物語の自動生成
えー、まぁ、エッセイ2でも触れたことではあります。ですが、焼魚さまの「小説自動生成に学んでみた」を読み、「あれ? これ書いてなかったな」ということがあったので。
人間が何かを記憶する際には「エピソード」や「イベント」という考えが重要になります。まぁ、人間の記憶については、「記憶 種類」とかで検索してもらうとしましょう。まぁ、視点も分類もいろいろあります。ですが、「エピソード記憶」っていうのが引っかかって出てくると思います。
で、その意味でのエピソードでもいいのですが、ともかくは「どういう単位を一つのエピソード/イベント」と認識するかという話があります。まぁ、これがやっかいです。
例えば「今日」という単位もあるでしょうし、「今日の昼飯」という単位もあるでしょう。「今日の昼飯どきにダベった」という単位もあるでしょう。
記憶で実際にどうなっているかはともかく、個人にとって「エピソード/イベント」の認識であるとか設定であるとかは、恣意的なものです。恣意的というのとも違うかもしれません。どういう単位で見るかは、意識すらされないだろうとも思えるからです。
さて、このあたりと書くことについて。
「今日の昼飯どきにダベった」についてであっても、小説においては会話の形式で書くこともできるでしょうし、ただ「今日の昼飯どきにダベった」とだけ書くこともできます。
「今日の昼飯」も、メニューからなにから書くこともできるでしょうし、「今日の昼飯」とだけ書くこともできるでしょう。
「今日」についても、「一日が過ぎた」とかなんとかだけ書くこともできるでしょうし、一日の内容を書くこともできるでしょう。
これをやるには、どうにかして「どこに焦点を当てるか」とかどうとかということが必要になります。そうでなければ、例えば一分単位で何をやっていたか書くか、一日が過ぎたと書くかのどちらかになります。前者であっても後者であっても、小説に限らず文章全般では無理な話になります。あ、一分単位ではなく、「ある特定の作業などなど」を単位にすればと思われるかもしれませんが、それは既にエピソード/イベントの認定をしていますよね。その認定を前提としていないので、一分単位とかという話になってしまうわけです。
あるいはこういう場合も考えることができます。
1. バスに乗った
2. バスの中で友人に会った
3. ダベりながら友人とバスを降りた
ここで問題になるのは3のあたりです。「バスに乗った」から「バスから降りた」を一つのエピソード/イベントとすることも可能でしょう。ですが、「3. ダベりながら友人とバスを降りた」が、「バスに乗っていた」時と「バスを降りた後」を繋いでしまうこともできます。「バスに乗っていた」というのは、もちろんエピソード/イベントの認定のしかたの一つです。ですが、それによって「友人とダベっていた」というエピソード/イベントを分断していい、あるいは分断しなければならないという理由にもならないわけです。どっちでもいいし、かまわないし、ありえるわけです。あぁ、面倒臭い。
それで厄介なのですが、上に書いたように人間の場合、好きなように単位を設定できます。それとともに、その単位は固定されたものではなく、複数の文があれば、文ごとにその単位が違うということもあるわけです。
その単位の認定をその時々でどうするかも面倒なのですが、それに加えて複数のエピソード/イベントが並ぶ場合を考えてみます。一つのエピソード/イベントの設定がかなり自由なので、並んだエピソード/イベント間の繋がりもいろいろと組み合わせがありえます。
まぁ、どうやって作るかについては、元になる台本的なものがあったとしましょう。もちろん、それをどうやって作るのかも面倒臭いわけですが、エピソード/イベントの繋がりの組み合わせをどうやって書いてやるのかも面倒臭いわけです。
意味についても、その記述は面倒臭いわけですが、複数の文となっただけでもまた面倒臭いわけです。
だからといって、それが出来ないわけではないはずです。というのも人間はどうにかしてやっているわけですから。
分析自体は、なろうのエッセイでも触れていますが、プロップのファンクションとか古典的なものがあって、頑張ればなんとかという気にもなるんですが。
物語の生成や認識の研究は、人工知能研究の初期からの課題であり、課題であり続けています。その理由は、今のところ、ともかく面倒臭いから。あるいは、そういう面倒臭い方法以外の視点がいまいちどうもうまくわからないから。そう言っていいと思います。




