最後の一押し
高くそびえる恐ろしく巨大な蛇を、ヤスは呆然と見上げた。
とぐろを巻く青白くぶよぶよした身体は、視界に収まりきらないほどの長さがあった。
多数の赤い眼が出鱈目な位置についており、ばらばらの方向を睥睨していた。
「信じられない……! これはまるで伝説の大蛇、ウロボロスではないですか!?」
マルガレーテも驚愕のつぶやきをもらす。
大蛇の頭部にあたる部分は二階建ての家と同等のサイズだった。
奇妙にも天使の羽のような、白い翼が生えている。
「ウロボロスにはトサカはないし、もっとでかいし、本来一匹しかいないわ。あれはフェイク、一山幾らの偽ウロボロスってところよ!」
アスモデが吐き捨てる。
確かに大蛇――偽ウロボロスは単体ではない。大聖堂の屋根を突き破り、十数体が屹立していたのである。
当然ながら、中庭の戦闘は止んでいた。
敵も味方も立ちすくんでいたのだ。
声一つ上がらない。突如現れた怪物に慄然とするばかりだった。
「おお、おおおおおおぅ、おあああああああああーっ!?」
叫びながら墜ちてきた巨大な塊はイノークであった。
地面に激突した後、二度、三度とバウンドし、転がる勢いを利用してぱっと立ち上がった。
ヤスが駆け寄る。
「イノーク、大丈夫か!! ありゃ何だ!? じじいはどうした!?」
「お、おお……いや、俺にもよっぐわがんねぇが……」
クローリクはプレイズの過剰摂取で死んだ。
ところが遺体に不気味な肉腫が生じ、急速に増殖をはじめたのである。
膨れ上がった肉腫が蛇となり、鎌首を持ち上げた際にイノークは弾き飛ばされたらしい。
「マジか……じゃあ、この蛇野郎はオヤジだって言うのかよ!?」
蠢く偽ウロボロスをヤスは愕然と見やる。
大聖堂が崩れ、偽ウロボロスの身体が露わになった。
胴体から何匹もの蛇を生やした巨大な蜘蛛――というのが、全体のイメージとしては近い。ただし、脚のフォルムはゾウのようだし、蜘蛛の頭に相当する部分はなかった。
何匹かの蛇が顎を開き、漆黒の霧を吐き出した。たちまち中庭に霧が拡散する。
「毒霧のブレス!? みんな、下がって!!」
「おおう、退け、退け、おめぇら! はよう、こっちへこいっ!!!」
オーク達は族長の指示に従う。コボルトも後に続く。
もはや戦うどころではない。聖堂騎士達も泡を喰って逃走するが――
「う、うがああああっ!?」
聖堂騎士の一人が絶叫を上げた。
見る見るうちに肉体が膨張し、服や鎧が弾け飛ぶ。
「ヒィィィ、ガァァァァーッ!!」
わずか数秒で聖堂騎士は不気味な怪物になっていた。
偽ウロボロスには及ばないが、イノークよりもずっと大きい。
手足の膨れたグロテスクな人形のようだ。
「うげっ、気色悪いな! ふん、今度は偽ゴリアテってわけかよ!」
顔をしかめるヤス。
ブレスを吸った者のうち、十人ほどの聖堂騎士だけが偽ゴリアテになってしまった。
中途半端に変貌し、びくびくと痙攣するだけの肉塊に成り下がった騎士もいる。
――てか、どうすりゃいいんだ、これ? いくら何でもヤバすぎだろ!!!!
冷や汗をかきつつ、ヤスは大慌てで考えを巡らせた。
戦う? 冗談ではない。いくら何でも想定外過ぎる。逃げるべきであろう。
アスモデは飛べる。
グレードⅣなのだから、ヤスを抱えても楽々離脱できるはずだ。
他の魔物達は全速力で王都から脱出だ。
警備隊が邪魔しても、イノークがいれば強行突破は可能だろう。
当初の目的は果たした。この状況で魔王討伐が継続されるはずがない。
宝物庫に火を放った時点で、最低限の勝利条件は満たしているのだ。
そしてクローリクはあの有様だ。もはや弁明すらできない。
ましてわけのわからない化け物退治をやる必要はなかった。
――うむ、どう考えても逃げの一手だな。ぐずぐずしていると、この化け物共とやり合う羽目になっちまう……!
決断を下そうとした時、マルガレーテのつぶやきが耳に届く。
「これは……恐らく、重度のプレイズ中毒者だけが怪物になっています!! どうしてこんな……!?」
もっともな疑問だった。
魔物達も苦し気に咳き込んでいるが、身体が変化してしまったものは誰もいない。
聖堂騎士だけが化け物になっているのだ。
アスモデがぴしゃりと言い返す。
「見てわからないの、貧乳騎士!! あの毒霧はあんた達お得意の糞ったれな麻薬の効果を加速させてる。魂腐れ共を地獄に突き落とす、最後の一押しになったのよ!!!」
プレイズは快楽と引き換えに人間の魂を腐らせる。
爛熟した果実のように腐敗が進み、ついに取り返しのつかないことが起きたのだ。
本当に取り返しのつかないことが。
「まさか魂が腐り落ちてしまった……!? そんな、生者には起こり得ないことです!!」
「たぶん、魂の外殻だけが残っているのよ。だからあいつは死んでない。生きているとも言いがたいけど」
普通、人間が死ぬと身体から魂が離れる。
この場合、まだ身体は生きているのに、魂の中身だけがなくなってしまったのである。
「空虚な魂は冥府へつながるうろとなるわ。ぽっかり開いた穴から死穢が流入して……あとは見ての通りよ」
本来は生ある者が直接触れることのない、死の穢れ。
死穢に汚染された結果、クローリクはこの世ならざるモノに変貌してしまったのだ。




