ、思い出したぞ」


 その比喩と今の状況があまりに一致して、思わず吹き出してしまう。


「——捨てる神あれば拾う神あり、ってな。くくっ」


 怯えていたかつての俺の幻影は、もういなくなっていた。

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