33 命
かつて江戸の周囲に水田が広がっていた時代。
泥鰌はまさしく江戸の庶民の御馳走であった。
独特の臭みを消すために用いられた濃い味付けが関東人の味覚に合っていたという事もあるのだろうが、輸送網に冷蔵技術が未発達であった時代にあって桶に入れた水で生かしたまま運べる泥鰌が重宝されていたであろう事は想像に難くない。
また旬が夏という事もあり、鰻と比べて安価な泥鰌は庶民の活力源であったのは事実ではあろうが、俗に「鰻1匹、泥鰌1匹」などという1匹の泥鰌には1匹の鰻と同等の栄養があるというのは江戸っ子らしい強がりであろう。
さて泥鰌を甘めの割下で煮て卵で綴じたものを柳川鍋という理由には諸説あり、一説にはその発祥である料理屋であるという説や、またこの料理に用いる独特の鍋そのものをいうのだという説があるのだが……
「あ、あのカトーさん……?」
「あ~……、アグは初めてか? この婆ちゃん、たまに和風の料理を目の前にするとぶつぶつ言いながら自分の世界に入っちまう時があるんだな……」
苦笑しながらヨーコはレンゲで卵で綴じた泥鰌を深皿に取ってアグへと手渡した。
9年前はヨーコも今のアグと同じような顔をしていたのだろうか?
確かあの時は「根深汁」といったか? その汁物の名はあやふやであったが料理が出来上がったと同時に突如として瞬きもせずに何やらぶつぶつと小説の一節を朗読するかのようにしながら自分の世界に入り込んでしまったカトーを仲間たちと目を丸くして見守っていたのを昨日のように覚えている。
「放っておいて食おうぜ? せっかくの料理が冷めちまう」
「は、はぁ……」
「うん? 美味い!?」
「ええ! ちょっと小骨が気になりますが、こんなに美味しいと、かえってこれが泥鰌の味なんだって気になりますわね!」
「それに甘塩っぱい味が握り飯に良く合うなぁ!!」
調理するカトーの手際からすると簡単なお手軽料理かと思っていたが、その味は2人の想像を遥かに超えたものであった。
醤油と葱と泥鰌が織りなす香りに、割下と卵の甘さ。
つい数分前の鍋の中でビチバチと暴れる泥鰌が少しずつ大人しくなっていく凄惨な光景など、柳川鍋の旨さの前にあっさりと2人の脳裏から消し飛んでしまっていたほどだ。
すでに日も暮れて夜となり少々、肌寒くなってきた折りの熱い料理ほど美味い物はない。
それからしばらく2人は舌鼓を打っていた。
「さっきまで生きていた小魚がこうして美味い料理になるって、考えてみれば不思議なもんだよな」
「生きるために命を奪う。当然の事ではありますが私は怖いです……」
「……何がだい?」
ヨーコとしてはふと振った話ではあったが、対するアグは存外に真剣な顔をしていた。
「私は自分が生きるためにヨーコさんや総理さんたち、カトーさんたちを死なせてしまうのではないかと心配なのです」
アグが手にしていた皿をテーブルの上に置いた。
アグとの付き合いは今日からだが、それでも伊達や酔狂でそんな事を言い出すような者でない事は分かっていた。
ヨーコは自分を見つめる不安そうな顔の少女の目をしっかりと見つめて口内の泥鰌の脊髄を噛み潰した。
ぼぢり……。
いとも容易く断たれた小魚の肉体を頭の先から尻尾まで奥歯で擦り潰し、そのまま咀嚼する。
「……構わねぇ」
絞り出すように口から出てきたその言葉は彼女の人生哲学そのもの、信念からくる言葉であったが故に小さく、だが揺るぎないものであった。
「そんな……」
「アグ、なんで私の稼業は“ハイエナ”なんて呼ばれているか知っているか? ま、色々とあるんだろうけど、要するに人間扱いされちゃいねぇのさ」
「あら? そりゃあ“ジャッカル”も同じさねぇ。個人経営の傭兵だなんて聞こえはいいがマトモに生きれる人間なら切った張ったの稼業なんざ選ぶわけもない。つまり私らも人間じゃなくて肉食獣ってわけさ!」
いつの間にか我を取り戻していたカトーも話に加わってきたが、ヨーコとカトー、両者の言いたい事はほとんど同じものであった。
「獣にだって誇りがある」
「そんなもののためにあんなに巨大な要塞にたかだか数十機で挑むというのですか?」
「そら、あの機動要塞とやらに比べたらHuMoなんて虫ケラのような物だろうけどねぇ、『一寸の虫にも五分の魂』という言葉もある。それに巨獣を屠る虫なんて世の中には幾らでもいるだろうさね」
もしかすると「敵に挑むのはあくまで自分のプライドのためだ」と言うのが優しさであったかもしれない。
だが、ヨーコはそうはしなかった。
「ダチを悪党がかっ攫おうってんなら、たとえ相手がどんなに強大であろうとブッ飛ばすのがケダモノの論理だ。プライドはその燃料でしかない」
何故だろうか?
その理由はヨーコ自身にも分からなかったが、もしかすると僅か十代の身にして武装犯罪者集団の配下を束ねるヨーコに取って、自らの本心をさらけ出せる友人としてアグを見ていたが故かもしれない。
いや、アグが心配している事をヨーコはまったくもって考慮していなかったからかもしれない。
「第一よ。なんでまた私らが負ける前提で深刻な面してんだ?」
「そうだよ。昼間も言ったけど、勝ち目の無い戦いをしようってわけじゃないんだ」
「でも……」
ヨーコとカトー、そしてアグの見解の相違についてはいくつかの要因があっただろう。
まず、アグは戦士でもパイロットでもないが故にヨーコや総理、カトーたちがいかに優れた実力の持ち主であるかを理解できていない。
彼女にとってもっとも身近なパイロットであるカミュもまた優れたパイロットであったが故に優れたHuMoパイロットとはいってもザラにいるのだろう程度の認識であったのだ。
また、それ故にカトーの作戦の妥当性についても認識できていない。
機動要塞の脚を何本か破壊すれば移動する事も困難であろうという事、廃熱機構を潰してしまえば十分な出力を確保する事はできないであろうという事は日頃からHuMoに乗って戦いに赴いていれば肌感覚でそうだろうと実感できるものであろうが、生憎とアグはその実感も無いままにただ機動要塞の巨大さに圧倒されていたのだ。
だが、それ以上に自分自身で鉄火場に飛び込み戦う覚悟を持った戦士たちと、彼らに自らの命運を任せねばならない抗う術を持たない者の違いも大きかっただろう。




