物語を読むということ
このエッセイは、『昔話の形態学』(ウラジーミル・プロップ, 水声社)、『物語の構造分析』(ロラン・バルト, みすず書房)を基礎としています。
物語を聞く/読む/観るということは、ただ聞く/読む/観るということではない。
ある物語に「宮沢弘」という登場人物が現れたとしよう。その人物は「宮沢弘」ではない。そして、「宮沢弘ではない誰か」でもない。
ある物語に、「東京」という地名が現れたとしよう。その場所は「東京」ではない。そこは、「ロンドン」なのかもしれず、あるいは「どこでもない」のかもしれない。
ある物語に、「サイボーグ」というガジェット、あるいはそのような設定が現われたとしよう。それは「サイボーグ」ではない。「サイボーグではないなにか」でもないのかもしれない。
それらは、物語全体を聞き/読み/観て、その上でいったい何なのかを理解しなければならない。
「火星」が舞台の物語があったとしよう。そこは、「火星」ではない。
未来的なガジェットが現われたとしよう。それは、それらではない。
現れた人/場所/物は、現れたとおりのものではない。そして、それは時間についても同じであり、世界についても同じである。
それらは、物語全体を聞き/読み/観て、その上でいったい何なのかを理解しなければならない。
物語は、どこをとっても、聞き/読み/観たとおりのものではない。
これは、物語とは比喩や暗喩であるという意味ではない。ただ、聞き/読み/観たとおりのものではないにすぎない。それらは何も比喩しないし、暗喩もしない。
だが、同時に、聞き/読み/観たとおりのものでもある。
それらは、物語全体を聞き/読み/観て、その上でいったい何なのかを理解しなければならない。
今回のエッセイも比喩でもなんでもない。書いたとおりのことが、物語を聞く/読む/観るということだ。そして、今回のエッセイにおける「物語」とは、物語のことではない。




