伊織、花嫁から格下げされる2
どのくらい気を失っていたのだろう。
冷たいものが顔に当たって、私はようやく気がついた。
起きあがろうとしたが、身体中が痛くてうまく動かない。
「あ……あー」
声は出るようだ。
「い……痛っ!」
そろりそろりと頭を動かして周囲を見渡す。薄暗くてよく分からないが、ひどく寒く嫌な匂いのする場所だった。顔を横に向けた瞬間に床に溢れている液体が顔にかかった。
「うわ!」
ぶるぶると顔を振り、思わず飛び起きた。
「ててて……ずぶぬれだわ。寒いはずね……」
痛みを堪えて、立ち上がる。身体中はぎしぎしと痛んだし、頭も割れそうに痛い。
よろよろと歩きだし、
「はっくっしゅん!!!」
くしゃみの連発だ。そして、いきなり何かが私の足に触れた。
「きゃー!」
慌てて飛び退くが、ドレスの裾を踏んでまたひっくり返ってしまった。
「……だぁ……いい……」
「な、何……??」
ひどく聞き取りにくい、低い声がした。
私は身構えて、暗闇の中で目をこらしてみた。
ばしゃっと水音がした。
かすかに黒い塊が蠢いているのが見える。
次の瞬間、それは私に向かって襲いかかってきた。
「きゃー!!」
ガシャン!! だがその塊は逆に壁に引っ張られるように飛んでいった。
「?」
「う……ごご……」
そいつの手足は頑丈な鎖で壁につながれていたのだ。
形からして、人類種のように思える。
鎖から逃れようとばたばたと暴れ始めた。
「ちょっと……ひっ!」
声をかけたら私の方を見た。
「うおおお」
「……って言われてもね……」
暗闇に目が慣れ始め、私は再び立ち上がり、そこら辺を歩いてみた。
部屋自体は小さなもんだろう。すぐに壁に行き当たる。ぐるぐると歩いて、この部屋には黒い塊のような人物だけがつながれている事も分かった。
「はー、よっこらしょ」
仕方なくなるべく離れた場所に座る。床は水がたまっているので座りたくはないが、仕方ない。
腰をおろした瞬間にぱっと照明がついた。
「うおーーーーーーーーー!」
まぶしさに驚いたのか、つながれた人物が叫び声をあげた。
「うっ!」
見ない方がよかった。
つながれた鎖の先には骨と皮だけに痩せこけた男がいた。
髪の毛は抜け落ち、衣服と思われる布きれをまとい、そこいら中垂れ流した汚物や食物の残骸の中で男が悲しそうにうなり声をあげていた。
「随分と古風な拷問ね……これじゃあ、おかしくもなるわ」
私も同じ運命か。
「勇敢なる銀河パトロールのエリス隊員。少しは懲りたかな?」
楽しそうなカイザーの声が響いてきた。
「う……うう」
「楽になりたいだろう?」
「う・・おおおお」
何て残酷な男。
「一人じゃ淋しいだろうから、伊織、お前が話し相手になってやれ」
カイザーの声は楽しそうに笑うと消えていった。
「……」
私はため息をついて、考えた。つながれてないだけましかな。
だが、このままではこの男と仲良く生きたミイラになってしまう。
「もしもし?」
「うううう」
「あのさ、しゃべれないの?」
「うう……」
駄目だこりゃ。思考回路も吹っ飛んでるのかな?
「……た……すけて……くれ……」
あ、しゃべった。
「分かるの?」
「あ……ああ」
それから数日私は男といろんな話をした。
男の言葉はたどたどしく、所々何を言っているのか理解できない部分もあったが、それでも私達はゆっくりとたくさんの話をしたのだ。
さすがに銀河パトロールの隊員だけあってエリスの精神力はたいしたものだと思う。
二年もこんな場所につながれて、それでもまだ彼は完全には狂っていなかったのだから。
カイザーのもくろみは失敗だった。私がすぐに降参すると思いこんでいたようだが、私は参ったりしなかった。まだ、大丈夫だ。だが、エリスは言った。
「カイザーに逆らうな。まだ、間に合う」
「冗談じゃないわ」
「あんたは知らない。カイザーの恐ろしさを」
「じゃあ、あなたは後悔してるのね? カイザーに逆らった事を」
「……彼は本物だ。本物の悪党。彼は殺さない。死んだほうがましだと思わせる」
「……残虐な男ね」
「拷問、たくさんある。ここはまだまし」
「二年もこんなとこにつながれて、それがまだましだと言うの?」
「ああ……」
「そういう事言わないでくれる? 心細いじゃないの。ああ、やだやだ」
大きくのびをした私にエリスはははっと笑った。
「おかしな女だ。あんた。カイザーが怖くないのか?」
「怖いわよ。嫌いだし」
「なら、何故逆らう?」
「それはあなたも一緒でしょ。やっぱプライドの問題かな」
「プライド?」
「そう、私は普通の女だったわ。今まで平凡に生きてきたわ。世の中、いろんな事があるけど、嫌な事の方が多いじゃない? でも普通はそういう事も我慢して生きてるのよ。普通の人ならね? 言ってしまえばよかった、とか、今は我慢しよう、いつか大きな声で叫んでやる、なんて思いながら、でも結局は何も言えないのよ。それは明日も生きていくからだわ。明日も誰かと関わりながら生きていかなきゃならないからよ。それが、ここでは違うじゃない? 我慢しても殺されるわ。生き延びても何日かの違いでしょ? なら、言いたい事は言わないと損だもの。私は確かにあの男に怯えてるけど、怯えたまま死ぬのは嫌なの。私が自分らしく生きた証よ。堂々と死にたいのよ。みじめになぶり殺されても私は自分を誉めてやれるわ。私は最後まであの男に媚びたりしなかったって事をね」
「……」
「ばかばかしい?」
「いや……だが……」
エリスは何か言いたそうだった。
「俺も……そう思ってた……だが……」
「月日があなたを変えたのね? 死ぬよりも拷問に耐えるよりも、あの男に媚びたほうがましだって事?」
「……」
「そうね、そう思う時が来るのかもしれないわね」
「伊織……あんたは強い女だな」
「そうでもないわ。我慢するほうが慣れてるの。逆らうよりもね、従うほうが楽だって事も知ってる。でも、今回はやめとく」
私が笑ったのをエリスは不思議そうな顔で見た。
いつだって私は誰かのいいなりになって生きてきた。
両親や教師や友達。
あなたの為よ、と言われるとつい流されてしまう。
旅行から戻れば予定されている結婚だってそうだ。
断れないから、断らなかった。
でも全力で嫌だと言えば、両親も認めてくれたんじゃないだろうか?
今となっては遅いけれど。
小企業の未来がかかっているから気持ちが進まないという意見さえ私は親に言えなかった。二十も年上の男に金に買われる花嫁。美しければいい。若ければいい。格差社会ではよくある事だ。
どれだけ若い綺麗な娘を妻にするか、どれだけ豪華な結婚式を挙げられるか。
そんなことが上流社会ではステータスの一部らしい。
何千万もするウエディングドレス。
豪華な新居。
贅沢なハネムーンは宇宙最大の豪華なリゾート惑星。
別荘は銀河系の彼方。
地球の金持ちは宇宙旅行をしない?
そうじゃない。
民間人が使うようなパックツアーでの惑星間渡航船になど乗らないだけ。
何不自由ない自家用宇宙船を持っているから。
カイザーとアリアを笑えやしない。
私もどうせそんな観賞用の花嫁だったのだから。
そして、私達は黙り込んでしまった。
「でも、お腹すいたなぁ。このままじゃ餓死するかも」
私のつぶやきにエリスは、
「週に一度は食事を与えられる」
と苦々しく言った。
「週一か。ケチくさいわね。ケチで残虐で冷酷で! ご立派だこと!」
どうせどこかで聞いているのだろう。私は思いつくままの悪口をつぶやき続けた。
「伊織、痛い目にあいたくないだろう? あまり逆らわないほうがいいと……」
とエリスが言いかけた時、ガシャンと鉄の扉が開いた。静かにカイザーの部下が何人か入ってきた。私に銃を向けて立ち上がらせると、
「部屋から出ろ!」
と言った。私は仕方なく立ち上がり、そして倒れてしまった。空腹と冷えで身体の疲労はピークに達していたからだ。だが、カイザーの部下は容赦なく私の身体をつかむと部屋から引きずりだした。気を失いそうな瞬間にエリスの声が聞こえてきたが、そのすぐ後に銃の音とエリスの「ギャッ」という悲鳴が一度だけし、すぐに何も聞こえなくなった。
ああ、やっとエリスは安心して眠れるんだと思い、私も気を失った。




