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「――で?」

『で、とは?』

「とぼけるな。陽美さんのことだ。まさか一時間ずっと、休憩なしで黙々と走り続けたわけじゃないだろう」


 司祭館の台所でトマトを洗いながら、背後の黒犬に問いかける。


『トマトひとつくれたら教えてやるよ』

「犬がトマトを食べるのか」

『どうせ物質の肉体じゃないんだから、何食ったっていいだろう? チョコレートもブドウも、なんならタマネギだってどんと来いだ。生タマネギは泣けるから遠慮するけど。とにかく今はトマトの気分なんだよ。たくさんあるんだから、ひとつぐらいケチケチするなって』

「悪魔と取引はしない」


 わたしは素っ気なく答え、古いスープ皿に大きなトマトをひとつ入れて、床に置いてやった。黒犬はきょとんとし、確かめるように匂いを嗅いでからわたしを見上げ、首をかしげる。


『取引しないんだろ?』

「しないさ。純粋な善意と厚意のおすそわけに与って、清められてしまえ」

『おまえは悪魔か!』

「要らないのなら……」

『いただきまーす』


 調子のいい奴め。わたしは鼻を鳴らし、自分のトマトにかじりついた。


「――!」


 思わず目をみはり、手に持った赤い果実をまじまじ見つめた。足下で黒犬も一瞬動きを止め、次いでほとんど丸呑みの勢いで平らげる。


『うまーい!! なんだこれ最高! めちゃくちゃ甘くて濃厚!』

「まさに天地の恵みの結晶だな」


 あまり頻繁には食事をしないから(少なくともここ数十年は節制している)、比較してどうと言うわけではないけれど、これは本当に驚きの美味しさだ。流通を考えなくていいから枝につけたまま完熟させてあるし、ブドウ畑の土も良いのかもしれない。

 トマトが本来持っている栄養を、申し分なく堪能できる。青臭くも水臭くもない。こんな実りが得られるのなら、誰もが喜んで土を耕すだろう。


『もう一個くれない? なぁなぁ、もう一個』

「味わって食べろよ」


 釘を刺しながらも、おかわりを置いてやる。それからわたしも、もう一口、二口。犬のことを言えない早さで丸一個なくなってしまった。うーん、このままひたすら食べ続けられそうなぐらい美味しいぞ。


『うまいなー、本当にうまい。このままでもいいけど、これでカプレーゼ作ったら最高じゃね? モッツァレラと重ねて上質のオリーブオイルをたらーり、香り高いバジルを添えて』

「ああ、冷えた白ワインがあれば最高だろうな……って、その手に乗るか!」

『チッ』


 危ないところだった。うっかり天使パワーでワインを呼び出しかけたじゃないか。油断も隙もないな!


『素直になれよ、食いしん坊さんめ』

「黙れ、この悪魔」


 少しはこのトマトをもいでくれた喜美子さんの善意に感化されて、おとなしくなればいいのに。度しがたい。もっとも、それが悪魔なわけだが。

 わたしは眉間にしわを寄せ、むっつり無言でトマトをかじる。どうせ一度に食べきれないから、明日はスーパーに行ってカプレーゼの材料を買ってこようか。せっかくいただいたものを工夫して味わわなければもったいない。

 それこそ、こいつの思うつぼかも知れないが……。

 胡散臭げなわたしの視線を意に介さず、黒犬は皿に残った汁をきれいに舐めてから、そこらの床に寝そべった。満足の吐息ひとつ、それからおもむろに語りだす。


『お姉ちゃんは部活の先輩に睨まれてるらしい。どうでもいい細かいことで、いちいち文句を言われるそうだ』

「帰ってきた時にどんよりしてたのも、前に部活のはずが早く帰ってきたりしたのも、その辺りが原因か」

『ああ。なんで学校でまで“オカン”に八つ当たりされなきゃなんないの、だとさ』

「オカン?」

『母親みたいだってことだろ。すげー鬱憤溜まってるな、あれは。あたしには何でもかんでもダメダメダメ、できない、無理、やめろばっかり、そのくせ希美がおねだりすればころっと態度変える、ふざけんな、死ねばいいのに――いやぁ心地いい罵詈雑言だったとも』


 うっとり反芻するように目を細める駄犬が一匹。本当にろくでもないな、悪魔というやつは。とはいえ、わたしでは何時間かけて面談しても、そんな悪態を引き出せやしないだろう。


「道理で、帰ってきた時にすっきりした顔をしていたわけだ。問題は解決しなくても、怒りを吐き出す相手がいれば少しはマシということかな」

『人間には“もの言わぬ友”が必要なのさ。助言だの忠告だの慰めだの、上から目線の言葉なんか欲しくない。かといって友達に話して、わかるーウチの親もー、だとか共感されたって、自分の話が相手の問題にすり替わってしまうだけで、怒りや愚痴を受け止められた実感は得られない。その点、犬はいい。黙って聞いてくれるし、抱きつけば温かいし、毛皮を撫でているだけで癒やされる』


 鼻先を上げて胸を反らせる黒犬の、得意げな様子がおかしくて、わたしはにやにやしながら言ってやった。


「なるほど、陽美さんにとってはおまえが天使なわけだ」

『おいやめろ。なんてこと言うんだ、今まで受けた罵倒の中でも最低最悪の侮辱だぞ!?』

「せっかく褒めたのに」

『馬鹿野郎ふざけるな。うわー、蕁麻疹じんましんが出る!』


 物質の肉体でもないくせに、黒犬は首の後ろを掻きむしり、転がり回って背中を床にこすりつけて大騒ぎする。こんなに効くならもっと頻繁に持ち上げてやりたいところだが、残念ながら、そうそう悪魔の行いを褒められはしない。

 ひとしきり暴れて息切れしている黒犬を見下ろし、わたしは真顔になって問うた。


「そうやって陽美さんの悩みを引き受けて、悪魔に何の得がある? 憤懣をエスカレートさせるような小細工をするなら人間に化けるだろう。その姿でいったい何をした?」

『おいおい、散歩に行けってったのはおまえさんだろ』

「おまえが家族の間の火薬樽に火をつけたから、緊急退避させたんだ。わたしがそうすると見越していたんじゃないのか」

『はて何のことやら?』


 悪魔はとぼけて明後日のほうを向く。わたしは無言でじっと見つめて圧力をかけ続けた。

 ややあって、黒犬は深いため息をついた。人間なら肩を竦めて両手を広げていただろう、そんな顔でわたしを見上げて、仕方なさそうに口を開いた。


『あのなぁ……300年も付き合ってんだから、いい加減にわかれよ。悪魔の仕事は人間を堕落させることじゃない。おまえら天使が“護り導く”のなら、俺たち悪魔は“選ばせてやる”存在なのさ。大いなる神が俺たちを滅ぼさないのはそういう理由だ、って先輩から説明されなかったか? まぁ本当のところ神サマの大層なお考えなんて、わかりゃしねーけどよ』

「人間が自由意志で選ぶのだから悪魔に責任はない――言い逃れの詭弁だな」

『言い逃れるつもりはないさ、俺たちはまさに悪事を成すんだ。人間が堕落すりゃ俺たちの“責任”つまり“手柄”だよ』


 黒犬が牙を剝き、獰猛な笑みをつくる。ああ、やっぱりこいつの本性は邪悪なんだ。

 悩める少女に並んで走り、黙って愚痴を聞いて鬱憤晴らしをさせてやる、そんな忠実な犬のふるまいをしても、そこには誠実さも善良さもひと欠片とてありはしない。すべて上辺の演技。嘘いつわりで塗り固めた仮面。


『それでも俺たちは、手柄が増えるように誘導はしない。いや、する奴もいるが俺はしない。ただ現状をしっかりはっきり見せてやり、選択肢を並べてやる。面白いことに人間ってやつは、そうやって選ばせてやるとたいてい勝手に悪いほうを採るのさ。明日提出期限の課題を先に終わらせるか、続きが気になるゲームを進めてからにするか? 完全にカロリーオーバーなチョコレートケーキを食べるか我慢するか? 通りすがりに鞄をぶつけた無礼者に日頃のイライラを叩きつけてやるか、黙って無視するか? 好きに選べばいい。堕落するのも邪悪に染まるのも、ただの結果なんだ』

「この悪魔め……!」

『おー、それそれ、それこそが褒め言葉だよ! 嬉しいねぇ』


 怒りをこめた刺すような視線も、今にも聖なる炎を喚び出しそうな気迫も、まるで通じていない。たじろぎも警戒もせず、悪魔は悠然と笑っている。わたしは奥歯を噛みしめ、無意識に突き出していた右手を引き戻してぐっと握り、怒りの衝動を鎮めた。

 ゆっくり深く息を吸い、静かに長く、肺が空になるまで吐く。拳をほどいた時には、胸のうちで荒れ狂った炎は小さな燠になっていた。

 黒犬は笑みを消し、つまらなさそうな顔になって、前足の間に鼻を埋めた。


『チッ、いいとこまで行ったのに』

「惜しかったな」


 まったく。危うく怒りに任せて力をふるうところだった。昔はいちいち本気で腹を立てていたが、さすがにこれだけ付き合いが長くなれば制御もできる。

 いくらわたしが天使でも、抱く怒りが正当なものであっても、勢いのままに力をふるってはならない。怒りはさらなる怒りを招き、その炎は次第に手綱を焼き切っていく。堕天にまでは至らなくとも、天使としての存在の格が損なわれていく……要するに、査定に響く。


 はあ。

 疲れを感じ、肩を落としてトマトをもうひとつ。ただでさえ無給なのに、割り当て天使パワーまで減らされたら、とてもじゃないがやっていけない。もういっそ人間に転職しようかな。

 ぼんやり宙を眺めたまま、もぐもぐ口を動かしていると、床から同情が飛んできた。


『おまえも苦労するよなぁ』

「黙れ諸悪の根源」


 神よ、そちらの庭の番犬として、こいつを召し上げてくださいませんか?

 例によってヒヒヒ笑いしている黒犬を一瞥し、わたしは天を仰いだ。


 ……選ばせてやる、か。

 実際のところ天使の仕事だって、どんなに護り導いても手を振り払われることがままある。人が“選ぶ”ことを止められやしないのだ。

 それだけじゃない。導くためには護れない時だってある。

 陽美さんの悩みはなんとかしてあげたいけれど、まわりの人間が皆、彼女に都合のいい言動しかしなくなる、なんてのは、たった一人のために新たな世界を創るようなものだ。天使パワーを使っても無理。


「経験して、学んで、……悩んで迷って苦しんだ後でないと、見付けてくれないんだ」


 つぶやきがこぼれた。我々の示す道が最初から見えていて、手を引かなくてもこっちに来てくれるなら、どんなに素晴らしいだろう。憎しみや苦しみを味わうことなく、邪悪に歪められることもなく、まっすぐに光ある道を歩んでくれたなら。


 だけど現実はこのざま。はらはらしながら見守るしかない。どうかここを乗り越えてくれと祈り、危機から救いもして、それでも結局どうにもできず暗いほうへ堕ちていく魂に、届かぬ手を伸ばし空をつかむ。……無力だ。


『最初っから“正解”を選べるのが人間のあるべき姿だっていうなら、神はそのように創っただろうさ』

「もしそうだったら、世界には天使も悪魔も必要なかっただろうな」


 自嘲めいた台詞を返してしまった。駄目だな、へこむ。

 すると黒犬がフンと鼻を鳴らして一言。


『つまり現実には、俺たちは必要とされているってことじゃないか』


 寝ぼけているのか、とでも言うような声音だった。

 一瞬わたしはぽかんとなり、それからやっと理解する。ああ、いけない。そうだ。わたしが無力でも、天使のつとめが無価値なわけがないじゃないか。我々もまた主によって創られた、この世界に在るべきものだ。それを疑うなんて、どうかしている。


 ……礼を言うべきだろうか。

 わたしは黒犬を黙って見下ろした。この、邪悪な本性を隠した悪魔に?

 思わず苦笑する。向こうだって願い下げだろう。感謝すべき相手はこいつじゃない。その存在をゆるしたもうた御方こそだ。


「栄光は父と子と聖霊に。初めのように今もいつも世々に。アーメン」


 祈りの末尾に犬のわざとらしいくしゃみが重なったけれど、もう腹も立たなかった。


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